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カテゴリ:歴史
万里の長城 紀元前214年、北の匈奴に備えるために万里の長城を修復し、将軍蒙恬に30万の兵を与えて北方へ派遣して匈奴を討たせ、オルドス地方に版図を広げた。また罪人を兵として使い、南の嶺南(ベトナム北部)を征服し、ここにも郡を置いた。その際に揚子江の支流・湘江と、広東地方の西江へと流れる漓江を結ぶ運河霊渠を築いた。 紀元前213年に李斯の進言により、周王朝の再興を願い秦王朝を批判する儒学者達の書物を焼き払わせた。ただし医療や農業などの実用書は許した(焚書)。翌年に不老不死の仙薬作りを命じていた侯生と廬生が、仙薬ができないことで恐れて逃亡した。怒った始皇帝は咸陽の学者たちを取り調べて、460人を穴埋めにした(坑儒)。このとき、恐れた学者たちは互いに罪をなすりつけ合った。後に、長子の扶蘇が始皇帝のやり方に対して諫めたが、始皇帝はこれに怒って扶蘇を北方の蒙恬の元へと送り、防衛に当たらせることにした。 始皇帝は自らの領土を大行列を引き連れて巡遊することを好んだ。この巡遊は全部で5回に及び、全国の交通網整備を進めた。この巡遊には、後の天下の覇権争いを行う項羽と劉邦が見学しており、項羽は「いずれ天下を奪い取る」と述べ、一方の劉邦は「男はああなりたいものだ」と述べたと伝えられている。 紀元前219年の2度目の巡遊の途中、始皇帝は泰山で封禅の儀式を行った。この儀式の方式を古例に詳しい儒家に問うたが、封禅の儀式などは最早太古の昔の話であって儒家の言うこともまちまちになっており、怒った始皇帝は儒家の言うことを無視して、儀式を執り行った。記念として泰山刻石を置いた。 紀元前218年の3度目の巡遊の途中、博浪沙(はくろうさ)に通りかかったときに、突然空から大きな鉄槌が始皇帝の車めがけて降って来た。張良による始皇帝への暗殺の試みである。鉄槌は副車に当たり、始皇帝は命拾いをした。怒った始皇帝は犯人の捜索を命じたが、見つからなかった。 天子社の石
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