高一族と高 師直

バサラ大名 高 師直

下の画像は「足利尊氏」といわれていましたが、
現在では 高 師直 とするのが一般的です。


天降るあら人神のしるしあれば
    世に高き名は顕れにけり
                      『風雅和歌集』師直よみ

守屋家本騎馬武者像の像主について

かの像主のもつ個々の特色は、すべて高師直を像主とすることで説明がつくこととなった。さらに高師直は尊氏の執事であるとともに、将軍の直轄軍団長たる地位にあり、足利将軍家との結びつきは、他のいかなる武将にもまして強かったことを考えあわせれば、この点からもかの像主が必要とする条件を高師直はみたしてくれる。以上のことから、私は守屋家本の騎馬武者像の像主は、高師直であったと結論付けたい。
下坂 守 『学叢』第四号 から 昭和57年3月31日発行発行 京都国立博物館


高高師直

近代足利市史』第一巻通史編.足利市.昭和52年.p215以下 第五節 足利氏の家臣団根本被官高氏

 足利氏の被官の中で、最も名をあらわすのは高(こう)氏である。高氏の家系は、天武天皇〔631~86.56歳〕より出た高階氏の分流

根本被官高氏

 足利氏の被官の中で、最も名をあらわすのは高(こう)氏である。高氏の家系は、天武天皇〔631~86.56歳〕より出た高階氏の分流で、筑前守成佐の後裔という。『尊卑分脈』によれば、成佐が源頼義〔988~1075.88歳〕の妹を娶って河内守惟章をもうけ、その子惟頼は、実は源義家〔1041~1108.68歳〕の四男で三歳の時から養われて大高大夫と称し、その子高新五郎惟真は夜討のために足利で討たれて、堀内御霊宮にまつられたという。惟真の子惟範は、母は那須大夫範之の娘で、父の夜討の際に生まれたが、三歳から十三歳まで祖父の許で養育され、その子刑部丞惟長は、「為足利庄依義兼申遣」って、頼朝の口入で陸奥国信夫郡を給わったという
惟長 当家家系図にもあり

清源寺本「高階系図」では、成佐の子を惟孝とし、その子大高大夫惟頼は、前九年の役の際、源頼義の副将軍となったと伝え、その子高新太郎惟貞は、母が源頼義の娘で、足利義国〔1091~1155.65歳〕の乳母となっていた関係から、義国の足利下向に従ったらしい。その子惟章は、父惟貞が足利荘で夜討のために討たれた時には母の胎内にあったが、母の兄那須大夫清文の許で養育され、長寛年中(1163~65)、足利太郎(俊綱か)改易のあとをうけて、八条院庁より足利荘下司職に補任され、その子惟長は、弟惟信と共に、寿永二年(1183)十一月(閏十月の誤り)に、備中国水嶋の戦いで平家のために討たれたという。

 両系図は共に、高氏の本姓を高階氏とするが、地方豪族がその家系を中央貴族のそれに付会することは間々見受けられるから、高氏の場合もそのまま信ずべきでないかもしれない。両系図では、人名に違いがみられるほか、源氏との関係、足利の地との関係についても、伝承に異同があって判然としないが、史科の上で確かめることはできない。ただ、『奥州後三年記』に、源義家の郎等として高七がみえ、『太平記』にも、元弘三年(1333)五月、尊氏〔1305~58.54歳〕が六波羅勢と戦った際、高氏の一族大高重成(だいこうしげなり)が、敵将陶山・河野を求めて、「八幡殿(源義家)ヨリ以来(コノカタ)、源氏代々ノ侍トシテ、流石(サスガ)ニ名ハ隠(カクレ)ナケレ共(ドモ)、時ニ取テ名ヲ知ラレネバ、然(シカル)ベキ敵ニ逢難(アイガタ)シ。是(コレ)ハ足利殿ノ御内(ミウチ)ニ大高二郎重成ト云者也(イウモノナリ)……」と高声に名乗ったことが記されているから、源義家のころから源氏と主従関係をもっていたことが推測される。足利の地との関係については、高氏が本来、足利の住人であったとも考えられるが、清源寺本「高階系図」の伝える如く、足利義国の下向に従って足利の地に来住したとも考えられ、源姓足利氏の足利地方への進出が、この地の豪族藤原姓足利氏との間に対立を生み、これに関連して、高惟貞(惟真)が夜討にあい足利で討たれたのであろう。

