Update
十数年使い続けたメールアカウントが先ほどブロックされた、
アクセス不可で、
現在、担当の返事を待っているところ、
初めての経験だが、
こちらの本の、
巻頭言の言葉を思い出して、
ナルホドと、
何故か、心のうちに、
かすかな喜びがあるのはドーしてでしょう?
何よりも、あいつのあわてている様が、
浮かんでくるからか、
更新日時 2012年1月5日 20時55分28秒
追記)
先ほど無事復帰、
フリーメールとは言え、
ほとんどの情報が集められたアカウントだったので、
一安心、
実は今回のアカウントブロックは、
(その発生タイミング的に、)
オーム事件の平田関連で、
メモ用で、自分のメールアドレスに、関連リンクを、
下記ヘッダーつけて送った直後でもあった、
(ヘッダー名):聖路加国際病院=陸軍+米軍=厚生労働省
4 聖路加国際病院歴史
1933年(昭和8年):
皇室・米国聖公会・米赤十字などの寄付により病院が再建され、聖路加国際病院及び聖路加国際医道院(St. Luke's International Medical Center)とする[19]。
1943年(昭和18年):
戦時体制下で大東亜中央病院と改称する[19]
1945年(昭和20年):
聖路加国際病院があることにより築地・明石町一帯は東京大空襲による爆撃を免れ、(一説には米軍が病院屋上より爆撃地点を確認したとの説がある。モー・バー グ参照)、日本の敗戦後には占領米軍に接収され、1955年(昭和30年)まで米軍極東中央病院として使用されたた[19]
1955年(昭和30年)
「本院」が米軍から返還され、現在の国立がんセンター中央病院がある場所に「聖路加築地分院」を開設して診療していた病院は現在地に戻った[19]。廃止され た「分院」の方は、その敷地と施設において国立がんセンターが発足[要出典]して、その目的で使用されるようになり今日に至っている
1963年(昭和38年):
付属の看護専門学校を改組し4年制の聖路加看護大学とする[19]
1992年(平成4年):
震災後の仮設病院跡地に新病院が完成[19]
1995年(平成7年):
地下鉄サリン事件が発生。最寄り駅である築地駅で最も多くの被害者が出たが、当時の院長日野原重明の積極的な指示により、本件で最大の被害者受け入れ先となった[19]
これが、その筋の気にでもさわったのかな、
とも思ったが、マッ、復帰したんでドーでもいいや、
*日野原さんはなかなか興味深い人だ、
真珠湾攻撃で、日本人に反省を求める記事を書いていたり、
元米軍病院(聖ルカ)の名誉会長で、
その聖ルカ病棟はたまたまオーム事件のすぐそばにあって、
被害者の収容を積極的に指示したり、
偶然かな、