戦国史探求室

2006/05/02(火)05:33

鹿児島旅行記その18(維新ふるさと館その4)

幕末・明治(8)

先日、ひさしぶりに書き込みをしましたところ、100人を越える方の閲覧をいただき、また励ましのお声を頂きほんとうにありがとうございました。母の病状を見るたびつらくなることはたびたびあるのですが、地道にがんばろうと思います。今後ともよろしくお願いします。また、楽天のブログでお世話になっている方のページにはなかなか書き込みにいけなくて申し訳ございませんが時間に余裕があるときにまた書き込みさせていただきますのでよろしくお願いいたします。 また、先日久々に書き込みしたせいか、一部わかりにくい部分があったかもしれません。 近況のところのまるめの意味は、簡単にいうと定額医療のことで、一月の治療費が定額で、(状況にもよりますが)その間いろいろなアクシデントや病状の変化でいろんな検査・投薬の追加があっても変わらないため、場合によっては、一定額を超えてしまい医療機関としては減益となり、当然その一定額が減額されることは、医療機関の死活問題となりサービス低下につながるわけです。 旅行記その17にでてくる8公2民についてですが、検地により見込まれる年間の収穫量について、そのうちの8割を年貢として薩摩藩に納めるというもので、不作で有ったときは農民にとっては非常にきついものであったのでは、、、本当に生きることができるのか?と思ってしまいます。 薩摩藩(今の鹿児島県)では、明治維新後も士族と農民では格差が是正されず、そういった意味で、差別意識が長く続いたそうです。 ということで、郷中(ごうちゅう)教育の続きです。 解説員「郷中教育は、年長のものが年少のものに、礼節・徳・人間としての基本的素養・振る舞いを教えたそうです。特に薩摩では、見苦しい振る舞いや卑怯な振る舞いがもっとも嫌われ、郷中教育の基本には「負けるな・嘘をいうな・弱いものいじめをするな」の3つの基本を武道・遊びのなかから教えられるのです」 ということで、郷中教育の組織についてですが、郷(方中)といわれる土地の単位の6歳~25歳ぐらいの子が集まり、そのうち以下のように区分された。 稚児(ちご) 小稚児(こちご)6歳~10歳        長稚児(おせちご)11~14歳 15歳(稚児頭) 二才(にせ) 14歳以後の元服した子~24・25歳(二才頭) となっており、二才が、武芸・学問を教え、、稚児のなかでも長稚児が、小稚児の指導をする形となっていました。 そして、その教育の基本の心得については、創設者の新納(にいろ)忠元(ただもと)によりかかれた「二才咄格式定目(にせばなしかくしきじょうもく)」と日新公(島津忠良のことで、薩摩藩の開祖島津家久公(島津義弘公の息子)の曽祖父)のいろは歌が指導の指針となたとのことです。 (いろは歌については、次回触れます。) で、この二才咄格式定目についてですが、内容は、 1、武道をたしなめ 1、日ごろから士として身辺油断なく過ごせ 1、先輩のうちに行くときは無駄に長居せず用が済んだらすぐかえること 1、郷中教育については、膝を突き合わせて話し合うことが肝心である 1、親しき仲にも無作法・過言は許されないものである。古風をまもれ 1、議論する際は双方納得がいくまで何度も論をつめ落ち度のないようにすること 1、嘘をいわないこと、士道の一番の真意である 1、忠孝の道は心がけるべきであるが不測の事態のときは場遅れしないよう迅速に動くこと。 1、山坂を登り足腰を鍛えよ 1、二才はひげをそり前髪をそろえるほかすべてにおいて武辺を心がけ忠孝の道に背かないこと 以上のことを堅く守ること。これにそむけば二才として扱わない。 うーん、現在の教育にもつながるところも多々あるようにおもいますね^^ ということで、次回はいろは歌の話をいくつか例にとって見てみようかと思ってます。

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