216.家事か地獄か 最期まですっくと生き抜く唯一の選択 [ 稲垣えみ子 ]
書名家事か地獄か 最期まですっくと生き抜く唯一の選択 [ 稲垣えみ子 ]目次はじめに 家事なんてなくなればいい? 1 私が手にしたラク家事生活 2 あなたの家事がラクにならない本当の理由 3 家事こそは最大の投資である理由 4 老後と家事の深い関係 5 老後を救う「ラク家事」6 モノの整理が天王山 7 実録・人はどこまでモノを減らせるか 8 実録・人はどこまでものを減らせるか9 死ぬまで家事 おわりに 総理、家事してますか? (ラク家事えみ子、政治経済を語る)感想「アフロの朝日新聞編集委員」としてニュースのコメンテーターをしていらした時に、「今画面になんかモサモサした人が映っていたような…気の所為…?」と二度見したところから稲垣さんが気になっていて、その後会社を辞められて色々面白い実験生活をされていて、著書を読んできた。(これまでのレビュー)・寂しい生活 [ 稲垣えみ子 ]・魂の退社 会社を辞めるということ。[ 稲垣えみ子 ]・もうレシピ本はいらない 人生を救う最強の食卓 [ 稲垣えみ子 ]・人生はどこでもドア リヨンの14日間 [ 稲垣えみ子 ]・アフロ記者が記者として書いてきたこと。退職したからこそ書けたこと。 [ 稲垣えみ子 ]・一人飲みで生きていく [ 稲垣えみ子 ]・老後とピアノ [ 稲垣えみ子 ]今回の本のテーマを言うなら、「老後と家事」。『家事か地獄か』だと、地獄っていうのがいまいちよく分からないし、読む人が「名もなき家事ってまじ終わんない無間地獄だよね」っていうライフハック的なところを期待して読むとちょっと違うかもしれない(大きな意味では間違っていないんだけど)。これまでの本の内容のまとめのようでもあり既出で重複する部分も多かった。逆に何も前情報なしでこの本から稲垣さんを知ったら「どういうことなん」とそこに至るまでの背景にあるものを疑問に思わないのだろうかと心配(古参ファン気取りか。すみません大概俄です)。系統としては、土井善晴さんの『一汁一菜でよいという提案』。家事を複雑にしすぎている私たち、もうやめようぜ!家事ってもっとシンプルで、生きることの一部で、自らを整えることは喜びでもある。簡単で楽しく、お金がかからない(むしろお金がどんどん貯まる)最高の娯楽。簡素で簡略化されたルーティンワークなら、老いて身体が衰えても、認知能力に問題が出ても、生活してゆける。そしてそれを死ぬまで淡々と続けていくことが出来たなら。目指せ・江戸長屋の暮らし!扉写真が「なんにもない」稲垣さんのお家なんだけど(カーテンもない)、めちゃくちゃオシャレで素敵に見える。インテリア要素もあるし、置いてあるものが良いものなんだろうな。ここがミニマリスト部屋とはちょっと違うなと思った。家電を手放すほど、家事が楽になっていった…というのは、なるほどと思う。どんどん複雑な機能を持つ家電が現れ、人間はそれに翻弄されている。労働とも似ている。新しい家電が次々登場して生活が便利になったはずなのに、家事時間は減っていないのだという。え?なんで?なにがどうなってそうなるの?パソコンもエクセルもワードもメールもあるのに、なんで労働時間減らないの????「あんなこといいな、できたらいいな」を具現化したモノたち。でもその「あんなこと、こんなこといっぱいあるけど」出来ないのだ。稲垣さんは、「姫」の暮らしをするために自分が「使用人」になっていると言った。そう。時間も収納も、足りないのだ。モノを減らせ、話はそれからだ。いやでも洗濯機と炊飯器と電子レンジと冷蔵庫とエアコンは無理、と思う。稲垣さんは一人暮らしで、「洗濯機はありません、洗濯物は毎日タライで手洗い」な自分の生活を講演すると「羨ましい」「やりたい」「でも家族がいるから無理」と言われるのだそうだ。稲垣さんは、そもそも「洗濯物を全員分手洗い」するんじゃなく、「各自が手洗い」すればいいじゃないかと言うんだけど、「共用のもの」ってあるじゃないですか、絶対。一人だとそれは「自分がやる仕事」の領分なのだけど、家族だとそれは「誰か担当の人がやる仕事」にどうしてもなる。そこが問題なんだよな…。