「孤独が人生を豊かにする」 中谷 彰宏 坐禅回数 821 筋トレ回数 195
孤独が人生を豊かにする【電子書籍】[ 中谷彰宏 ]価格:1,430円 (2023/11/15時点)楽天で購入 【今日のキラリ引用】 🔵「孤独が人生を豊かにする」 中谷 彰宏」 「孤独」とは、状況です。 「孤独感」とは、それを自分でどう感じるかです。 「孤独感」は個人の解釈によって変わります。 実際、その人がどんな状況にあるかよりも、その人がどう解釈しているかが大切です。 その時の孤独感が「いつか夢をかなえる」というバネになるのです。 誰にも守られていない孤独な状況で、自然や社会の荒波にもまれる体験をすることが、大人になるための通過儀礼です。 通過儀礼は、受験とか就活とかではなく、1人になる時間を持つということです。 成長することは、今のグループと別れる悲しみを背負うことです。 成長には必ず孤独が伴うのです。 昔から、孤独自体を楽しむということはあったはずです。 他者承認の文化が生まれたことで、「孤独」イコール「気の毒な人」という、まわりからの勝手な決めつけが起こっています。 寂しがり屋はそれに巻き込まれているだけです。 本来の孤独は、お坊さんが修行するような、勉強にも似た、ぜいたくな時間なのです。 一流の孤独は、「自発的な孤独」です。 二流の孤独は、結果として孤独になった「受け身としての孤独」です。孤独には2通りあるのです。 集団で仕事をする人は、同時に1人になれる時間が必要になるのです。 「手を伸ばせば、すぐそこに誰かがいる」という状態がネット社会です。 それに慣れてしまうことで、1人でいることに対する不安感が湧いてきます。 誰かと一緒にいることも嫌いではないし、1人でいることも嫌いではないというのが、自発的な孤独なのです。 偉人伝を読むと、凄い人は必ず若い時に孤独な時代を経ているのです。 一流の孤独は、1人でいることが、まったく恥ずかしくありません。 一流の孤独は、1人で食べている人を「カッコいい」と感じます。 「1人でも寂しくない」と思う人は、男性でも女性でも魅力的に感じます。 孤独というと、なんとなく「好き勝手をしていい」と思われがちです。 「孤独」というぜいたくを味わわせてもらうかわりに、まわりの人に対して礼儀を尽くすことが求められます。 「みんなとつき合うためには礼儀正しくしなければいけない」と言われます。 むしろ孤独で生きていくためにこそ、まわりに礼儀正しく接することが大切です。 そうしないと、人とつき合う礼儀を知らない独りぼっちになっている二流の孤独になってまうのです。 たとえば、クラスに20人の男子がいたとすると、小学校のクラスの人気投票は、ほぼ1人に集中します。 その状態で大人になると、結婚できる人は20人に1人です。 実際は、もっとたくさんの人が結婚しています。 これは妥協したのではなく、好みの幅が広がったということです。 好みの幅が広がることが個性化です。 価値観が多様化していくのです。 二流の孤独は、ワンパターンからはずれて個性を持った人に対して敵意を持ち始めます。 ~ 人との違いに対する寛容性がなくなるのです。 一流の孤独は、他者に対して寛容です。 二流の孤独がツイしがちな過ちは、去る人を追いかけることです。 僕も外交的なアスペルガーです。 通常、アスペルガーは、人とつき合うのが苦手で自分の世界に閉じこもっている人と思われがちです。 ~ 僕は、人と会うのも嫌いではありませんが、1人でいるのも好きです。 ~ 社交もできる孤独が、一流の孤独です。 勉強でも仕事でも恋愛でも、自分が心地いいコンフォートゾーンに閉じこもろうと思えば閉じこもれるのです。 そこにいれば安心が得られます。 ただし、自由は得られません。 その中に不満が生まれます。 コンフォートゾーンを抜け出して、1人でアウェーに行ってブーイングを浴びるリスクを背負えるのが、一流の孤独です。 理解されないのは、自分の中にまだ神秘的な部分を持っているからです。自分をすべて理解してほしい人は、相手もすべて理解したい人になります。 透明人間は自由です。 自由を得るということは、誰も気づかないということです。 それはイヤだから、透明人間は帽子をかぶるのです。 帽子をかぶると透明人間の意味がなくなります。 ネット社会は、関心を持たれないことへの恐怖がきわめて強くなります。 関心を持たれないことに、感謝しよう。 トライしないのは、失敗を恐れているのではありません。 「失敗すると。みんなが自分から離れていく」という幽霊におびえているだけです。 許せないと、自分の世界がどんどん狭まっていきます。 最終的には、自分自身も許せない対象になります。 「許せない私は許せない」ということになるのです。 売れない画家は、たくさん売れないから孤独ということではありません。 