昔かいた覚書 師 魯迅 阿Q精神 など
『先覚者は常に同時代の人から迫害を受ける―中略―もしも孔子、釈迦、イエスキリストがまだ生きていたら、その教徒たちは慌てずにいられぬだろう。彼らの行為に対して、教主先生はいかばかり慨嘆するだろうか。それ故、もし生きていれば迫害される他はない』阿Q(アキュー)という人物は、前世紀30年代中国の著名な作家魯迅の小説「阿Q正伝」の中で虚構化された主人公だ。無知ゆえ、負けても理由をつけて自己を慰め、無闘争心、いつも自己満足(悪くなければ良いこと)している阿Qがもつ人格的特徴は20世紀初頭の中国人そのものだ。魯迅が阿Qのどうしょうもない生活態度を通して、当時の中国人の精神状態を余すことなく表現した。中国の近代化が遅れた原因は「阿Q精神」によるものだと多くの中国人が認めている。 中国では唐の時代に政治・経済・文化の隆盛を極めた。やがて宋の時代に入り、北方遊牧民族の脅威の前に団結することなく内争を繰り広げた結果敗北してしまった。中国が自分で国を滅ぼしたと言って良い。ヨーロッパの産業革命が100年、日本の明治維新が30年でかつての大清帝国を追い越したのと比較して、清朝は滅亡の道をたどった。清朝の最盛期に君臨した乾隆皇帝はヨーロッパの宣教師から数学や天文学を学んだが、趣味の領域に留まりヨーロッパの科学や思想が宮廷の壁を超えることはなかった。 約100年前に中国近代史を切開いたとも言える青年運動である「五・四運動」は、弱体化した死亡同然の中国を救うために「科学、民主」のスローガンを提言した。それから100年経過した今日、未だにその目標は成就されていないのではなかろうか?魯迅の時代から半世紀も過ぎ去ったが、「阿Q精神」の遺伝子を受け継ぐ人々が少なくない。簡単にいうと、明日仕事がなくても今日満腹できれば満足できるという精神構造だ。 歴史の重圧は自分で簡単に下ろせるものではないかもしれない。私は、中国も一度「脱亜入欧」を経験したらよいと思う。勿論アジアの諸国と反目して、覇権国家を目指すものではなく、ここでいう「脱亜」とは、中国人自身の保守的態度と決別することを意味する。つまり「非科学的考え方、盲目的な権威崇拝、非効率的行動」という「阿Q精神」を一掃することだ。 近代的生産方式、科学的思考の導入、そして法律・行政制度をはじめとする政治改革の推進を通してそのレベルを直接世界基準に合わせることだ。この目標を実現するために、当然なことだが現状の課題を明確に認識することが重要であろう。清朝の末期に改革を唱える学者が「中学を体にし洋学を用にする(中国の思想のもとで、西洋の技術を導入)」を提言したが失敗した。バケツいっぱいの水をこぼさないと、新しい水が入らないと同様に、自分の思想の中に何が足りないではなく、要らないものをどんどん捨てるべきだ。しかし、すでに慣れ親しんだ考えを捨て去るには、勇気と論理的思考がなにより必要だ。 中国が将来どのような国になるかということについて、既存の知識と情報で将来の絵を描くことは出来なくても、全く新しい「中華思想」を創造する時が来ている。但し、その場合科学的思考と合理性を重んじながらも、更に人間性を満たす精神を軸に周辺国に尊敬される国を目指すことが理想であろうこの文に対してのコメント地方選挙の真っ只中です。せめて被選挙人達が、この高階さんのご紹介下さった記事を読み、考え、討論するような政治家が育たないかなーと思いつつ,拝読していました.明治政府は西洋列国に追いつくために《運命》を迷信と切り捨てて,科学性や合理性を求めました。世界の素粒子学者はすべからく《運命》があると信じているそうです[NHKラジオ朝4時からの,心の時代:稲盛会長]人生は《縦糸》が《運命》であり,《横糸》が《因果》であると。この,縦糸と横糸の複雑に絡み合う,織り成す糸が人生であり,『人はよいことを考え,よい事をなせば,必ず,よい結果がえられる』『悪いことを考え,悪い事をなせば,人は、必ず悪い結果がえられる』と。これが《因果》であると。しかし,この『因果』は人の心のもち方によって変わるのであるから,《運命》も人は変えられるのだと,稲盛会長は話して折れられました.NHK教育テレビではビジネスマンのための教育番組を放送しています、国内企業の今も上手く言っている企業の成功事例が何時も紹介されています。それによると*目標の共有化*問題の共有化*成果の共有化これが上手く行った企業は成功しているような感じを受けています。再び雷峯塔の倒壊について 魯迅瓦礫の原にいることは、なお悲しむに足らない。瓦礫の原で、旧いしきたりを補修することこそ、悲しむべきなのである。 われわれは革新的破壊者を必要とする。なぜなら、彼の内心には、理想の光があるからである。われわれは、彼と寇盗や奴隷との区別を知らなくてはならない 。自分が、後の二者に堕落しないよう注意しなくてはならない。これを区別するのは、別にむつかしいことではない。ただ、人を観察し、自分を反省すればよい。言動や、思想の中に、それ(破壊)によって自分の所有にしようとする兆候を含有しているものは寇盗である。それによって目先の小さな利益をつかもうとする兆候を含有しているものは奴隷である。たとえ前方に、どれほどあざやかな美しい旗をうちたてていようとも。