|
テーマ:読書(8782)
カテゴリ:【読書】エッセイ・コミックエッセイ
書名 文庫 間違いだらけの文章教室 [ 高橋源一郎 ] 目次 1 文章は誰のものか?それは、ぼくたちのものだ 2 都会の雑踏を文章と一緒に歩いてみよう 3 おじいちゃんが教えてくれる 4 こんなの書けない! 5 スティーブ・ジョブズの驚異の「文章」 6 「ない」ものについて書いてはいけない 「ある」ものについて書かなきゃならない 7 誰でも知っているもの、誰でも関係のあるもの、誰でも必要としているもの、必要としているどころか、それがなければ生きていけないもの、なのに、あまり、「文章」にされることのないもの 8 ぼくたち自身の「物語」 9 二〇一二年の夏に、学生たちと 補講 二〇一八年の冬に学生たちが「吉里吉里国憲法前文」を書く 引用 「文章」を書く、ということは、この、「わけのわからないもので一杯」の世界を、少しでも「わけのわかるもの」にするために、輪郭を与えることだ。 感想 NHKのラジオ「高橋源一郎の飛ぶ教室」を毎週聞いています。 それで、高橋さんの本も読むようになったのだけど、「飛ぶ教室」で紹介されていて著者もご登場されていたので読んだ ・標本作家 [ 小川楽喜 ] で、高橋源一郎さんの何か書き方の本のようなものを読んで勇気づけられて書き続けることが出来たのだ、ということを仰っていたようなおぼろげな記憶があり、本棚で見つけたこの本を手に取った。 …のだけど、 それは『一億三千万人のための小説教室』というタイトルの本であって、これではなかったのかもしれない。なんか読んでて「これか??」と思ったのだ。 (この『間違いだらけの文章教室』は、2013年刊行の『ぼくらの文章教室』を改題・加筆したもの) 私はこの本に、書くものの題材だとか、書き方のテクニックだとか、そういうものを求めて読んだ。 でもこれ、文章教室だけど、そういうたぐいのことはちっとも書いてないのだった。 そうして、であるのにも関わらず、これは間違いなく文章の教室なのだった。 こんなもの書けない、と打ちのめされるような。 私は何かを書くのが好きだ。 それが自己満足であったとしても(インターネットに溢れる文章が自己満足以外の何かであったことがあったのか?)、指先から流れ出る文字が浮かび上がり、これまでここになかったものが立ち現れる。 この世界になかった言葉がそこにある。文章が。私の言葉が。 それが誰にも読まれずにネットの海に消えていく0と1であったとしても。 もういいや、私の文章なんて。 と、うっちゃって、それでもまだ振り返って、未練がましく拾い上げて、そっと懐に仕舞う。 それは私の心臓。 拍動する限り続く。 ここでも、ここでなくても。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.12.02 09:33:09
コメント(0) | コメントを書く
[【読書】エッセイ・コミックエッセイ] カテゴリの最新記事
|