タイガース非公式サイト2代目

2024/04/29(月)15:44

タイガース背番号史 21-6

タイガース背番号史(136)

背番号21(その6)2024年4月29日18時開始予定だったマツダスタジアムの広島-阪神戦は雨天のため14時45分に中止が決定しました    ということで背番号史を掲載するよ 背番号21の第6回目です 3人の選手を紹介するけど それぞれ1年ずつしか背番号「21」をつけていませんこういうこともあるのね 3人のうち2人が外国人選手よ これは仕方ないかもね 多分使いもにならなくて1年で解雇されたんじゃないかって想像つくから3人目は期待されたのに大物になれなかった投手ですでに背番号17その5で紹介してるよ そう山村宏樹投手よね ダネル・コールズ 内野手・外野手アメリカ合衆国カリフォルニア州サンバーナディーノ出身。1980(昭和55)年にオレンジコースト大からドラフト1巡目(全体6位)という高評価でシアトル・マリナーズに指名されプロ入り。メジャー時代はファースト、サード、ショート、レフト、ライトの守備経験があり、これを見ればユーティリティプレイヤーのように感じるが、どこを守ってもそれほど守備はうまくなかったようだ。メジャー実働14年で957試合2891打数709安打368打点75本塁打20盗塁445三振、通算打率.245という数字は平均よりやや下くらいかというレベルだった。中日へは1996(平成8)年に入団し130試合に出場、ほぼ1年間トップバッターとして起用されサードを守っている。打撃成績は513打数155安打79打点29本塁打で打率.302を記録した。  しかし、トップバッターなのに試みた盗塁はたった3回で、しかもすべて失敗しており相当な鈍足。サードの守備も動きが悪く20失策を犯すなど、翌1997(平成9)年から本拠地がナゴヤドームになる中日にとっては不要とみなされ、契約延長はなく1年で解雇される。1997年のタイガースは3度目の就任となった吉田監督をバックアップするため、超大物のマイク・グリーンウェルを獲得したが、出場わずか7試合で負傷し、5月14日に引退会見して帰国してしまった。 4番候補の突然の引退で頭を抱えた球団は、前年の実績を過信してコールズに目をつける。事情が事情だけに深く吟味する時間的な余裕もなかったのだろう。5月24日、コロラド・ロッキーズに在籍していたコールズを金銭トレードで急遽獲得することになる。背番号は「21」。  タイガースではファーストを14試合、サードを23試合、外野を20試合守ったが、足の故障もあってどうしても守備は三流で、エラーの次の打席に必ず凡退するという悪循環もあった。 打撃成績も63試合231打数56安打28打点7本塁打、打率は.245と期待外れに終わり次期戦力構想から外れて解雇された。 ダグ・クリーク 投手アメリカ合衆国バージニア州フレデリック郡ウィンチェスター出身。メジャーでは通算279試合に登板しているが先発は3試合のみ、ほぼリリーフ専門で、主として中継ぎやセットアッパーとして過ごした。1998(平成10)年、2年目となる第3次吉田監督は先発投手不足を解消しようと、左の速球派投手として獲得したクリークをメジャーで先発経験が3試合しかないにもかかわらずのローテンションに入れざるを得なかった。  4月5日の横浜ベイスターズ戦で初先発し7回1/3で1失点と好投して期待を持たせたが、その後6試合に投げて4連敗。28回2/3で24三振を取るが、フォアボールも25個出すなど不安定さが目立ち、防御率5.65。7試合で見切りをつけられ1か月で2軍落ちしてしまう。 その後はファームの試合でローテーションを守って投げ続け、17試合に先発し9勝1敗、防御率2.16の成績を挙げてウェスタンリーグ優勝に貢献した。勝率1位のタイトルもとっている。 しかしファームでは1試合に11個の四球をという当時の新記録を作るなど制球の不安定さは相変わらずで、1軍では危なくて使えないとみなされ、シーズン終了後に解雇された。 アメリカに戻ると5球団を渡り歩きながら2005(平成17)年までリリーフ専門として現役を続けたのち引退している。 タイガースでの成績は7試合0勝4敗、28回2/3で被安打23、25四球24奪三振。自責点は18で防御率5.65だった。 山村宏樹 投手(再掲)山村は背番号17-5で紹介しているが若干の変更を加えて再掲する。山梨県敷島町の出身で高校は甲府工業に進む。2年生の夏に甲子園に出場しすでにエースで4番という中心選手だった。1回戦で完投勝ち、2回戦敗退。3年次は県予選ベスト8で敗退している。