500羅漢の微笑み(境界線とメディア)

2010/03/28(日)13:30

ニコリの投函日和

桜の季節。パズル雑誌ニコリの鍛冶真起さんの新刊本が出た。題して「数独はなぜ世界でヒットしたか」。私もビジネス書のコーナーで見つけた。すごいことだ(笑)  帯には、「ニンテンドー、ホンダ、ユニクロより有名な世界ナンバー1パズル=数独」とある。そうか、そう言われると、オックスフォードの辞書などにもすでに登録されて、SUDOKU(数独)は一般名詞と化しているそうだから、あながち誇大広告とは言えない。  それでも、もともと、「饅頭屋のような商売」がしたいと思ってられた鍛冶さんのことだから、淡々としている。そこが魅力だ。それにしても、あの取次すら頼らない、ニコリが世界に冠たる企業と横並び(ヨコの列)になっているのが面白い。  鍛冶さんとは、15年も前に手紙のやりとりをした。私の通信も送った。そうしたら、何回かして、「本屋さんに行くと言ってウルグアイの競馬場に行った」という鍛冶さんの本を贈ってくださった。ちなみにこの本はあの「羽鳥書店まつり」でも出品されていた。羽鳥さんも読まれたに違いない傑作なのだが、タイトルからして、羽鳥書店まつりでは初日はそのままになっていたが、3日目くらいに来たらなくなっていた。  まだ95年当時SUDOKUのことは話題にはなっていなかった。ニコリの創成期の話が面白かった。だいたい、「目に止まった日が発行日」などと奥付に入れる雑誌がどこにあろうか(笑)そもそもニコリという名前自体、朝喫茶店でスポーツ新聞の競馬欄に「今週行われるイギリスのダービーの一番人気馬はニコリ」とあってカチンとハマってこれでいこうということになったのだそうである。こうして、会社と雑誌の名前になったニコリの本物(馬)に会いたいと思うこと16年。ついにウルグアイまで出かけてしまうというお話である。帯には「人生、奇妙、不可解。故におもしろし。夢枕獏」とあった。  何を隠そうぼくもこのパズル雑誌ニコリのお陰で人生をちょっとだけ軌道修正させて頂いた一人である(笑)。とはいっても、ぼくの場合には、ひたすら、84年ごろに六本木のABC書店でニコリをとって以来、ほとんどパズルをやったことがない。なのになぜか手に取ってきた。ニコリの判型から装丁からイラストから、楽しすぎたからである。誌面が生きてはみ出している。これは障害者とのコミュニケーションを学生の頃から体験していたぼくにとっては、新しい発見でありつつ、同時に親近感も感じた。伝えたいという想いに、まさるものはないということだと思う。 たとえば、95年のパズル通信ニコリの表紙には「これから先の遊び時間ゼンブまかせて」とある。特集は「昼だランチでパズルだ」とあり、開くと、最初の有亜さんの作品が登場する(たぶん読者ニコリストではないだろうか。ニコリはその出発当初から読者と作者と出版社が混然一体とパズルに向かっている)。「残り物で昼ごはん」という特集のパズルで、冷蔵庫の中のものがA:卵、ハム、レタスうどん、B:レタスうどん、卵、カレーネギ、C:…とあり、一方、できあがりの昼食が、ライスカレーにレタス付き。卵、うどん、ネギが載っているどんぶり。パン卵パンパンハムパンなどあって、それらの定食はどの冷蔵庫からのものか、がパズルになっている。  95年というと、私は長崎盲学校OBと5人で共同生活をして2年目の頃で、実際の冷蔵庫については、5人が共同でシェアしていたこともあり、その食材の組み合わせの妙もさることながら、たとえば、T君などは識別のために自分の牛乳パックには輪ゴムをつけていたりして、ひじょうに面白かった。視覚に頼らないということは、食材が前に出ていても奥にあっても手に届く以上は平等であることにもなろう。  あっそうそう。そもそもその共同生活からして、ニコリと関係していた。偶然に満ち溢れていた。  95年からさらに遡ること4年前、91年頃のある日。視覚障害者の研究大会のような集まりに参加した私がふとその客席で目にしたのが、「ニコリ」であった。  えっなんでこんなところに! ただでさえ、まだ、マイナーな存在であったのに、よりによって視覚障害者の研究大会の席にたった一冊のニコリが。。。  