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カテゴリ:雑感
セレンディピティは昨年 茂木さんの「ひらめき脳」で知ってからすっかり とりこになってしまった。http://plaza.rakuten.co.jp/555yj/diary/200606300000/ 金川さんのHPによくまとめていらっしゃるので 少し引用させてもらい 自分の栄養にしたい。http://www.toyama-cmt.ac.jp/~kanagawa/essay/serendipity.html
こんな事例で; セレンディピティは「予期せぬ掘り出し物」「掘り出し物上手」、「偶然、幸福に出会う能力」というような意味。 又、「狙ったものよりも、その横にもっと面白い発見がある」、とか。 セレンディピティというものは、何かを意識して散歩すれば、町の様子が違って見えるようなことと似てる。
ドイツの文芸学者クルティウスは当時、入手困難とされたワイマール版のゲーテ日記を探していたという。 ある日、ソーセージを買って、包み紙を見ると、それが何と探し続けていたゲーテ日記の一枚であった。
慶長5年(1600年)のころ、鴻池の山中勝庵の酒蔵で、ある男が叱られた事に対する鬱憤晴らしで酒(濁り酒)の中へ灰をほうり込んだところ、清らかに澄んだ酒となった。(カマドの灰はアルカリ性で、濁りの成分が凝集されて沈殿し、その上澄みが清酒。) 鴻池は新開発の清酒を江戸に運んで財をなす。
古来、科学における歴史的な大発見や独創的な論理的展開は、セレンディピティに負うところが多い。セレンディピティを収穫するセンス、ひらめきは確かに革新をもたらす。 アンリ・ポアンカレの関数論は 道路を渡ろうとしていたとか、馬車に乗ろうとしていた時にインスピレーションが来て生まれたという。 モーツァルトはビリヤードをしている時に『魔笛』のメロディが生まれた。 ハイドンは仕事に詰まるとチャペルに行ってアベマリアの祈りを捧げた時に構想が浮かんだ。
『文学的な「美」も 理論物理学が私たちに見せてくれる「美」も、そんなに遠いものではない』--by湯川秀樹From”旅人”。 湯川の話に老子や荘子などの中国の古典がよく出てくるが、それは物理学の思考を邪魔するのではなく、助けとなっていた。 トランジスターの研究で みんな不純物を取るのに一生懸命だったが、 ノーベル賞の江崎玲於奈は 逆に不純物を入れて研究した。 その結果、「エザキ・ダイオード」が生まれた。 ノーベル化学賞を受賞した福井謙一は小学生のころ絵描きにあこがれ、旧制中学時代には文学博士を夢見て、旧制高校時代は理系だったが、もっぱら勉強したのは文系の学問だった。 「創造をめざすには、せまい勉強はためにならない、努めて広く学ぶことが大切」と福井は書いている。
オリジナリティなんてものも降って涌いてくるものではない。天地開闢の時に全て出尽くした、と考えればいい。僕らが書いている言葉が全部載っている本がある。辞書だ。 そんな風に諦めたところから始めていこう。
宴会よりも二次会の方がおかしかったり、間違って借りてしまった本が面白かったり、映画館の二本立て(古い!)で目当ての映画よりもB級映画の方が感動したり、レコード(古い!)を買ってB面(古い!)の方がよかったり、ミスタードーナッツへ行っておまけの方がよかったり、姉とつき合っていて妹の方と結婚してしまったり、ーー。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年01月16日 22時33分13秒
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