今から74年前の今日、1945年5月25日に
ひめゆり学徒隊はそれまで勤務した南風原から
沖縄県南部へと撤退を開始します。
4月に沖縄本島に上陸した米軍は、
5月下旬には日本軍司令部のある
首里(現那覇市)に迫っていました。
沖縄陸軍病院南風原20号壕の内部。
ここが野戦病院でした。
ひめゆり学徒たちはここで負傷兵の看護にあたりました。
当時の手術は放っておいたら壊死してしまう手脚を
切り落とすだけのものでした。
麻酔も十分にない中での手術。
暴れる兵隊を押さえたり、
切り落とされた手脚を壕の外に運び出したり、
それらも15~19歳だった
ひめゆり学徒たちの仕事でした。
今、壕の中には何の臭いも残っていませんが、
当時は血や膿、排泄物、体臭、薬品など
それらの臭いが混ざり合い、
耐えられないほどの悪臭が充満していました。
南部撤退時に、
持っていけない薬品類は木箱に入れて埋めていきました。
米軍に取られないため、
あるいはあとで取りに戻ろうと思ったのかもしれません。
でも南部で悲惨な最期を迎えた沖縄戦。
これらの薬品は使われないまま、
戦後、土の中から発見されました。
南部撤退時、
自分の力で歩けない重傷患者はここに取り残され
彼らには青酸カリ入りのミルクが配られました。
多くの兵隊がそのミルクを飲んで
苦しみながら死んでいきました。
「お前ら、それでも人間か!」と
怒鳴る声も聞こえたそうです。
たったひとり、京都から召集された兵隊が
ミルクを吐き出して逃げ延び、
戦後、青酸カリ入りのミルクを飲まされたと
証言しました。