Walk in the Spirit

2008/11/13(木)15:33

判断の拠り所、脱力なくしては、

ミニストリー(3553)

今日の明け方、 "大切なのは、脱力しているか否かだ、" がまたやってきた、 たとえば、ブログで何を書くかなどは問題外、自分のコンデション(脱力していること)こそが最優先であるということ、脱力状態では行動の縛りから解放される、 (ブログなら何を書いてもいいことになる、) そして、さっき2つの記事を見て、再度確信が来た、まず、こちら紺ガエルさんから、 「となりの車線はなぜスイスイ進むのか」 2008-11-11 11:02:51 抜粋で、 「正確な予想をするには、人々が予測に対してどう反応するかも考慮に入れなければならない。さもなければ、予報は正確にならない」 これは、金融市場での台詞ではない。 交通のことについて語っている本なのだが、驚くほど、市場に携わるものに示唆を与える。交通も経済と同様、「人の行動は予想できるかに見えて、予想できない」のだ。たとえば、個人的にすごく考えさせられる、こんな事実。市街地での死傷事故を防ぐためにこれまでは、歩行者や自転車向けの歩道を造り、ガードレールで守って、横断は、ガードレールの切れ間からしかできないようにして、見通しが悪くならないように、街路樹を切ったりした。そしてドライバーの注意を喚起するために、多くの道路標識を立てたりした。そうすれば、クルマの運転がしやすくなり、歩行者や自転車をはねる、死傷事故が減るもの、と考えられた。 でもそうすることによって実際は、死傷事故はむしろ増える傾向がある、という。 なぜかというと、クルマで走りやすくなった道では、ドライバーは以前よりもスピードを出すようになる。 上記のような対策で、歩行者や自転車との接触の件数そのものは減るかもしれないが、通過する平均速度が上がることによって、接触した際の死亡率が高まるのだ。つまり、歩行者や自転車を守れ、という趣旨で行われたインフラストラクチャー整備や、情報の提供も一見正しいように思えるが、実は反対に、歩行者や自転車の死亡事故を増やしてしまう。 投資家を守れ、という趣旨で行われた市場インフラの整備や、ディスクロージャーの提供も一見正しいように思えるが、実は反対に、市場の密結合による複雑さを増すだけ。ゴキブリのようなシンプルかつ原始的なリスクマネジメントが、長い年月を生き延びるのには、もっとも適している、ということを主張した本が、「市場リスク 暴落は必然か」 、だった。Black Swanで語られたような、人のリスクに対する軽視についても書かれていて、実は、この本の帯にある、「交通を制する者は、人生を制す。」というのも、あながち間違いではないかも。 ちなみに、米国での交通安全専門家の第一人者は、どんなクルマに乗っていると思いますか?「ベンツの最新式の安全制御装置、ESCとかABSつきのやつ?」とお考えかもしれないが、彼が乗っているのは、もっとも値段が安く、軽量な10年以上前のクルマ。なぜなら、「安全でないクルマ」を運転しているときの方が、人は慎重に運転するので、事故を起こしにくいのだ。 逆に「最新装備で安全なクルマ」を運転している人の方が、クルマの性能や自身への過信によって、事故を起こしやすい、そうだ。(以下略) まず、将来の予想は容易ではないこと、 いや、不可と言ったほうがいい、これは量子力学の世界然り、 Observation Law(観測の法則)と言うのがあって、量子を観測しようとすると、観測する行為自体が量子に影響を与え、正確な観測を不可にする、 そしてNYDJ/NK225然り、 昨年来の暴落で影響が大きかったのがクオンツよろしくコンピューター世代のトレーダーによるプログラム売買、 過去何十年のデーターベースで最強のプログラムを組んでたはずが、何万年に一回の異常事態とかで、いっせいにこけた、 そう、正確な予測は困難なのだ、そこで、人の取れる最善策は事後の対応となる、 最悪を想定して行動する--、これが人の限界だろう、 (現実はこれさえもしていないのだが、) それでも人は、予測、いや予測を超えて、判断をしなければいけないときがある、その時の判断の拠り所はどーするか、 才能と霊感 2008-11-13 02:44:06 抜粋で、  霊感とは、自分の外からやってくるものである。