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タイガース背番号史

2015.12.11
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背番号3を見てきましたが、今回が最終です。皆さんよくご存じの二人です。


背番号3(その4)

八木 裕 内野手

 長崎が引退し、1988(昭和63)年から背番号3を背負ったのが、のちの「代打の神様」八木裕である。

 八木は、岡山東商から三菱自動車水島を経て、1987(昭和62)年にドラフト3位で入団しているが、ルーキーイヤーは背番号14だった。もしこれを覚えている人があったら、相当なタイガース党といえるかもしれない。

 3番をつけたのは2年目からだ。2年目以降、引退までの16年間、3番を背負った。

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 レギュラー的存在になったのは、1989(平成元)年からで、そこから5年間100試合以上の出場を記録している。

 しかし、怪我の影響で守備力が落ち、1994(平成6)年から出場機会が激減する。1996(平成8)年は一軍出場が無く、オフには、一度戦力構想から外れてしまう。

 ここで監督に就任した吉田義男が、勝負強い打撃を惜しんでフロントに懇願、残留することになった。吉田監督は代打一本で勝負する道を説き、納得した八木は、残りの8年間を代打人生で全うした。

 通算代打成績は400打数、94安打、13本塁打、98打点、打率2割3分5厘。代打での通算98打点は、桧山進次郎が抜くまで球団歴代1位の記録だった。

 今季まで2軍打撃コーチを務めていたが退団。来季は外からタイガースを見守る。

関本賢太郎 内野手

 関本は、1997(平成9)年、ドラフト2位でタイガースに入団し、最初にもらった背番号は「64」だった。

 2001(平成13)年までの5年間64番をつけたが、2002(平成14)年、かねてからバースにあこがれていたこともあり、前年まで吉本亮捕手がつけていた44番を受け継ぎ、3年間つけた。

 背番号3に変わったのは、2005(平成17)年からで、前年までは前述の八木がつけていた。2015(平成27)年の引退まで11年間を「3」で通したので、関本を象徴する背番号になった。

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 内野すべてのポジションを器用にこなし、バントなどの小技も上手い。レギュラーの中でも貴重なユーティリティプレイヤーの地位を確立した。

 2度のリーグ優勝に貢献。ヒーローインタビューでの「必死のパッチ」はもはや代名詞となり、タイガースファンに愛された明るいキャラクターだった。晩年は代打でも驚異的な勝負強さを発揮した。

 2015年まで、背番号3を背負ったのは17人で、背番号2の24人に比べ少ない。平成になってからは、八木と関本の二人だけなので、安定した主力選手の番号として定着した。

 背番号3は、てっきり2016年のルーキーの誰かに引き継がれると思ったが、入団発表でみても誰もつけていない。今のところ空き番になった。

 平成になってからは、この2人しかつけていない。八木、関本のおかげで、タイガースでは好い番号になってきただけに、次に誰がつけるのか注目したい。

 ちょっと疲れたので、背番号史は一時中断します。1月から再開したいと思います。


 


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Last updated  2015.12.11 19:18:02
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2015.12.09

 引き続き、背番号3をいていきますが、昭和時代の3番は、あまりパッとした印象はないですね。50年代になってあの選手がつけて、よけいに印象が悪くなりました。

背番号3(その3)

上田卓三 投手

 後藤のあとに背番号3をつけたのは、南海ホークスから金銭トレードでタイガースに来た上田卓三である。1975(昭和50)年から2年間在籍している。

 当時炭鉱の町だった福岡県大牟田市の三池工業が、1965(昭和40)年夏の甲子園で初出場初優勝したときのエースで、このときは読売前監督原辰徳氏の父・原貢氏が監督だった。

クリックすると新しいウィンドウで開きます

 上田は決勝でも豪腕成田(元ロッテ)率いる千葉・調子商業を完封し、ドラフト1位で南海入りするも、8年間で10勝とプロの壁に跳ね返された。

 タイガース移籍後も1年目に3勝しただけで、2年目は未勝利。1977(昭和52)年に、再び金銭トレードで南海に戻り、その年に現役を退いた。

江川 卓 投手

 背番号3は、後藤が退団した翌年、1978(昭和53)年は空き番になっていた。

 その年の11月21日、ドラフト会議の前日であるこの日、読売は突如「江川君と契約した」と発表、驚天動地の騒ぎとなる。コミッショナーがこれを認めず、翌日のドラフト会議は読売がボイコットする中11球団で行われ、4球団での抽選の末、タイガースが江川との交渉権を獲得した。

 このあたりの経過は、カテゴリ「タイガース歴史館」で「空白の一日」として詳しく書いているのでご参照いただきたい。

 年が明けて新人の契約期限である1月31日、コミッショナーの案を受け入れる形で、読売が江川との契約を解除、同時にタイガースと江川が契約した上で、江川‐小林繁の交換トレードが成立する。