1人でいいから買ってくれる人が出てきた瞬間に、その画家は自殺しないですむのです。 大勢の理解者を求めると、理解者が少ないことに孤独を感じます。 その時、たった1人の熱烈な理解者がいればいいのです。 人生においては、孤独をとるか成長をとるかという分かれ目があります。 孤独の中から成長が生まれるので、孤独になれば成長します。 あらゆるガマンは、孤独に対しての恐れです。 子どもがお母さんに対してガマンするのは、「お母さんに捨てられたら自分は生きていけない」という寂しさからです。 ~ ところが、ガマンしてつき合い続けても孤独から抜け出すことはできません。 ~ 孤独を抜け出すためには、ガマンしないということが大切なのです。 「今大勢いるファミリーの中から抜け出して1人になりたい」という願望が根本にあるのです。 これは、一流の孤独の放浪願望です。 二流の孤独は、「ここから出たくない」と閉じこもります。 人間には悩む時間が必要です。 悩んでいる時に、脳が進化を遂げるからです。 友達がいると、悩みがなんとなく紛れてしまいます。 友達との楽しい時間を優先して、悩む時間がなくなると、自分自身の成長はとまってしまうのです。 将来がどうなるかわからないという孤独があることによって、その人間のステージが上がり、メンタルを鍛えることができるのです。 子どものころは、いつも母親がそばについています。 常に「あれしちゃダメ」「これしちゃダメ」と注意されたり。何をしてもお母さんに報告する必要があります。 「いかにここから抜け出していくか」と考えるのが、孤独を目指していくということです。 子どもにとっては、親という存在がいることで孤独志向が強くなるのです。 誰かに何か言われる。 悪口を書かれたり、中傷されたり、ウワサ話をされたり、仲間ハズレにされても、そんなことで傷ついているヒマがありません。 自分の人生の目標との格闘で傷だらけになっているからです。 自分の目標がある人は、他者からの中傷はまったく気になりません。 自分の目標がない人は、自分の目標との格闘がなくて傷ついていないので、他者からの中傷で一番傷ついてしまいます。 孤独で大切なことは、「スルーする力」を持っていることです。 「時間を生み出してくれるなら、悪口をいくらでも聞きますよ」~ ほめられると、かえって気を使ったり、ほめてくれた人に時間を少し使ってあげなければなりません。 悪口を言われると、その人に時間を割く必要はないので、ムダな時間を使わずに自分の時間がつくれるのです。 反対意見を言われても、一流の孤独は反論しません。 悪口を言われたり、中傷されたことに対しても、いっさい反論しません。~ 反論するということは、かかわり合っているということです。 賛否両論別れても平気~ 支配されるのは、もはや自分で考えることを放棄している受け身の状態です。 そのため、テロやカルトに巻き込まれるということが起こるのです。 「影響は受けても、支配はされない」というのが、勉強する時の大切な考え方なのです。 大切なのは、意見が分かれたところからです。 二流の孤独は、意見が分かれると逃げてしまうので、自分の成長がなくなるのです。 孤独になることは、少数派になることです。 ~自分が少数派になっても、多数派も少数派も攻撃しません。 「いろいろな人がいていいんじゃないの」と考えて、攻撃という発想がないからです。 弱い者いじめは、強い者が弱い者をいじめるのではありません。 弱い者がさらに弱い者をいじめるのです。 異質なものとの出会い、異質な体験との出会い、異質な価値観との出会い、異質な宇宙との出会いが、人間が成長する瞬間です。 大切なことは、信頼しているかどうかではなくて、相談できる人がいることです。 そのアドバイスを素直に受け入れられる人がいるかどうかです。 まず信頼して相談できる人を1人持てばいいのです。 相談する人が大勢いる時点で、その人の中ではすでに迷いがあります。 たとえ好きな人であっても、自分の目標を優先するのが、フランスの女性の独自の生き方です。 「孤独」とは、「目の前の事態を、自分で考えて、自分で決めること」です。 「誰かに決めてもらう」となった時に孤独ではなくなります。 リーダーになることは、誰も決めてもらう相手がいないということです。 「他人」という発想が、人間関係において必要です。 「他人」とは冷たいことではありません。 相手を1人の人格と認めることです。 「孤独でしんどい」という人は、「自分は見返りを求めすぎていたのかもしれない」と考えてみると、しんどさが抜けます。 孤独を恐れる人は、出会いを求めて何かをします。 よく「どこへ行けば出会いがありますか」と聞く人がいます。 出会うためにそこに行った時点で、その人に出会いはありません。 