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カテゴリ:タイガース背番号史
引き続き、背番号2の2000年以降を見ていく。 背番号2(その5)
的場寛壱 内野手 2000(平成12)年には、ドラフト1位ルーキーの的場寛壱が、平尾から剥奪された背番号2を引き継いでいる。 3年前のドラ1今岡誠がいるにもかかわらず、ポジションのかぶる的場をまた1位で指名したのは、野村監督の今岡に対する評価が低かったことが原因と言われている。 しかし、身体が硬かったのか怪我が多く、毎年のように手術を受けるなど、万全の状態なのはキャンプのときだけという印象が強い。 6年間在籍しているが、背番号2だったのは2年目まで、2005(平成17)年に引退するまでの残り4年間は99番をつけた。
藤原 通 内野手 的場のあとに2番をつけたのは、2002(平成14)年にドラフト6位で入団した藤原通である。これで、3人続けてルーキーが背負うことになった。 背番号2だったのは2004(平成16)年までの3年間。その後は関本健太郎から譲られた44番をつけた。 立命館大時代は4番として活躍した藤原も、プロでは苦しみ、ルーキー年から5年間は通算14試合にしか出れなかった。 2007(平成19)年に、岡田監督に抜擢されて44試合に出場し、ようやくと思ったところ、翌年は怪我で1年を棒に振り、2009(平成21)年を最後に引退した。
野口寿浩 捕手 藤原のあと、2番を引き継いだのは、2003(平成15)年に坪井智哉とのトレードで日本ハムから入団した野口寿浩だ。 ただし、タイガースに移籍した最初の2年間は27番。2番をつけたのは移籍3年目の2005(平成17)年から2008(平成20)年までの4年間である。 本来、高校野球などでは2番は捕手のポジション番号なのだが、タイガースでこの番号を捕手がつけるのは、初代の小川年安以来69年ぶり2人目のことだった。 ヤクルト時代には古田敦也、タイガースでは矢野燿大という正捕手がいたため、実力がありながら極端に出場機会は少なかった。 タイガース時代は井川慶との相性がよく、このバッテリーでノーヒットノーランも達成している。2009(平成21)年に横浜へ移籍した。
続く
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詳細な2番の歴史の解説。忘却の記憶がよーく整理できました。
改めて、猛虎は、他球団の終焉間近の、「昔の名前で出ています」の古参兵を性懲りもなく、大金を支払って、その場凌ぎ補強をしてきた歴史を痛感します。 バカ南社長もそれをさらに、大金で継続した単なるサラリーマンだったのでしょう。 讀賣に次ぐ伝統球団で、かつファンの人気は最高だが、なぜか黄金時代がなく、内紛頻発球団の体質の最大の原因かと思うと、ふと寂寞感に包まれました。 (2015年12月04日 19時26分14秒)
猛虎一筋さん
>詳細な2番の歴史の解説。忘却の記憶がよーく整理できました。 >改めて、猛虎は、他球団の終焉間近の、「昔の名前で出ています」の古参兵を性懲りもなく、大金を支払って、その場凌ぎ補強をしてきた歴史を痛感します。 >バカ南社長もそれをさらに、大金で継続した単なるサラリーマンだったのでしょう。 > >讀賣に次ぐ伝統球団で、かつファンの人気は最高だが、なぜか黄金時代がなく、内紛頻発球団の体質の最大の原因かと思うと、ふと寂寞感に包まれました。 ----- あまりに安直な補強の繰り返しで、振り返ってみるとビックリですよよね。無駄に使ったお金は驚くべき額だと思います。 それでも常勝チームになれないのが情けないです。 (2015年12月05日 14時14分25秒) |