同じような電気を使わない暮らしをしていらっしゃる「家庭持ち」だと、アズマカナコさんという方がいらっしゃる。→「いろいろな意見があるほうが生きやすい。だから私は「変わり者」でいよう。月々の電気代500円で暮らすアズマカナコさんが思う、本当に豊かな社会」(2022.05.12 HATCH)著書を何冊か読んだけど、「いいなあ、でも無理」となった。まず夫の理解と協力が得られない。家の中を歩いていると、ピコーン、ピコーンと、グーグルマップのピンが立っているように、「家事待ち」のものがセンサーに引っかかる。タップすると「子どもが脱ぎ散らかした靴下、洗濯機へ」「そろそろ肌寒くなってきたので羽毛布団を干して出しておく」「暖房使用の前にエアコンを一度掃除」…みたいな。ほんとーに、心底うんざりする。たまにキレる。手にした靴下を壁に投げつける。何が、というと、このピンは私にしか見えないのだ。家事が当事者である、「自分ごと」である人間にしか。家中にピンが立っている。気が狂いそうになる。いったいどういうことなのだ。無間地獄である。稲垣さんは「家事をやめるための(イナガキ流)3原則」を挙げる。その1 「便利」をやめるその2 人生の可能性を広げないその3 家事の分担をやめましょうどうですかね。これ。1、2はヘッドバンギングして激しく首肯して諸手を挙げて賛成。しかし3はね、現実的か?我が家は、モノも少なく保つようにし、家事も最大限効率化している。夫もまあ、家事をやるほうである。それでも彼には、「ピン」が見えない。センサーが働かない。私だって小さい頃から家事をやってきてこうなったわけではない。何がどうなってこの違いが起きるのか謎だ。さらに子どもがいると、どうしてもその分は(いくら子どもにやらせるにしても)私か夫のどちらかが担うことになる。どっちが?ということになる。ああでも、理想なのだ、稲垣さんの暮らし。一回やってみたいのだ。ガチでやろうとしたら、夫と別れるしかないけどな…!笑でも、そのエッセンスは今でも取り入れることが出来る。たとえば、稲垣さんはご飯作りのときに1 火を通さないおかず2 さっと火を通すおかず3 じっくり火を通すおかずを分けたら実家の冷蔵庫にあるものでパッとご飯が作れるようになったという。よく「主菜、副菜、汁物」とかで献立を作ってしまうと、「うちのコンロ2口しかないんだが」という事態になるので、火の配分は大事。私は調理のときは「そのまま、電子レンジ、コンロ」(たまに炊飯器)で分けてるかな…。何度も言うが、家事ができるとは、一言でいえば「自分のことは自分でできる」ということ。日々健康的で美味しいものを食べ、すっきり片付いた部屋で自分に似合うこざっぱりしたものを着て暮らす。それができるのが「家事ができる人」だ。その人は間違いなく幸福だ。お金があろうとなかろうと、幸福は自分自身の手で簡単に手に入れることができるのだから。家事ができることは最も確実な自己投資であり、何は無くともちゃんと生きていけるという究極のセーフティーネットである。今話題のベーシックインカムなど夢見ずとも、誰だって、今すぐわずかなお金で健康で文化的な生活を営むことができる。一寸先は闇の世の中でも、臨機応変に泰然として生きていける。家事を人に丸投げしている人は、これほどの宝を自ら投げ捨てているのである。この本を読んでいると、家事ってそんなに簡単で、楽しくて、そんな未知の可能性を秘めたものだったんだ?!と思えてくる。奪い合って競い合ってやるようなものなのでは…?!と錯覚する。そこにあるのは、「義務か、そうでないか」でもあるかもしれない。ひとりだと「明日にしておくか」や「今日はやめとくか」も出来る。やるやらない、やり方にも個人の裁量がきく。でも家族単位になると、それは義務になる。義務ほど辛く、楽しくないことはない。ただそれを数え上げて名前をつけて見える化して、「ほら!だからあんたもやりな!」と苦役を押し付け合うのは、いつまでもその無間地獄から逃れられない。ピンを減らし、センサーさえ不要になる日を夢見る。ほんとうは、これは、楽しいことのはずなんだ。ランキングボタンです。クリック頂くとブログ更新の励みになります!