私は研究大会のようなたいそうなところで人に声をかけるなどということは普段はしないのだが、この時ばかりはその持ち主に恐る恐る声をかけてみた。それが石田良子さんであった。ニコリのパズルのファン(ニコリストという!)であり、点字をパズルのような面白さで、今も視覚障害者の仲間たちとわいわいやってられるあの石田さんであった。そもそも研究大会にニコリをもってくること自体ステキである。後日、夕やけだんだんでの点字物語でもたいへんお世話になっている。  当時は新宿で伝説的ともいれるコンテスという喫茶店のマスターをやられていた。ニコリストと盲ろう者が集まるサロンともなっていた。相互に交流もされていた。コンテスではつねに、仕事の手を休めては、あるいは、閉店後に点字を打っている石田さんの姿があった。壁にはエッシャーの絵も飾られていて、もちろん、喫茶店というか食事もとても美味しく、ツナ風味ガチャガチャなどは私のお気に入りだった。あっそうそう。ここでウェイターのバイトもさせてもらったこともありましたっけ。喫茶店のメニューの組み合わせ、これをお客さんに同時に言われるのは私にとってはパズルなのでありました(笑)。ろう者のウェイターもその前には居ましたよ。  そのコンテスの常連でもあったのが、内田勝久君で、その直後に、私たちは意気投合して共同生活を10年ほど始めたという流れだったのである。  とするなら、この10年間はまさにニコリにハマった、パズルというよりニコリ的風土にハマった10年間といっても過言ではないのでありました。とはいえ、コンテスには盲ろう者用というか立体のパズルもあって触わるニコリとでもいうべきオブジェまであったので、パズル的環境には身を置いていたし、ニコリのハガキについていたおまけのようなポチコン(点と点を想像力でつなぐ)は、後に星座を石田さんに点字訳?して頂いて、語り部の川島昭恵さんがその星座を配って電気を消した中で彼女が神話を語るというイベントを企画した際の元の元のネタになっていたんでありました。  そういう意味で今もパズルをやったことがほとんどないくせに(ニコリの発想飛びは共同生活仲間みんなで投稿したことがある。玉砕した(笑))、今も本棚に鎮座している。  そして、いま、数独本を横目で見ながら、数字付きの大きな9ますのオブジェを作製中である。お楽しみのオブジェだ。  まったくもって、私にはニコリや鍛冶さんのような飄々としたところが、ないし、特段パズル好きでもないわけだし、接点なんかないはずなのに、気がつけばこうして、ニコリがいつも、ある。95年のニコリの裏表紙には、「目まいがしたら倒れてパズルだ」とある。余計なお世話だ(笑)  鍛冶さんとはお手紙だけでまだお会いしたこともない。若いころバイトを40種類もこなしたとある(このへんの感覚は尊敬に値する。聞いてみたいところだ。夢枕獏さんとは国鉄車両工場のバイト仲間だったらしい。こういう出逢いはバイトならではであろう。最近は非常勤というとイメージも環境も悪いが、人生のタネとしてバイトは経験するに越したことはない。3月はぼくは桜餅の工場にいたこともある)。 演劇そのものをぶち壊す寺山修司より滅茶苦茶やりつつスターもつくる唐十郎の紅テントのほうがより面白かったといい(「本屋に行くと言って~」)、集中力と忘却力を兼ね備えて、心を真中に置くことを意識されているという。マイナスの幅がわかっている人はプラスの幅が同時にわかるとも。ニコリの中にヒーローをつくらない。パズル作家の人気投票もやらない。「この問題が数独の傑作ですよ」と言ってしまったら、そのときはセンセーショナルだけれど、その後の問題の幅を狭めることにもなりかねない(「数独はなぜ世界で~」)。ああ、目まいがする。鍛冶さんはきっとこの振れ幅のどこかにいらっしゃるに違いない。私も15年間その振れ幅のどこかにポスト投函してきたことになろう。 谷根千界隈なら、ニコリは往来堂に置いてある。まずは手に取って桜日和にニコリを投函されてみてはいかがだろうか。 (3378文字)

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