思い出のパスポート(最終回)
船の別れ・・・・通貨交換業務で沖縄での勤務は24時間交代で、宿泊先は3000トンのカーフェリー(ふじ号)だった。1日おきに休みになるので、非番の日は昼間「国際通り」や「平和通り」などに買い物や見学に出かけた。当時「ジョニ黒」「ジョニ赤」というウイスキーが沖縄では安く買えるということで土産に買い込んだものだ。しかし夜の外出は一回もした記憶がない。というか禁止されていたのかも知れない。もし仮に禁止されていなくても夜は外出しなかっただろう。と言うのは夜の街がいかに物騒か上司から聞いていたし、現に一緒に勤務した地元の警察官から、コザ市の歓楽街は「白人が遊ぶ通り」と「黒人が遊ぶ通り」が暗黙のうちに別れており、週末ともなると双方が入り混じって喧嘩、大乱闘になる。機動隊は毎週近くで待機していると聞いた。自衛隊ではないのだ。戦争を経験したプロの軍人だ。しかも2メートル級。日本に観光に来る黒人さんとは全く違う。何が?。目が違う。鋭く光っている。黒色がさらに黒い。そしてそんな人がいっぱいいるのだ・・・・。外出が許可になっていたとしても、たぶん夜の歓楽街には行かなかったと思う。宮崎県警で良かったと本気で思った。当時その他感じたことは、沖縄の人達が日本のことを「本土」と呼んでいたことだった。実は沖縄では、「本土」という言葉は禁句だと指示されていたと思うが、沖縄の人達は何ら違和感もなく「本土・本土」と言って話しかけてきた。例えば「あんた本土の人でしょう。本土のどこから来たの。東京?」といった具合。しかし中には隊員が「俺宮崎から」と言っても「うそッあんたは沖縄よ」と信用されず、むきになって「警察手帳」を見せていた者もいたな・・・。沖縄と宮崎どこで判断するのだろう。言葉かなと思ったものだ。このようなことで平穏のうちに業務が終わり、最終日は沖縄見学の後、琉球銀行や地元警察との昼食会。午後4時、安謝新港において沖縄県警察とのお別れ会。当時のアルバムに《6日間にわたる通貨交換業務警備を終了した派遣機動隊400名は、沖縄県警の幹部及び県警機動隊員の見送りを受けて「ふじ号」に乗り込み、4機の演奏する「蛍の光」を聞きながら沖縄を離れた。船の別れは淋しい。声を出して泣く隊員も多かった。その気持ちは無事任務を終えた隊員しかわからない・・・・。さようなら沖縄》と書いている。生涯忘れることのできない若き日の思い出と、1冊のパスポートである。 ~写真は任務を終え、乗船する機動隊員。6日前にはこの写真の反対、つま り下船する私達の写真が大きく新聞で報道されていた~。