タイガース非公式サイト2代目

2024/07/27(土)13:39

タイガース背番号史 24-1

タイガース背番号史(154)

背番号24(その1)背番号24の第1回目ですこの番号は球団創設2年目からつけらています というか1年目はギリギリの人数で始めていて 2年目にかなりの新人が加わったから20番台の多くは1937(昭和12)年からつけられた番号なのね「24」をつけた選手は比較的少数なんだけど それは長く着けた人がいるから タイガースでは中心選手として有名な人も着けてるし 近いところでは残念ながら若くして亡くなってしまった横田慎太郎さんも「24」だったよねタイガースではどちらかというと野手が着けることが多い背番号です では早速見ていこうか 本堂保次 内野手大阪府八尾市出身。旧制日新商業(現東大阪市立日新高校)から1937(昭和12)年にタイガースへ入団し、背番号「24」を初めて背負う選手になった。 165センチ65キロという小柄な体格だったが、1958(昭和33)年まで現役を続けており、途中に戦争の影響で4年間のブランクがあるため実働は17年間だが非常に息の長い選手だった。「知の本堂」と異名を残しているが、これは相手のサインや選手の癖を見破る能力に長けており、二塁手として内野陣をリードする頭脳的なプレイヤーだったことに由来している。入団してすぐレギュラーに定着し中心選手として順風満帆だった。しかし1941(昭和15)年に軍に召集されてしまう。3年間軍務につき最後はフィリピンでマラリアに罹患して1943(昭和18)年に除隊となった。1944(昭和19)年のシーズンからタイガースに復帰するも、戦争激化のため職業野球は一時中断となった。戦争が終わって1946(昭和21)年に野球が再開されると、2年続けて100試合以上に出場し、再びレギュラー二塁手として活躍する。1947年のシーズン終了後、他のチームを経験したいと「10年選手制度」を使って太陽ロビンスに移籍して、1948(昭和23)年の1年間プレーしたが、1949(昭和24)年はタイガースに戻って、再び背番号「24」を着けてプレーし、初めて3割を記録している。 左から 土井垣武 / 若林忠志 / 本堂保次 / 呉昌征 しかし翌1950(昭和25)年、プロ野球の2リーグ分裂に際して若林忠志らと行動を共にし、毎日オリオンズに移籍する。このため当時のタイガースファンからは「裏切者」呼ばわりされたようだ。毎日での1年目は打率.306、自身唯一の二けたである12本塁打を記録するなど大活躍の年になった。1958(昭和33)年まで9年間をオリオンズで過ごして引退しているがこの間4年間のコーチ兼任の時期もある。走攻守三拍子そろった名選手と言えるだろう。通算成績は1374試合4754打数1242安打588打点58本塁打145盗塁413四球289三振、打率261だった。引退後も毎日に残って1962(昭和37)年まで二軍監督、1963(昭和38)年から3年間は一軍の監督を務めた。その後1974(昭和49)年には近鉄バファローズに招かれ、コーチ、二軍監督、ヘッドコーチなどを歴任したのちスカウトとしても貢献している。1997(平成9)年6月8日、79歳で亡くなっている。 三輪裕章 内野手群馬県出身で桐生中学では二塁手として1939(昭和14)年から3年連続で選抜大会に出場している。軍に召集された本堂の穴を埋める形で1942(昭和17)年にタイガースに入り、本堂の不在で空いていた「24」を着ける。1年目は58試合に出場しており、これからという2年目の1943(昭和18)年のシーズン早々の5月、2試合出場したところで召集がかかってしまう。そのまま終戦を迎え、戦後はプロへは復帰せず、社会人チーム「全桐生」に入って1946(昭和21)年と1947(昭和22)年に都市対抗野球本戦に出場している。プロでの通算成績は60試合102打数12安打3打点、16四球19三振で打率は.118である。1990(平成2)年4月12日逝去。 奥井成一 内野手大阪府大阪市出身で府立生野高校を卒業後、岡山の実家で家業の鉄工所を手伝いながら実業団オール玉野でショートを守っていたところをスカウトされ、1948(昭和18)年にタイガースへ入団。本堂が太陽へ移籍して空いた「24」を着けてセカンドを守り34試合に出場したがけがのため1年で引退している。成績は34試合42打数12安打3打点2四球2三振で打率,286だった。そのままタイガースに残り、1949(昭和24)年からフロント入りし、マネージャーを務めた後、球団の業務部長、管理部長、資料部長などを歴任して定年まで勤めている。その後はベースボールマガジン社の顧問を務め、松木謙治郎が著わした「大阪タイガース球団史」を加筆し、1992年版「大阪タイガース球団史1992年度版」として同社から発行している。2008(平成20)年9月11日逝去。 まとめ3名の選手を紹介しました 最初の本堂さんは体格が吉田義男さんと変わらないくらいだから小柄だけどいい選手だったみたいねただし 途中で抜けたり 2リーグ分裂でパリーグへ行ったりがあって タイガースファンの評判はよろしくなかったらしいわ三輪さんと奥井さんは 今まで聞いたこともなかったんだけど 三輪さんの方は早々にプロをあきらめてる 奥井さんもケガで1年きりだったけど 球団に残って出世したね これも別の人生 別の意味の功労者です!24の2へ続く

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