◇■愛の象(かたち)■◇泉鏡花『外科室』
泉鏡花は明治後期から昭和にかけて活躍した作家。夏目漱石・芥川龍之介と同時代ですが、鏡花は幻想的・観念的と言われる作品を多く残しました。 『外科室』は1895年に発表された短編で、『夜行巡査』と共に本格的な作家生活に入る契機となった作品です。婚姻という因習の制度に捕らわれない愛を、高峰の友人である画家を語り手にして描きます。 医学士の高峰は、貴船伯爵夫人の手術を執刀することになっていました。しかし、当日になって、夫人は麻酔なしでやってほしいと言い出します。その理由は「麻酔がかかるとうわごとを言ってしまうから」というものでした。 もちろん、麻酔なしでは痛みに耐えられない虞も、身動きして手術に差し支える虞もあるので、周囲は大反対です。(ちなみに全身麻酔手術を世界で初めて成功させたのは花岡青洲で、1804年のことです。) 反対を押し切った高峰の決意があって夫人の手術が始まりますが… 痛みを問う高峰に「あなただから」と答えた夫人は「でも、あなたはわたしを知りますまい!」と言い高峰のメスを持った手を握り、夫人は自らの胸に引き付け、掻き切ります。「忘れません」という高峰の答えに微笑み、夫人は命尽きます。 現代の日比谷公園 高峰と夫人の出会いは9年前でした。つつじが咲く小石川植物園で、まだ医大生だった高峰と語り手は、見るからに上流階級の夫人たちの一行とすれ違いました。夫人と出会った直後、高峰は女性関係を持たないことを決め「真の美の人を動かすこと、あのとおりさ」と言います。 その言葉の通り、高峰は独身を貫いていました。 9年前の刹那の出会いから、夫人以外の女性を見なかった高峰。あの時、夫人もまた高峰への思いを胸に抱き、9年間をすごしてきました。そして、死に直面してやっと互いの思いを確認できたのでした。 手術の当日、時を経ず高峰も亡くなりました。 夫人は伯爵に嫁ぐほどの家柄、対して高峰はただの医学生、医師です。今でこそお医者様は上級ステータスですが、特別家柄がいいのでなければ、ふたりが結ばれることなどあり得ませんでした。 現代人の私からすると、令嬢を大事にしろよ、娘の気持ちを考えろと言いたくなりますが、時代背景を考えると、秘めた純愛の美しい物語と言わざるを得ません。 手術室での簡潔なふたりの会話から伝わる思いは、純粋できれいだと思います。 ふたりの愛が宗教的に許されるか否かは、人に判断できる問題ではないでしょう。裁くのは神のみです。自分に何の罪のないと言える人だけが裁きの礫を投げればよいのです。 参照元:泉鏡花『高野聖』角川文庫から 『外科室』