200.ヘルシンキ 生活の練習 [ 朴沙羅 ]
本のタイトル・作者ヘルシンキ 生活の練習 [ 朴 沙羅 ]本の目次・あらすじはじめに1 未知の旅へーーヘルシンキ到着2 VIP待遇ーー非常事態宣言下の生活と保育園コラム1 ヘルシンキ市の公共交通機関と子ども車両3 畑の真ん中ーー保育園での教育・その14 技術の問題ーー保育園での教育・その25 母親をするーー子育て支援と母性コラム2 社会とクラブと習い事6 「いい学校」--小学校の入学手続き7 チャイコフスキーと博物館ーー日本とフィンランドの戦争認識コラム3 マイナンバーと国家への信頼8 ロシア人ーー移民・移住とフィンランドコラム4 小学校入学おわりに注引用「OK、あなたの娘は強く育てられるでしょう。誰からもきちんと扱われるようにね。私たち女性は、すべてを手に入れたいのです。尊厳、お金、時間の余裕、安定した仕事、欲しい人は配偶者と家庭、それから買えるお値段の家もね。共に手に入れましょう!」感想2022年200冊目★★★★フィンランド―――ムーミンの国。サンタクロース村がある。世界幸福度ランキングと、PISA(OECD生徒の学習到達度調査)の上位国。北欧デザイン。「かもめ食堂」。そんな漠然とした憧れを持つ国、のように思う。だからフィンランドをテーマにした本も、だいたいがそういう内容(教育充実、高福祉、デザイン)。つまり、そこに行く・住む人が時間とお金に余裕のある大人の女性で、彼らによって書かれたものが多い(気がする)。当然これもそんな本なのだろうと手に取った。きれいな森林と湖、のどかな田園風景、すてきな街の写真―――なんてもんではなかった。著者は、1984年、京都市生まれ。専攻は社会学(ナショナリズム研究)。なんとこの本、転職活動の結果、夫は日本にいたまま、著者が娘(6歳)と息子(2歳)を連れてフィンランドに移住しちゃった話なのである。しかもコロナ禍。夫はなかなか渡航もままならない。完全ワンオペ。まじか。というわけで、転職先のことや保育園のこと、フィンランドの人の生活、教育のことが書いてあって大変興味深く読んだ。著者が関西人なので、セルフボケツッコミで書きぶりも面白い(ところで関西人は自著でこういう書き方をする人が多いのだけど、自分の文章の中でもボケてツッコまな死んでしまうんか?)。「アフリカ出身サコ学長、日本を語る [ ウスビ・サコ ]」「アフリカ人学長、京都修行中 [ ウスビ・サコ ]」ここらへんの語り口や内容が好きな人は好きだと思う。転職先って民間企業か何かなのだろうか…と思っていたら、著者情報に「ヘルシンキ大学文学部文化学科講師」とあって、やっぱり先生か!となった。社会学専攻という情報が本の中に出てくるので、「この人はいったい何をしている人なのだろうか…?」と疑問だったのだ。いや、でもすごい。未就学児2人を連れて、フィンランド。非英語圏。いくらほとんどの人が英語を喋れるとはいえ、日常語はフィンランド語。よう行ったな。著者は、韓国(在日コリアン)と日本のダブル。幼少期から、自身のアイデンティティの帰属に疑問と危機感を覚えていた。そして中学1年生のとき、ALTの先生から見たら自分は「英語を喋る人かどうか」しか問題ではないのだと気付いて、いつか外国に住もうと心に決める。ここらへんの記載は後半になると増えてきて(そこらへんちょっとフィンランド関係ないこと多いな?ってなるんだけどまあベースの話やからしゃあないんやけど)、のんべんだらりと日本社会のマジョリティで生きてきた私は「それを思ったことがない自分」のことを思った。「朝鮮人は朝鮮へ帰れ」より「イエローモンキーはファーイーストでバナナでも食ってろ」と言われる方がましだ、という理由で、外国へ住もうと心に決める人がいるのだということ。フィンランドで黄色人種として「アジアン」で雑にくくられる方が楽だ、という気持ち。私には分からないだろう。分からないことさえ知らなかったんだから。でも私は知ったから、たぶんきっと、そのことをこれから思い出す。肝心のフィンランドの話。