 清源寺本「高階系図」は、つづいて鎌倉前期における一族の活躍を伝えている。それによれば、惟長の子惟忠・惟政兄弟は、建久元年(1190)正月、出羽で大河兼任が反乱を起こした際、足利義兼に従って戦い、軍功をあげている。また、承久の乱には、先に述べたように、惟長の弟惟重(『尊卑分脈』は惟長の子とする)・義定父子と惟長の孫大平惟行が足利義氏に供奉して従軍し、惟重は宇治川で戦死、義定は父子の勲功賞として近江国辺曾村を賜わり、惟行も他由(池田か)貫持を討取ったといい、宝治元年(1247)六月の宝治合戦の際には惟重の子重氏が戦闘に参加したという。

 この一族は、『吾妻鏡』には、足利氏が椀飯を勤める際などに、献上される馬を牽く役として出てくる。すなわち、嘉禎三年(1237)四月、将軍頼経〔1218~56.39歳〕が義氏の大倉邸に来遊した時には大平太郎、仁治二年(1241)正月、義氏が椀飯を沙汰した際は高弥太郎、ついで建長二年(1250)・同三年・同六年の椀飯では大平太郎左衛門尉、康元元年(1256)正月、頼氏が勤仕した時には大平左衛門太郎がそれぞれ馬を牽いている。

 ところで、清源寺本系図の記載内容を信ずる限り、高氏は足利氏の被官でありながら幕府の御家人でもあったのではないかと推測されるふしがある。先にあげた、義定が承久の乱の勲功賞として近江国辺曾村を賜わっていること、また、この所領は、義定の弟重氏の譜によると、その後、義定の後家を経て重氏に譲られ、重氏は正嘉元年(1257)五月十九日に政所より安堵の下文を賜わっていること、義定の子に美作国野介の地頭となった刑部右衛門尉があること、などである。勲功賞・政所下文の下賜や地頭職の保持をもって直ちに御家人身分の表徴とはなし得ないかも知れないが、惟章の譜の、足利荘下司職補任の記事に統いて、「下司職は本補地頭なり」と記されていることや、高氏が義家以来、源氏代々の家人であった事実を考えあわせるとき、高氏が頼朝〔1147~99.53歳〕から特に御家人身分を与えられたと考えることは必ずしも無理な推論ではあるまい。

 なお、元弘三年(1333)四月二十七日、尊氏の挙兵に際して、軍勢催促状を受けた野介高太郎は、美作国野介の地頭となった刑部右衛門尉の子孫かも知れない。

 高氏は鎌倉時代を通じて多くの一族を分出したが、彼らは惣領を中心に一族のまとまりを保ちつつ、足利氏に奉公した。前述のように、執事の職には、重氏-師氏-師重と、惣領が代々就任し、一族の者たちも、奉行人や地頭代・郷司などとして、足利氏の家政にたずさわったのである。

 高氏の庶流には、別掲系図にみられるように、足次(現館林市域)・泉(現和泉町)・田中・窪田(現久保田町)・恒見(現常見町)など足利荘内の郷名を名乗っている者がある。大平の地名は荘内に二か所(現桐生市域と現佐野市域)あるほか、足利氏所領の三河国額田郡内にも存在するので、何れとも決め難いが、彦部は足利義氏より孫家氏に与えられて斯波氏の所領となる陸奥国斯波郡内の彦部郷に、大高は彦部郷内大高名に当てることができる(「彦部家譜」)。彼らはそれぞれの住郷ないし本拠地の地名を苗字としたものであろう。

