本のタイトル・作者
やりなおし世界文学 [ 津村 記久子 ]
本の目次・あらすじ
ギャツビーは華麗か我々か?-スコット・フィツジェラルド『華麗なるギャツビー』
あるお屋敷のブラックな仕事ーヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』
「脂肪の塊」は気のいい人なのにーモーパッサン『脂肪の塊・テリエ館』
流れよ理不尽の破滅型SF-フィリップ・K・ディック『流れよわが涙、と警官は言った』
こんな川べで暮らしてみたいーケネス・グレーアム『たのしい川べ』
スパイと旅する人間模様ーサマセット・モーム『アシェンデン 英国秘密情報部員の手記』
頑張れわらの女ーカトリーヌ・アルレー『わらの女』
レモンの上司がパインとはーアガサ・クリスティー『パーカー・パイン登場』
技と感動のくだらなさーフレドリック・ブラウン『スポンサーから一言』
終わりのない夜に生まれつくということーアガサ・クリスティー『終りなき夜に生れつく』
ほか、全92作品。
引用
心の準備ができていない。なんだか言い訳じみた言葉なのだけれども、自分が戦争に関わる書物をまだあまり読めないという理由の大半はこれだと思う。書物を通じて自分が傷つくのを恐れている。誰かの恐怖や嘆きを追体験することを恐れている。自分は未熟な人間なので、それを受け入れられないと思う。こういう、ある意味けちくさい、世知辛いことを考えるのは、自分自身の時間や精神の余裕の残りを数えるようになる大人になってからなので、だからこそ、戦争に関する教育は子供の時に必要なのだと思う。四則計算や最低限の漢字と同じで、戦争が嫌だということは、人間が生きていくために必要な知識であり実感なのだ。
感想
2022年336冊目
★★★
「本の時間」2013年2月号~9月号、
「波」2014年6月号~2018年12月号、
Webマガジン「考える人」2018年12月20日~2021年1月25日
に掲載された「やりなおし世界文学」という連載に、
2015年6月30日毎日新聞夕刊「読書日記」の『サキ短編集』、
書き下しの『カラーマゾフの兄弟』『荒涼館』を加えた書評本。
いやあ、10年くらいに渡る書評を集めたとはいえ、その読了数がすごい数。
そしてそのどれもが古典というか、歴史的に有名なものばかり。
タイトルを聞いたことがあるような(ないような)、おぼろげに粗筋を知っているような知らないような、それら。
書評って不思議だなあと思う。
あくまでもその本を紹介するものであるから、大前提として大まかな物語の流れを紹介しつつ、けれどネタバレにならないように、これから読む人の読書の楽しみを奪わないように配慮して、なおかつその本の面白さを自分の受け取った印象で伝える。
それをきっかけに「私も読もう」と思う本もあるけれど、多くの本は読まないままに、その人の感想を読んだことだけが自分の中に残っている。
その本の概要が知りたいだけなら、まとめサイトがある。
本の要約サービスだってあるくらいだ。
じゃあそれと書評と何が違うねんってなったら、それはやっぱりその「読んだ人のフィルターを通してみる本」なのだと思う。
だから書評を読むときに、私は「この人が言うならば」という人の書評を読むようにしている。
作家の人はだいたいが「自分もものすごく本を読むのが好き」「めちゃくちゃ本を読む」という人が多いので、信頼できる作家さんの書く書評を読むのは楽しい。
それは既存の物語を足掛かりに語られる新しい物語のようだから。
ある本をきっかけに想起される記憶の開陳。
今回だと、津村記久子さんの細かいツッコミが面白くて、笑いながら読みました。
それは何と言うか、友達が「こんなことあってなー」と話をしてくれるみたいな。
ひとつの「物語」の定型を成している、つかみとオチがあるネタまで昇華した失敗談。
あるいは止めどない「わかるー!」「えー、ひっどー!」という共感を呼び起こす愚痴。
物語で立ち現れる「場の共有」とでもいうのか、語られることによって一緒にその出来事を経験するような、それが「本」であるのだと思う。
私は自分が毎回毎回、本の感想をつらつら書き綴っていて、「こんなん読んで誰がおもろいねん」と毒づいて、ふと我に返り「時間の無駄じゃなかろうか」と思うんだけど。
それでも、どこかで誰かが、私とその言葉を共有してくれるんじゃないかという幻想が捨てきれないのかもしれない。
その本をあなたは永遠に読まなくても構わない。
私はただ、私が見たものを、私が聞いたことを、話したいだけ。
聞いて欲しいだけ。
美味しいものを食べるとき。
あるいは美しい花を空を見て、人は写真を撮る。
その刹那のものが、消えてしまうと知っているから。
残しておきたい。
そこにあったことを、覚えておきたい。
忘れたくない。
本の感想も、同じなのかなと思うことがある。
読んだことがない本を、開く。
読み通して、本を閉じる。
本自体は何も変わるところがない―――多少ページの端が傷んだとしても。
変わったのは、ちっとも変わっていないように見える、私。
『子規句集』のところで、津村さんが「文章には、読む人の想像力のリソースを利用する」と仰っていた。
だからこそ、同じ本を読んでも、その人によって見えているものが違う。
それは、監督の違う映像化作品が複数あるようなものだと私は思う。
私はだからこそ自分の映像を見せたいし、他の人のバージョン違いも見たい。
立ち上がり、消えていく、泡沫のようなその時々の読書。
津村さんが読んだ本のうち、私は死ぬまでにいったい何冊を実際手に取って読むだろう。
読んでみたいなと思った本の多くは、それを読みたいと思ったことさえ忘れてしまう。
けれど私のどこかに、その人の見た景色が残っている。
美しい写真を見せられた後みたいに、目に焼き付く。
興奮した話し声が、そっと記憶の隅へ仕舞われる。
その残影が、残響が、私の新たな想像力の源になる。
本を読むことは、何になるだろう。
圧倒的な暴力の前に、言葉は何と無力だろう。
消費される虚言、空疎な美辞麗句、強硬なスローガン。
「覆われ、隠され、秘められる真実」。
それでも言葉が未来を作る。世界を変える。
「あとがき」で、津村さんは本を読んでくださいと言う。
読書に戦争を止める直接的な力はなくても、それは暴力を排除する力に繋がると。
知っていること、知ろうとすること、考え続けること。
誰かが残した言葉を、自分の中に取り込む。
頁に書き記した人の血が滲んでいるような本を、読まなくてはいけないだろう。
風化の前に言葉は掻き消え、失われたものは戻らない。
還らない記憶を手に取り、読むことは残された者の義務のようでもある。
それを想像力の原資に、現実の血肉にして。
これまでの関連レビュー
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大阪的 (コーヒーと一冊) [ 津村記久子×江弘毅 ]
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