まず、著者がフィンランドの懇親会に出席した時、子どもに注意を向けていたら、自分が楽しむためのパーティでなぜ子供にばかり関心を向けているのかと訊ねられる。そして著者は、子供が怪我をしないようにという建前で、あらかじめ「悪い母親」にならないよう、攻撃されないようにしていたのだと気付く。「ショートケーキ。 [ 坂木司 ]」にもあった。ママたちは「私たちは一体何に怒られるのを恐れているのだろう」と言うのだ。私もそう。スーパーや病院、駅。子どもにというより、周囲に聞かせるように話していることがある。ほら、私はちゃんとしていますよ!ちゃんと母親の役目を果たしています!気を張って、行動を制限して、見張って、咎めて、静止して……。それでも攻撃されるのだ。眉を顰め、舌打ちされ、あるいは直接口に出して。攻撃とさえ思っていない人もいる。それは善意から来る助言だという体裁で。電車に乗って子どもが騒ぐと、「親のしつけがなっていないから」。ならばとスマホを渡すと、今度は「スマホに子守をさせないで」。絵本ならばと小声で読み聞かせれば「うるさい」。おもちゃはどこかへ転がっていった。ただ公共交通機関―――「公共」交通機関!―――に乗るだけで、疲れ果てる。この本を読んで、フィンランドでは、長距離電車の中に子どもの遊びのスペースがあったり、なんというか、「そこにあるそういうもの」として受け入れられているという感じがした。繰り返し登場する、「人格や才能」ではなく、それを「問題」に対するその人の「技術(スキル)」の習熟として捉える、というのも同じことなんだろう。「得意/不得意」や「良い/悪い」の価値基準ではなく、それを単なる「習熟度」として捉える。「私は○○が苦手だから」ではなく、「私は○○の練習が足りていないから(○○の技術を習得している途中だから)」として考える。それだけで、世界はなんてほっとできる場所に変わるだろう。だって足りなければ、練習すればいいだけなんだから。これから身に着ければいいだけなんだから。この考え方、すごく良い。私はとても好き。絵本で、「~できないっていわないで」という台詞があったのを思い出した。「いま、できるようになってるとちゅうだから」って。途中なんだよ。生まれつき決まってるものじゃない。固定されて不可変なものじゃない。今後、このように考えるようにすることにする。母親をやること、について、著者は「自分はそのうち子供たちに恨まれて憎まれる」と言うくらいの「向いてなさ」を口にする。この章は、「母親になって後悔してる [ オルナ・ドーナト ]」が刺さった人には刺さるパート。著者はネウボラからこういわれる。「母親は人間でいられるし、人間であるべきです(Mothers can be, and should be, humans!)」いやほんまそれやで。日々母親をしていると、世間は私を何かものすごい機能を備え付けた召使型労働アンドロイドか何かと勘違いしてるんじゃね?と思うことがある。あほか!やってられるか!こちとら生身の人間じゃ!ちなみに母親やってるよりグダグダの自分やってる非母親期間のほうが長いわ!!ここも、フィンランドは「そこにあるそういうもの」として扱っていると思った。母親より、その人として見ている。著者が就職先にどんな服装をすべきか(日本だと女性は化粧や服装が職場によって異なるから)を尋ねると、躊躇いがちに「もっと反射させた方がいいですよ」(日照時間が短く暗いので)と言われるエピソード、めっちゃ好き。フィンランドだって、夢の国じゃない。私たちはそれを、著者の目を通して知る。そして私は、その反対の目を通して、今度は日本を見たいと思う。希望の国のエクソダス―――絶望の国のパンドラ。幸福の国に憧れながら、不幸の国に生きているのだと思うなら。それでもここで生きていくのだとしたら、その箱の底を覗き込んで。永遠に変わらないような社会に、どんな希望を持てるか。これまでの関連レビュー・フィンランド人はなぜ「学校教育」だけで英語が話せるのか [ 米崎里 ]・意地でも旅するフィンランド [ 芹澤桂 ]↓ 「見たよ」のクリック頂けると嬉しいです ↓