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2020末法元年                   ボンゾー(竺河原凡三)の般若月法

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2007年11月01日
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カテゴリ:仏法
「百界千如(ひゃっかいせんにょ)は有情を尽くすも、一念三千(いちねんさんぜん)は有情非情にわたる。倭(わ)の蓮法師(れんほっし)が後にこれに気付き、主著にもあらわしたが、わしとしては、この世とあの世と、そしてすべての法界が生まれ出づる前より存在している真空の法界をも、すべてに網羅するために前提としておきたかった、わしなりの、いわば阿毘達磨倶舎(あびだつまくしゃ)、すなわち諸法を解説(げせつ)する蔵(くら)というわけじゃ。要するに、仏法ゆきわたらざるところはなく、三千法界にひらく世界どこであろうと、我々、山川草木人獣鳥虫(さんせんそうもくじんじゅうちょうちゅう)が即身成仏(そくしんじょうぶつ)する種は、みおちみちておるのじゃ。その先の観心(かんじん)の観心、すなわち、本尊については、のちの蓮にゆだねるとして、その台(たい)の観心のしんじちの法門の甚深(じんじん)をおぬしに授けよう」


「無辺行(むへんぎょう)菩薩よ、ここで、ひとつ質問をさせてください。百界千如に加えられる三世間(さんせけん)は、五陰(ごおん)世間と、衆生(しゅじょう)世間と、国土(こくど)世間とに分かたれますが、その分類に疑義がございます。衆生は、五陰、すなわち五蘊(ごうん)が来り集まって固まったものでありますがゆえ、異なる分類にするには重なりがあるのではないでしょうか。また、器(き)世間とも呼ばれる国土世間は、十界(じっかい)の棲処(すみか)の空間と異なるところはなく、千如を三千に分け隔ててみても、数学の幻術があるだけで、その名字(みょうじ)にはあまり意味がないようにも思えるのですが……」


「それは、よい問いじゃ。さればこそ、きょうの説示では、三世間(さんせけん)と十如是(じゅうにょぜ)を乗じて、30世間とし、それに十法界(じっぽっかい)たがいに具(ぐ)する100法界を乗ずる数学を、わしは採用しておらないのじゃ。書では、わしはたしかにそう言った。しかるに、いまは、蓮の分類にもしたがって、十界互具(じっかいごぐ)する法界を十如是で、まずは乗じたのじゃ。これは、いわば生き物の世界じゃ。五蘊と衆生と器との三世間こそは、わしが、『妙法蓮華経』に付け加えた中華台(たい)の観心のための方便じゃった。それを、おぬしに分かりやすいように乗算法を変えてみて、解説して来たわけじゃ。

 諸法の実相のおもての相をみたならば、そこには環境に変化しない生まれつきの性があり、実体の本質があり、潜在能力があり、そして、それらが顕現(けんげん)すると活動と行為があるのじゃ。因業(いんごう)は、無明(むみょう)と渇愛(かつあい)が縁となってたすけられ、今生と来世の果報を作するのじゃ。因にむくいて報ずるとは、あの世の世界をいったんとおって、輪廻転生することじゃ。相を本とし、報を末とするのじゃ。本末(ほんまつ)は、すべて縁から生ずる。ゆえに、九つの如是(にょぜ)には、実体の本質というものがあったとしも、名字(みょうじ)の空(くう)があるのみじゃ。ゆえに、実体そのものはない。

 如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等という、文字(もんじ)という仮名(けみょう)の空が、本末に究竟(くきょう)に平等にゆきわたっているにすぎぬのじゃ。相でおりながら無相、無相でおりながら相、相でもなく無相でもない如是、縁でおりながら無縁、無縁でおりながら縁、縁でもなく無縁でもない如是、報でおりながら無報、無報でおりながら報、報でもなく無報でもない如是……、是(これ)の如(ごとく)く、それぞれがあるがままに空性中道(くうしょうちゅうどう)であり、仮名の言の葉の理屈をも超えて、究極に本と末が平等にゆきわたっているということじゃ。

 諸法を客観的かつ内省的に見極めること、そして、おのずからの生と謙虚に重ね合わせること、それを、己が心の中の人間界の十界で覚ることが出来れば、百界が成仏じゃ。渇愛(かつあい)ではなく慈悲の心でもって、鳥や獣の物言えぬ存在の相と非存在の報が分かれば、餓鬼道の飢えの苦しみも分かれば、三百界が成仏じゃ。それらは、十法界がたがいを具する十界互具の世界じゃ。法界が、空性が平等にゆきわたる世界と覚れば、たちまちに百界千如(ひゃっかいせんにょ)に花開こうぞ。しかるに法華の観心は、そこにとどまるものではなかったのじゃ。それは、肉に骨にかたまった有情差別(しゃべつ)の覚りの世界じゃ。応身(おうじん)であらせられたシャーキヤムニ・ブッダが、法華涅槃時(ほっけねんはんじ)にあえて示された慈悲は、山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)のあまねきにゆきわたらぬとこなきの仏法だったのじゃ。

 十界互具とは、いわば仏法に内在する空間論である。我々は、そこに生きておってじつは生きておらない。菩提心(ぼだいしん)をおこしたものだけが覚る世界じゃ。十如是とは、縁起(えんぎ)の空観(くうがん)の言語体系である。我々は、因縁果報について、言葉という仮名名字(けみょうみょうじ)を用いて、順序だって戯論(けろん)ではなく、かくのごとく解説(げせつ)出来る。これは、いわば仏法の言語学である。

 そして、三世間とは、いわば仏法に内在する時間論である。第一に、始まりも終わりもなく、宇宙空間を絶対的に持続する時間。第二に、有情の生活するところに流れとどまり伸縮する時間、第三に、空間に外在化される時間と、時間には三つの区別がある。すなわち、三世間じゃ。世間とはいうが、じつはこれは三つの時間論なのじゃ。

 三種の世間を発見し、観心をいたすことこそは、いっしょう生き身に『妙法蓮華経』を読みくだいた、わしの最大の仕事じゃった。これにより、止観(しかん)は有情を乗り越え、無情非情をも乗り越え、ハマー(摩訶)に達し、般若波羅蜜多は成ったのじゃ」

 アナンタ・チャーリトラは、いよいよ止観業(しかんごう)の要諦(ようたい)を明かさんと、ボンゾを見つめた。

(陰暦9月22日 楽天大衆=大衆=に示す 『法華経秘釈』第2巻つづく)





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最終更新日  2007年11月01日 18時40分04秒


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