本のタイトル・作者
行く、行った、行ってしまった (エクス・リブリス) [ ジェニー・エルペンベック ]
"GO,WEST,GONE"
by Jenny Erpenbeck
本の目次・あらすじ
東ドイツのベルリンに生まれたリヒャルトは、社会主義の世界で育った。
今は古典文献学の教授を定年で辞し、亡くなった妻と過ごした家に暮らす。
目の前にある湖には、溺れた男が沈んでいる。
ある日、リヒャルトはオラニエン広場のアフリカ難民たちがハンガーストライキをしていることを知り、彼らへの質問リストを作成する。
彼らは何故ここにいるのか?どこで育ち、何を話し、どう生きてきたのか?
純粋な好奇心から始まった交流は、リヒャルトの世界を変えていく。
引用
アフリカ人たちはきっと、ヒトラーが誰かは知らないだろうが、そうだとしても―――彼らがいまドイツで生き延びることができて初めて、ヒトラーは本当に戦争に負けたことになるのだ。
感想
2021年304冊目
★★★★
"gehen ging gegangen"
ドイツ語の活用をタイトルにした作品。
アフリカ人たちが繰り返し繰り返し、ドイツ語の講座を受ける―――幾度も中止されるから、初級の活用形を何度もやることになる。
トーマス・マン賞受賞作。
朝日新聞の書評で紹介されていた。
353pで余白が少なく、文字が小さいのでなかなか読み始められなかったけれど、読みだすと一気読み。
ドイツの移民問題、詳しくなくて。ヨーロッパもそうなんだけど。
中東だけじゃないんだね。アフリカ難民もいるんだ。
ドイツは寛容で、積極的に受け入れている(そして軋轢が生じている)という位の知識だったのだけれど、この本を読んで色々知ることが出来た。その制度について。
ダブリン協定では、シェンゲン協定適用範囲の国で、いちばん最初の国で庇護申請をしないといけない。
だからイタリアやギリシャに難民が溢れる。
彼らは他の国へ放出する―――そして他の国は最初の国へ送り返そうとする。
この地球上に自分ひとり休める場所もないのか、という問い。
起きて半畳寝て一畳。それなのに地上の土地は誰かのもので、みんなどこかの国。
そしてそこから出た人は、その地を踏むことも出来ない。
身を横たえて休むことも。
「我々は目に見える存在になる」
と、難民たちはプラカードを掲げる。
目に見える存在に。
その前を通り過ぎていく人たち。
新聞に、テレビに、ネットに、非難が殺到し溢れる。
自分の国へ帰れ。
それが目に見える存在になることなのか。
圧倒的な格差。
片方は富と平和を享受し、けれど身を横たえる場所も与えない。
絶望の中にいる人に手を差し伸べることは、むしろ倫理に反することのように言われる。
犯罪が増える!仕事が奪われる!文化が破壊される!
肌の色が、宗教が、文化が、言葉が違う。
差異は軋轢を生み、誤解が誘導される。
私たちはもう、その過ちを何度も繰り返したはずなのに。
難民の中には、ドイツ語がまったく話せない者もいる。
一方で、現地語、現地の公用語、イタリア語(難民としてはじめて入国した国の言葉)、英語、ドイツ語を話す者もいる。
また、生まれ育った土地でそれぞれ持っていた仕事のスキルもある。
けれどそれは、すべて無視される。
フラットな「難民」にくくられ、働かない者たちとなる。
働くことは許されないのに。働き口もないのに。
はじめ、知的好奇心から難民を「観察」しようとしていたリヒャルトは、徐々に彼らの中に入っていく。
支配や差別には、いつも「見る者」と「見られる者」がいる。
暗黙の、「優れた者」と「劣った者」の線引き。
リヒャルトは、難民の友人が増えていく中で、さまざまなことを知る。
それらの国の名前、歴史、紛争、戦争、迫害、通貨、言葉、文化。
リヒャルトはその過程を楽しむ。
未知の世界が開けていくことを純粋に驚きをもって迎える。
彼は難民の「サポーター」ではない。
むしろ不純な動機(己の知的好奇心を満たすため)に難民たちに近づいた白人の老人だ。
それでも、知ることで彼の世界は広がっていく。視界が開けていく。
これまで「難民」の言葉に覆われていたそれが、バリエーションに富み、個々の人間の人生であることに気づく。
それが自分のものと、同じであることに。
行く、行った、行ってしまった。
リヒャルトは不倫をしていたし、女好きのようだし、後ろ暗い過去もある(そのせいで妻はアルコールに溺れ、死んでしまった)。
最後に行き場を失った皆をリヒャルトは最大限自宅に引き入れ、庭でキャンプファイヤーをする。
そこで、「見る者」と「見られる者」だった彼らは、皆肩を並べ同じ火を見つめる。
正しいことをする。
何が正しいかが分かっていても、それは難しい。
信じても裏切られることもある。
芽生え始めた友情が、踏みにじられてしまうことも。
ならば初めから信じなければよかったのか。優しくしなければ傷つくこともなかったのか。
それでも手を伸ばせるだろうか。
その考え自体がすでに傲慢だとしても。
リヒャルトとその友人たちは、東西ドイツの時代に育った。
だからこそ、今のこの状態がいつ崩れ去るともしれないと知っている。
次に逃げ出すのは自分たちかもしれない。
手を差し伸べられることを望むのは、己かもしれない。
見る者、見られる者、見えない者。
行く、行った、行ってしまった。
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