人間には自分の能力的な限界というものがある。それを素質と言うが、自分でどうこうできるものではない。できることと言えば、努力して素質に見合った成長を遂げることくらいである。(中略)  では、何をもって人は道の判断材料を選るのか?実は、その人の心の奥底にある純粋さである。純粋な人は、この二股道で神の声を聞く。この声は小さいので、心を澄ましていなくては聞こえてこない。世俗の事に心を煩わせている人には聞こえてこないのである。 イエスは、これをマルタとマリアの姉妹にたとえている。妹のマリアがイエスの話を熱心に聞く余り、教会の仕事を疎かにした。姉のマルタは自分だけが忙しいので不平に思い、イエスにマリアに注意してもらおうとした。ところがイエスは、マリアを褒めた。  「あなたは多くのことに心を配って思い煩っている。しかし、無くてならないものは多くはない。いや一つだけである。マリアはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」ルカによる福音書10章41~42  イエスの時代に生きて、イエスの話を聞くことができた人は幸いである。だが、せっかくイエスの側にいながら、マルタはイエスの話よりも客人の世話をする自分を選んだのである。そうすることで褒められると勘違いして。マルタには、人から良く思われたい、褒められたいという、世俗の価値観が生きていた。だから、イエスは純粋なマリアを褒めたのである。  美術大学を目指して絵を学ぶ場合、目標をどこに置くかで成長の結果が違ってしまう。芸大に入りたい、公募展に通りたい、お金を稼ぎたい、こういう俗な価値観で絵を学んでも自ずと限界がある。僕は、研究所で先生が与える課題を無視した訳ではないが、一枚一枚にテーマを与えてそれを最優先させた。それは、心の中の神の声に従った結果であり、そういう意味では僕は霊感に恵まれていたのである。 だが、神の声はいつでも誰にでも語られている。人がそれに気が付かず、破鐘(われがね)のように響いてくる悪魔の声に従っているだけなのだ。そう、二股道とは、神の光の道と、悪魔の闇の道の二股を指すのである。そして、神の声は心を澄まさなくては聞こえてこない小さな声なので、大半の人には聞こえてこないだけなのである。これは、心の持ち方における自己責任なのである。  人生の岐路とは、些細なきっかけで迫られる二股道である。だが、その道の行く末は天国と地獄であるから、決して疎かにはできない。また、この世に属す人間で神による霊感を持つ者は極端に少ない。だから彼らの心の中は空虚である。その空虚さから逃れるために、擬似的な霊感を得ようとする。それが、悪魔の誘惑の声とも知らずに。チャネリングとか、自己啓発とか、カルトや様々なセミナーの実態はこれであり、心を澄まさなくても聞こえてくる破鐘の音なのである。才能のない者は、その空しさから闇の声に従い闇の道に至る。そして、名声や高収入などのこの世的な成功によって満足するのである。その結果、魂も霊も悪魔の物になってしまうのだが。" 判断の基準は一般的にはその人の経験がものを言う、あるいは膨大なデータかもしれない、 しかしいずれも限界がある、 やはり、ここは平さんおっしゃるとおり、外部からの声に着目したい、するとその人の心の奥底にある純粋さがキーとなる、 その人の心に働きかけるのは、2者存在すると言われる、神と悪魔だ、神は純粋な心に、 悪魔は不純な心にささやくと、 ドーデもいいような案件は、自分の都合で決めたり、あるいは悪魔の声に任せてもいいが、大事な案件は、神の声を聞きたいところだ、それには心を空っぽ、あるいは落ち着かせた状態で待たねばなるまい、疲れた状態、欲ボケの状態では悪魔がささやくばかりになる、 日々是好日の毎日なのだが、日々是判断が繰り返されるのも日常のこと、この判断を決する神の声を聞こえるようにするためにも、 日々、いや瞬間々々の脱力は欠かせない、

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