 これに対して、嫡流の系統は高を称するが、その所領には、長禄三年(1459)十二月、師行の子孫師長が提出した目録によると、足利荘内では足次郷(現館林市域)・渋垂郷(現上・下渋垂町)・小曾祢郷(現小曾根町)・山形郷(現佐野市域)・岩井郷・荒萩郷(現瑞穂野町)があった。また、重氏・師氏父子は松本とも称しているので(清源寺本「高階系図」、鑁阿寺文書一〇五)、彼らの屋敷が松本郷(現小俣町)にあったと考えることができる。嫡流は三河国額田郡にも所領を持っていた。永仁四年(1296)三月一日、師氏は額田郡の比志賀郷を娘の稲荷女房に譲っており(総持寺文書)、文和四年(1355)八月二十三日、師泰の娘尼明阿(師冬の後家)は、父から譲られた重代相伝の所領同郡管生郷を同郡籠田の総持寺に寄進している(総持寺文書)。総持寺は師重の娘満目尼の開基になる尼寺であり(「諸系図」一三)、前記の師泰娘明阿は姪ひめいちを比丘尼(びくに)にして同寺へ入れ、父祖の菩提を弔わせている(総持寺文書)。また、師重の子輔阿闍梨貞円が同郡瀧村の古刹瀧山寺(ろうせんじ)の大勧進となっており(清源寺本「高階系図」)、嫡流はこの郡とも深い関係をもっていたようである。

 嫡流師氏の弟頼基は、足利氏所領奉行注文に、奉行人第一グループの頭人として「南右衛門入道」と記されている人物で、以後この系統は南を苗字とする。清源寺本系図によれば、頼基は文永二年(1265)に足利荘内丸木郷(現名草下町)を知行したといわれる。名草中町の真言宗金蔵院の寺域は南氏の屋敷址と伝えられ、もとは「堀ノ内」と称したという(金蔵院碑)。現在も土塁の一部と堀跡とみられる凹地が残されており、おそらく方一町(約一○九メートル)程度の規模の屋敷であったと思われる(写真)。

高氏一族の活躍

 元弘三年(1333)三月、幕府の命を受けた足利尊氏〔1305~58.54歳〕は大軍を率いて鎌倉を発し、京都に上ったが、この時、高(こう)氏の一族四三人が尊氏に従って西上したという(『太平記』)。建武新政がなると、高氏一族も恩賞に預かり、師直〔?~1351〕が三河権守、師泰〔?~1351〕が尾張権守、師久が豊前権守、大高重成が伊予権守になるなど、それぞれ官途を得、所領をも賜わったようである。

 新政の下では、尊氏は警戒されて、中枢の地位にはつけなかったが、代わりに師直が上杉憲房〔?~1336〕、疋田妙玄とともに雑訴決断所の職員となって足利氏勢力を代表する立場にあった。

 師直は、父師重隠退の後をうけて尊氏の執事となったらしく(「武家年代記」)、建武二年〔1335〕五月七日、尊氏の意をうけ、松尾社祢宜相世への寄付地の打渡しを豊前国門司関(尊氏の元弘新恩地の一つ)政所に命じている(東文書)。

 建武二年七月、北条時行〔?~1353〕が信濃で挙兵し鎌倉を侵攻した。これを迎え撃った直義〔1306~52.47歳〕は敗れて三河に走ったが、この時、南宗継の兄弟宗章は武蔵の土沢で討死したという(清源寺本「高階系図」)。直義の敗報に接した尊氏は、八月初め、兵を率いて東下し、鎌倉を回復するが、高一族も尊氏に従って関東に下り、同月十四日、駿河国府の戦いで師泰・師久・大高重成が分取りの高名(こうみょう)をあげ、十九日の相模辻堂・片瀬原の合戦では重成が負傷している(康永四年山門申状裏書)。鎌倉に入った尊氏・直義兄弟はそのまま鎌倉に留まり、関東の経営をすすめるが、この間、師泰は侍所の頭人として将士の統率と鎌倉警固の任にあたっている(三浦文書天野文書)。

 同年十一月、尊氏が建武政府に反旗をひるがえすと、朝廷では新田義貞〔1301~38.38歳〕を主将とする討伐軍を東下させた。尊氏は師泰を派遣してこれを三河矢矧(やはぎ)に防がせたが、師泰は敗れて退き、救援の直義軍も駿可の手越河原で敗れた。十二月、尊氏は鎌倉を出て箱根に向かい、ここで義貞軍を撃破し、直義らと合流して敗走する義貞軍を追って西上した。師直は途中、山徒のたて籠る近江伊岐代城を攻め落としている(『梅松論』)。足利軍は翌建武三年(1336)正月の京都争奪戦に敗れて、一旦九州に走り、再挙東上・入京するが、高一族は常に尊氏・直義の身辺で活躍し、その後もしばしば戦功をあげている。

