2006/09/27(水)00:32
鹿児島旅行記その22
また少し間が開きすいません。
連休中にも多くの方に来ていただきながら余裕がなく更新できずすいませんでした。
ということで、お話の続きです。
こっから、やっと本論?の西郷隆盛?の話です。
「西郷隆盛は、1827年12月7日に、鹿児島城下の下加治屋町(したかじやまち)で、西郷吉兵衛(きちべえ)の長男として産まれた。西郷家は、藤原姓で、南朝(南北時代の南朝)の菊池武光(たけみつ)の後裔で、元禄時代に、西郷九兵衛が、島津家につかえ、西郷隆盛で7代目となります。西郷は、幼名を小吉(こきち)といい、元服後は、隆永(たかなが)・通称を吉之助といいました。と、いうことで、実は隆盛は、本名ではありません。これは、(後述しますが)幕府との対外的な問題もあり、島流しにあい、その後藩主に許されて出仕した際、幕府からの追及を逃れるために、父親の元服名隆盛を名乗ったというもので、明治維新後も、そのまま使い続けたため、そのまま定着してしまいました。
西郷の家族構成は、祖父龍右衛門と祖母、父吉兵衛と母マサのほか、琴・吉二郎・鷹・安・信吾・小兵衛と6人の弟妹がおり、使用人を含め家内の人数は、16人でした。
西郷家の家柄は、小姓組(こしょう)でした。この身分は、薩摩藩では、士族を、城下士・外城士(とじょうし)・卒・陪臣(ばいしん)にわけ、城下士(じょうかし)をさらに、一門・門閥・一所もち・寄合・小番・新番・小姓組・与力に区分しており、城下士の身分では低いほうでしたが、役としては、勘定方小頭で、士族家庭のお財布の管理をしていたのでした。持高は、47石(1石が一応人一人が一年食べる分の田畑)であったが、実際は名目上であったらしいです。隆盛兄弟が、冬1枚の布団を取り合うほど苦しかったそうですが、そのひとつの元凶として、父が、廻船問屋の板垣さんから100両のお金をかりて、41石の禄高を買い足したものの、翌年藩が禄高に更に高い公定価格を設定してさらに100両の追徴金がかかり、その分も借金も背負ったためといわれています。結局、西郷家は、その後利子も払えず20年間借金したままとなり、返却は、西郷隆盛が、20年後明治政府に入閣してから返却したそうです。(ぎゃくにいうと、借金を大目に見てもらえるぐらいの家柄では有ったらしいのですが)
そうした、貧しい中で、弟妹の面倒をみつつ家の手伝いをしていたようです。
西郷隆盛さんは、上野の銅像のように大きくは有ったのですが、島流しにあうまでは、太ってはいませんで、すらっと細長かったそうです。
また、非常に良い体格でしたが、11歳のときに別の方限のものと喧嘩した際、右腕にさけた剣の鞘が当たり、大怪我をし、伸ばせなくなったそうで、(自分も剣道をやっていたので、わかるんですが、腕をうまく伸ばせないと剣先のスピードが出せないので、上達しないのです)それ以後、剣より読書に励むようになったそうです。
ちょっと前後しますが、8歳のころ、藩の聖堂に通い、よみかきそろばんをならいはじめました。
体の大きい無口な気の利かぬ少年だったそうです。そこで、大久保利通・海江田信義らと学び、大久保の議論に西郷さんは耳を傾けていたそうです(このころ、(1834年)天保の改革・徐々に幕末の様相を帯びてきています)」
と、幼少期から、いろいろと、苦労はあるものの、その後の人生にかかわる交友関係ヶ築かれていった時であったようです。
というわけで、今日はここまでです。(なんか、あんまり日記っぽくなくなってきちゃってすいません・・・)