​​高校生の投手としては、ストレートの伸び、変化球のキレともに高レベルでフィールディングのレベルも高く、「江川2世」と評判になり、1994(平成6)年のドラフト会議でタイガースに1位指名されて入団している。背番号は「17」。  もともと細身で入団時はまだプロの身体ではないと判断されており、1年目の1995(平成7)年はファームでの12試合に登板して0勝2敗、防御率6.49でもっぱら体力づくりに専念している。翌1996(平成8)年も一軍に上がることはなく、ウェスタンで3試合投げただけ。1勝0敗で防御率は1.13。非常に大事に育てられていたことがわかる。1997(平成9)年になるとファームでは7勝7敗、防御率も3.12と力を出し始め、6月には初めて一軍に呼ばれ中継ぎで5試合に投げた。しかしすぐにファームに戻され、一軍では0勝0敗で防御率は4.82という数字を残しただけだった。1998(平成10)年は一軍で10試合に登板し先発も5試合経験する。9月17日には広島戦でプロ入り初勝利も飾っている。しかしここまで順調に階段を上っていると思われた山村が、突然自律神経失調症を発症して心身のバランスに変調を来たし、まともに野球ができる状態ではなくなってしまうのである。​ 当時のタイガースでは(あえて実名で書くが)中込伸によるチームメイトへの嫌がらせが横行していると噂されていた。真相は当人たち以外には分からない。山村は「後頭部踏みつけ事件」もう一人中谷仁の「携帯眼球直撃事件」という報道があったのは事実である。しかし中込が故意に起こした事件なのかどうかや、山村のケースではそもそも中込がやったのかどうかも霧の中だ。​​ 山村は精神的な立ち直りを期して1999(平成11)年に背番号「17」を返上し「21」に変えている。​​ しかし背番号を変えたくらいで気分が晴れることはなく、ファームの試合ですら投げられないほどになってしまい、オフに戦力外とみなされて自由契約選手となる。タイガースでは5年間で公式戦では1勝を挙げたのみ、事実上のクビだった。背番号「21」は1年着けただけで終わった。  この状況に救いの手を差し伸べたのが近鉄バファローズの一軍監督に就任したばかりの梨田昌孝だった。梨田は直前まで近鉄の二軍監督に就いており、ウェスタンで山村の投球を間近に見ていたため「潜在能力は持っているから環境が変われば再生できるはず」と山村を獲得している。​​ 2000(平成12)年、近鉄に移った山村は27試合(先発24)に投げて6勝9敗、翌2001(平成13)年は23試合(先発16)で7勝6敗とローテーションの一角でそれなりに結果を残すことができた。環境が変わったことで精神的に回復してきたのかもしれない。2002(平成14)年から2004(平成16)年までの3年間は1勝しかできず厳しい状況になるが、2004年の近鉄球団消滅による分配ドラフトで東北楽天ゴールdンイーグルスに移籍が決まるとまた復活する。2005(平成17)年は16試合(先発11)で2勝7敗だったが、2006(平成18)年には30試合(先発22)に投げて7勝10敗と頑張りを見せている。 その後はブルペンに配置されて2012(平成24)年まで18年に及ぶプロ野球生活を全うした。引退セレモニーではチームメイトに胴上げされている。   通算成績は225試合(先発90)31勝44敗2セーブ20ホールド330奪三振、671回1/3を投げ自責点374、防御率5.01だった。 ​​ なお、チーム内の嫌がらせ事件については、文春オンラインの記事(「ドラ1クラッシャー」中込伸は中谷仁の左目になぜ“至近距離から”携帯電話を投げたのか…元エースが語り始めた“24年前の真相” | 文春オンライン (bunshun.jp)​)が詳しいので参照してほしいが、やや中込を弁護するような内容になっており、これも真相かどうかは確かめようがない。 ​まとめ 思った通り両外国人選手は役立たずで終わった部類ね 1年で解雇の外国人選手って多いのよね山村投手は17-5で紹介済みだけど 改めて考えると あの事件がなかったらタイガースのエースになってたかもしれない素材だったとおもうなあ密室の事件は真相がわからず 当時のタイガースはかなり中込投手の方に目をかけてたようだし 握りつぶされてしまった事件かなこれについて先代に聞いても「うわさみたいな話で、ウヤムヤのまま終わったなあ。中込犯人説は確かにあったけど、どうやって終結したのかもよくわからないよ。最後は中込も干されて台湾へ行っちゃったし」と言ってるわ背番号21の7へ続く 

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