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カテゴリ:”はは”の気持ち
一生が退院して生活は変わり、一生の医療行為と監視に疲れた私が考えたこと「一生と一緒に死・・・」でも出来なかった
こんなこともあったと今は思います 疲れ、悩み何も出来なくなる私がいました。 私が一生の吸引をいなっかたらどうなっていただろう? 私が栄養チューブにミルクを入れなかったらどうなっていただろう? 呼吸が気になり眠ることが出来ず座ったまま一生を抱き一睡もしなかったらどうなっていただろう? 私が何もしなかったら、きっと一生はここにはいないたでだろう。 何も手に付かない私がいました。でも何もしないでいることは出来ないがけっぷちの私がいました。 そこには{死}という現実があったから 生きてと願った親だから、私が一生を苦しめるわけにはいかない責任があります 動くことで一生に何が出来ることを検索している今の私がいます 笑っている元気いっぱいの私がいます この元気は、心からあふれ出た涙を隠すためかもしれません 一生の元気な姿、私の希望 一生のあどけない笑顔、私の悩む心を癒してくれます 我が子と共に親は成長しているのだと思います こんな風に思えるのは 希望と努力を惜しまないステキな、そして元気なお母さんと出会い、言葉をかけてもらったからかもしれません 「うちの子何回も死んでいるよ。これから心臓移植で海外に行くけど可能性なんか解らない、それでも笑っていってきます」この言葉が私の元気のもと 希望は捨てない、笑って行動するステキなお母さんのお手本があるから今の私がいます お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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