60ばーばの手習い帳

2018/01/22(月)00:00

***子規に習った漱石の俳句***

詩とやまと歌と(170)

​  昨年末の朝日新聞に「漱石から子規への三通の手紙が発見された」という記事が 載りました。  文面は「漱石全集」に載っていたものの、実物が確認されていなかった手紙を、 二松学舎大学が入手したということです。  漱石と子規は、第一高等中学校(現・東大教養学部)の同級生。 明治22年に喀血し肺病と診断された子規を激励しようと送った手紙に ​​帰ろふと泣かずに笑へ時鳥(ほととぎす) 聞かふとて誰も待たぬに時鳥​​​という句がみられます。今日まで残る漱石の俳句の中で最も古いものです。 子規・漱石とも22歳。「ほととぎす」は、血を吐くまで鳴く鳥と言われ、暗に肺病(患者)を指します。 「松山に帰ろうと悲嘆に暮れず、病を笑い飛ばしてくれよ」「誰も罹ろうとして なったのではないのに、肺病に罹ってしまったことだ」  子規という俳号も「ほととぎす」。血を吐くまで鳴く時鳥に、自らを重ねて使い 始めました。子規のそのときの句の一つ。 ​​卯の花をめがけてきたか時鳥​​  明治28年、本格的に俳句に興味をもった漱石は、子規に教えを請います。  ​​「小生近頃俳門に入らんと存候。御閑暇の節は御高示を仰ぎたく候」​​​​​​​の手紙が、確認された中の一通です。  その後、子規は松山で、漱石のもとに居候した時期もあります。 漱石に言わせると図図しい居候だったようですが。  蚊…か ​​ 叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな​漱石の滑稽趣味の代表句といわれます。 ​​衣更えて京より嫁を貰ひけり​    漱石の結婚報告​蓁蓁(しんしん)たる桃の青葉や君娶る     子規​ 明治33年、漱石はイギリス留学のため、国を離れました。子規は漱石の帰国を 待たず、亡くなりました。 ​​「小生出発の当時より生きて面会致す事は到底叶ひ申間敷と候」​漱石は子規の死を覚悟していたようです。お互いの才能を認め合い、温かな 親交のあったふたりでした。​「漱石」という名も、子規がたくさん持っていた ペンネームの中から譲り受けたものです。   引用・​​​​​​​​参照元:復本一郎『俳句の発見ー正岡子規とその時代』日本放送出版協会

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る