「出会うために来ている」という必死さがあるからです。 それよりは、仕事でも習い事でも、一生懸命していれば、一人ぼっちでいても必ずそこに出会いがあるからです。 僕は大学時代、1人でいたので本を読めました。 僕が大学時代にラッキーだったのは、たった1人の友達が偏屈でめったに会わなかったので、本を読む時間を与えてもらったことです。 孤独でなければ、本は読めないのです。 女性でも、現地集合・現地解散ができる人とできない人がいます。 現地集合・現地解散で寂しくないと言える人が大人の女性です。 まず自分の弱さを認めることが、二流の孤独から抜け出す方法なのです。 「孤独」は、「孤立」ではありません。 孤立は、受け身の独りぼっちになる状態です。 まわりをみんな遮断して、敵にしてしまうのです。 孤独を避けるから孤立が起こるのです。 孤独を避けなければ、孤立する事態にはならないのです。 「孤立」という言葉の定義は、「他者から学ばないこと」です。 人間の生き方は、自由をとるか、安心をとるかの二択です。 自由を選ぶと、そこにはリスクがついてきます。 自由とリスクはセットです。 「自分は孤独なんだけど」という時、世の中全体で自分1人が孤独だと思っていることが一番つらくなります。 実際は、世の中に孤独でない人はいません。 全員が孤独です。 「自分だけが孤独なのではない。みんなが孤独なのだ」と気づくことで孤独も悪くないなと思えるようになるのです。 【あれこれ】 中谷彰宏 - Wikipediaってどんな人? 人間は、孤立感を感じると、本能的に不安を感じる生き物のようである。 その孤立感は、集団生活の中で生き延びるために必要な感覚であるらしい。 大昔、狩猟生活の時代、仲間と協力しながら獲物を捕らえた。 頻繁に捕獲できるわけではない「ごちそう」にありつくためには、仲間でなければならない。 言ってみれば、孤立感は死に結びつく感覚だった。 サルの世界でも、仲間ハズレになったサルは悲惨である。 「能ある鷹は爪をかくす」。 昔の人間社会(今ももちろんその名残は残っているが・・)では、よくできる人がその能力を発揮した場合、嫉妬や妬み、恐れなどの感情が本能的に働き、その人を排除したり、疎外したり、あげくの果てに殺してしまったりすることが多かったと、何かの本で読んだことがある。 その能力にびくつき、自分たちの輪が乱される、その人に乗っ取られる,などの集団心理がそうさせるようである。 あるいは、個性的な枠を飛び越えた人間を、「魔女狩り」だとか言って処刑したり、そんな人間の本能が、「孤立感」に大きな不安を注ぎ込む。 小学校や中学校時代、自分は昼休憩が怖かった。 一時、一人で弁当を食べる時期もあったが、その時の不安感を今も思いだす。 「友達いないの?」とみんながささやいているように感じたものだ。 「友達何人できるかな?」という歌は、その子供の価値を友達の人数で決定する、ステレオタイプの日本社会を象徴する下品な歌だと感じている。 孫の入学式の時に合唱でみんながこの歌を歌った時はとてもガッカリした。 いまだにこの価値観の中で集団生活をしないといけない子供はかわいそうだと思った。 校長先生も「たくさん友達を作りましょう」と言っていた。 教師のみんなもこのことに何も疑問を持たないとしたら、多様性を認める文化が日本にはまだ育っていないのではないかと感じる。 しかし、自分が教師だった時に、このことを正面切って言えるかどうかもまた疑問である。 「友だち百人できるかな~」と歌って育った子供たちは、友だちが多ければ多いほど周囲は褒めてくれ、逆に友達が少ないと劣等意識を植え付けられる。 そして、孤独がいけないことのように錯覚してしまう。 「つれしょん」 「みんなで渡れば怖くない」 「飲み会は出るのが当たり前」 「酒を注いで回る」 個の考えが定着していない日本では、集団生活になじみにくい人間の生きづらさは半端ない。 ただ、そんな風潮に流される自分の二流の孤独ってものを意識したとき、それを一流の孤独に変えていく、そんな力を持たないとつぶれてしまう。 中谷彰宏さんと言えば、とてもスマートで、できる俳優のイメージがある。 そして、一流の孤独を生きるかっこよさが、「自分もこんな風に孤独を磨きたい」とつい皆に思わせる。 大学時代に友人がひとりで、自分の邪魔をしないので読書をたくさんできた、などとさらっと書いている。 それでいて、好き嫌いで人を判断せず、嫌いな人からも多くを学べるその度量の大きさ。 何か勇気を与えてくれる本だな、と思った。 孤立感は感じる必要はないし、感じるだけマイナスになる感情だが、孤独は良いことだらけである。 孤独の時間を大切に過ごし、少人数の友人と深く心の交流をし、「一流の孤独」を追い求めていく生き方も難しいけどなかなかいいもんだな、と改めて感じた。、