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カテゴリ:詩とやまと歌と
昨年末の朝日新聞に「漱石から子規への三通の手紙が発見された」という記事が 載りました。 文面は「漱石全集」に載っていたものの、実物が確認されていなかった手紙を、 二松学舎大学が入手したということです。 漱石と子規は、第一高等中学校(現・東大教養学部)の同級生。 明治22年に喀血し肺病と診断された子規を激励しようと送った手紙に 帰ろふと泣かずに笑へ時鳥(ほととぎす)という句がみられます。今日まで残る漱石の俳句の中で最も古いものです。 子規・漱石とも22歳。「ほととぎす」は、血を吐くまで鳴く鳥と言われ、暗に肺病(患者)を指します。 「松山に帰ろうと悲嘆に暮れず、病を笑い飛ばしてくれよ」「誰も罹ろうとして なったのではないのに、肺病に罹ってしまったことだ」 子規という俳号も「ほととぎす」。血を吐くまで鳴く時鳥に、自らを重ねて使い 始めました。子規のそのときの句の一つ。 卯の花をめがけてきたか時鳥 明治28年、本格的に俳句に興味をもった漱石は、子規に教えを請います。 「小生近頃俳門に入らんと存候。御閑暇の節は御高示を仰ぎたく候」の手紙が、確認された中の一通です。 その後、子規は松山で、漱石のもとに居候した時期もあります。 漱石に言わせると図図しい居候だったようですが。 蚊…か 叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな漱石の滑稽趣味の代表句といわれます。 衣更えて京より嫁を貰ひけり 漱石の結婚報告 蓁蓁(しんしん)たる桃の青葉や君娶る 子規 明治33年、漱石はイギリス留学のため、国を離れました。子規は漱石の帰国を 待たず、亡くなりました。 「小生出発の当時より生きて面会致す事は到底叶ひ申間敷と候」漱石は子規の死を覚悟していたようです。お互いの才能を認め合い、温かな 親交のあったふたりでした。「漱石」という名も、子規がたくさん持っていた ペンネームの中から譲り受けたものです。 引用・参照元:復本一郎『俳句の発見ー正岡子規とその時代』日本放送出版協会 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
January 22, 2018 12:00:30 AM
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