 建武三年(1336)十一月、尊氏は幕府を再開し行政機構を整えたが、師直は尊氏の執事として尊氏管轄下の諸機関を統轄する一方、直義の管掌する引付方の頭人の一人として所領訴訟の審理に従事し、師泰も侍所の頭人に任ぜられて、尊氏の下で全国の守護や武士達の統率にあたった。そのうえ、師直・師泰らは幕府直属の軍勢の長として各地に発向し、南朝軍を撃破して、戦局を大きく変えるほどの活動をすることが多かったから、高一族の幕府内部における勢力はおのずから増大することになった。このころ、師直は三河権守から武蔵守に転じ、師泰も尾張権守から越後守に転じている。

 建武三年〔1336〕十月、新田義貞が越前に走り金ガ崎城に拠ると、師泰は越前守護斯波高経〔1305~67.63歳〕の救援に赴き、翌建武四年〔1336〕三月には金ガ崎城を陥れて尊良親王および義貞の子義顕を自殺させた。同年、陸奥の北畠顕家〔1318~38.21歳〕が再度西上した時、武蔵守護として東国にあった師直の弟重茂は上杉憲顕らと顕家軍を利根川に防いで敗れ、一旦は逃れたが、翌暦応元年(1338)正月、武蔵の軍勢を率い、京都に向かう顕家を追って東海道を西上した(別府文書)。途中、三河で同国守護の従兄弟師兼や吉良満義が加わり、京都から軍勢を率いて馳せ下ってきた従兄弟の師冬〔?~1351〕と美濃青野原で顕家軍を狭撃したが再び敗れた。そこで師泰が細川頼春〔1304?~52.49歳?〕・佐々木氏頼〔1326~70.45歳〕・同道誉〔1296~1373.78歳〕らの諸将とともに急ぎ美濃に下ったが、二月、長途の軍旅に疲れた顕家の軍は師泰らとの決戦を避け、進路を転じて伊勢に入り、これを追う師泰らの軍と小規模な合戦をしつつ奈良に出て、一挙に京都を突こうとした。これに対して、師直は師冬らと大軍を率いて出京し、奈良般若坂で顕家軍を大いに撃破し、凱旋した。その後、顕家軍は勢力をもり返し、三月には天王寺で河内・和泉守護細川顕氏〔?~1352〕を破り、その一隊が男山に進出したので、師直は一族をあげて再度出撃し、男山・天王寺・堺などに戦い、五月、ついに顕家を和泉石津に倒した。尊氏の母上杉清子〔?~1342〕はこの合戦の模様を関東の一族に報じているが、その消息に、「ほそかハのひやうふのせう(細川兵部少輔)、むさしのかみ(武蔵守)かう(高)名とこそ申候へ、れいのくんせひ(軍勢)に(逃)け候けるが、この二人してかやうに候とこそ申候へ」とあり、師直が細川顕氏と並んで抜群の戦功をあげたことを述べている(上杉家文書)。 なお、『風雅和歌集』に、師直がこの戦いの後住吉社に詣でて詠んだ歌が収められている。

  天降るあら人神のしるしあれば
    世に高き名は顕れにけり

 この一戦によって高一族の名が世に高められたとする師直の自負が窺われよう。

 この戦勝は高(こう)氏の評価を一層高め、師泰が尾張、師秋が伊勢、大高重成が若狭の守護に任ぜられて、一族の守護国は従来の三河・武蔵・上総の三か国から六か国にふえ、重茂も暦応三年(1340)には引付頭人の一人となって、一族の幕府内における勢威は増大した。そして、幕政を主宰する直義に対して、師直を中心とする党派が形成され、やがて両派の間に対立がみられるようになった。


高氏一族の没落

 幕府の内紛は逼塞していた南朝側に再起の機会を与えた。貞和三年(1347)九月、楠木正行〔?~1348〕が挙兵し、直義派の部将で河内・和泉守護の細川顕氏および救援に赴いた山名時氏〔1303~71.69歳〕の軍を撃破した。そこで師直は、細川顕氏に代わって河内・和泉守護となった弟師泰とともに発向し、翌貞和四年〔1348〕正月四条畷に正行と戦ってこれを倒し、さらに進んで吉野の行宮を攻略した。

 直義方部将敗退のあとをうけた師直の勝利は幕府内における師直の権力をいちじるしく強め、直義との抗争がいちだんと激しくなっていった。この争いはさらに尊氏・直義の武力抗争に発展し、幕府内の分裂が深刻化した。これを観応の擾乱と呼んでいる。

                  土佐守
                  ┌師秋
                  │      三戸七郎
    ┌─師氏─┬師行─┼師澄──師親
    │      │     │播磨守
    │      │     └師冬
    │      │        武蔵守 武蔵五郎
    │      │     ┌─師直──師夏
    │      │     │ 越後守  左近大夫将監
 重氏┤      ├師重─┼─師泰──師世
    │      │     │ 豊前守  豊前五郎
    │      │     └─師久──師景
    │      │     刑部大夫 (高南遠江兵庫助)
    │      ├師春──師兼───宗久
    │      │     備前守  ┌ 師兼養子
    │      └師信──師幸  │
    │                   │
    │南          遠江守   │
    └頼基──惟宗──宗継──┘

 □は観応二年二月二十六日討死の者
  ※赤字に替えた。


 観応二年(1351)になると尊氏は直義に講和を申し入れた。師直・師泰を出家させることで和議が成立し、二月、播磨に逃れていた尊氏は師直兄弟を伴って帰京することになった。ところが、高一族が摂津の武庫川付近にさしかかった時、さきに師直によって殺された上杉重能〔?~1349〕の養子能憲〔1333~78.46歳〕の軍勢が待ち伏せて襲い、高一族および家人数十人を殺した。『園太暦』はこの時討死した高一族として、師直武蔵守入道・師泰越後守入道・師兼高刑部・師夏武蔵五郎・師世越後大夫将監・高備前・豊前五郎・高南遠江兵庫助の八名を記している。この一族の関係を清源寺本「高階系図」によって示すと上図の如くである。

 今日、菅田町の光得寺境内に鎌倉時代から南北朝時代ごろのものと推定される五輪塔が一九基並んでいる。これらの墓石は、もと樺崎八幡宮の境内にあったのを、明治の初め神仏分離の際に現在地に移したものという。この中に師直の墓があり、地輪に「前武州大守道常大禅定門」「観応二年辛卯二月廿六日」と刻まれている(写真)。

 高一族は直義・師直の対立に際して全員が一致した行動をとったわけではなかった。高一族の本来の嫡流である師秋父子は一族から離れて直義派に属し、観応二年〔1351〕七月の政変で、直義が京都を逃れて北国に走った時にも、父子三人が直義と行動をともにしている(『観応二年日次記』)。

 師直の没後高一族の惣領的地位についたのは誰であったか明らかではないが、師直の遺跡は子の師詮〔?~1353〕が相続したようである。師詮は丹後守護となったが(長福寺文書)、文和二年(1353)六月、楠木正儀・石塔頼房・山名時氏らの南朝軍が京都に進入した時、義詮の救援に向かい、西山で南軍と戦って敗れ、家人県(あがた)・阿保(あぼ)らとともに自殺した(『園太暦』)。師泰の遺跡は師幸の子師秀が継ぎ(清源寺本「高階系図」・総持寺文書)、河内守護となっている(妙心寺文書)。

 大高重成は、はじめは直義派に属していたが、師直の死後、尊氏・義詮側につき、観応三年〔1352〕五月、師直の弟重茂とともに雑務引付の頭人となった(『園太暦』)。重成は夢窓疎石〔1275~1351.77歳〕に帰依し、康永三年(1344)、直義と疎石の間でかわされた参禅の指針についての質疑応答をまとめた『夢中問答集』を刊行している。南宗継は終始尊氏と行動をともにし、観応二年十一月、尊氏が直義討伐のため東下した際これにしたがい、鎌倉に滞留した尊氏の下で執事のような役をつとめている。一族と分かれて直義にしたがった師秋父子も、直義が死ぬと、やがて帰参して鎌倉府に出仕した。師秋の子師有は、関東執事畠山国清〔?~1362〕が没落した康安元年(1361)から上杉憲顕〔1306~68.63歳〕が復帰して関東管領(執事)に就任する貞治二年(1363)まで、短期間ではあるが関東執事となっている。

 高一族は、このように、師直の死後も幕府の要職についたが、もはや師直時代のように威を内外にふるい幕政を左右するだけの力は持たなかった。そして、以後は、一族の中には、京都に出仕する者もあったが(『永享以来御番帳』)、多くは鎌倉にあって、関東公方の近習となっている(六波羅密寺文書)。




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