 ただし、新人選手はシーズン開幕前のトレードが禁止されているので、江川は一旦背番号3の投手としてタイガースに支配下選手登録され、開幕日である4月7日に読売の支配下に入った。ちなみに小林は新人ではないので、2月1日からタイガースに入団している。

 したがって、1979(昭和54)年2月1日~4月6日の間だけ、江川はタイガースの選手だったことになるが、もちろんキャンプには参加していない。タイガースは、長島の永久欠番である「3」をあてつけに与えたとも言われている。

 背番号3をタイガースの「ドラフト1位選手」が初年度からつけたのは、唯一江川だけなのだが、開幕前日までなので、泥を塗っただけで終わったようなものである。

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 逆に、この一連の事件で犠牲になった小林繁の19番は、不屈の精神を象徴するかのように好印象になったのは間違いない。

藤倉一雅 内野手

 江川が去ったあと、空き番となっていた「3」をつけるのは、1980(昭和55)年のドラフト外ルーキー、藤倉である。

 俊足で強肩でもあったが、バッティングが一軍レベルには至らず、控え選手のまま4年間を過ごし、弘田澄男との交換でロッテオリオンズに移籍した。

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長崎啓二 外野手

 藤倉のあと1年間の空き番状態があり、1985(昭和60)年に、池内豊と交換で大洋から入団した長崎が背番号3を引き継ぐ。

 大洋では1982(昭和57)年に首位打者を取るなど、12年間ほぼレギュラーで通したが、タイガースに移籍した時点ではベテランの域に達しており、守備に難があったため、ほとんどが代打出場だった。

 85年日本シリーズ第6戦の初回に飛び出した強烈な先制満塁ホームランは、タイガース史の輝かしい1ページである。

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 この時期の背番号3はトレードがらみが多い印象である。特に江川については社会問題にもなって、プロ野球史に汚点として残っている。ただし、キャンプにも参加せず、一度もタイガースのユニフォームに袖を通していないので、江川が「3」だったというのを知らない人も多いのかもしれない。

 

続く

 


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Last updated  2015.12.09 17:00:29
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2015.12.08

背番号3について、昭和30~40年代を見ていきます。

背番号3(その2)

河内忠吾 投手~内野手

 梶岡のあと、1956(昭和31)年に3番を受け継いだのは投手の河内忠吾だが、この人も2年間だけである。

 日大、熊谷組を経てタイガースに入団したが、すでに肩を壊していたため、内野手に転向。投手としての公式戦登板は無かった。野手としても2年間で3試合に出場したのみ。3打数0安打が2年間の通算成績だった。

 引退後はアマチュア野球の指導者として大成する。日大の監督を長く務め、大学選手権や明治神宮大会の優勝に導いている。

浅越桂一 内野手~外野手

 1955(昭和30)年、岡山県関西高校からタイガースに入団。最初の背番号は57で、3年間つけていた。その後、1958(昭和33)年から1964(昭和39)年の引退までの7年間が背番号3である。

 器用な選手で、内野はセカンド、サード、ショートとどこでもこなし、外野も守れる。実際に、在籍した後半は外野手登録になっている。サブ的な使われ方が多く、代打でもしぶといバッティングを見せた。

マイク・クレスニック 内野手

 クレスニックは、1963(昭和38)年のシーズン途中、大洋ホエールズ(現DeNA)へテスト入団し、翌年は36本塁打を放った強打者。大洋時代の登録名はクレス。

 1965(昭和40)年で大洋を解雇され、近鉄バファローズに移籍。近鉄では2割7分7厘、17本塁打を記録したが1年で解雇され、現役引退してしまう。

 三宅の目の負傷以来サードの穴の埋まらない悩みを抱えるタイガースは、1967(昭和42)年のシーズン途中、引退していたクレスニックを口説き現役復帰させる。

 前年まで浅越がつけていた背番号3でプレーしたが、ブランクの影響は大きく、タイガースでの成績は47試合で2割1分5厘、5本塁打、17打点と振るわなかった。結局1年で退団している。

小玉明利 内野手

 近鉄時代は14年間、不動のサードとして活躍し、1965(昭和40)年から3年間は選手兼任監督を務めたほどの大物だった。近鉄では通算1877安打、125本塁打のすばらしい実績を残しているが、若返りのため1967(昭和42)年のオフに放出されてしまう。

 サードが穴になっているタイガースは、クレスニックを解雇した翌1968(昭和43)年、三塁手として小玉を獲得した。小玉は2年間背番号3をつけている。

 バッティングに対する期待も高かったが、タイガースに来たときは、もう晩年で完全に衰えており、レギュラーでの活躍は望めず、移籍2年で引退した。

 この当時チームの同僚だった村山実とは、実は幼馴染だった。村山は「小玉が最初から阪神に入っていれば、藤村の後継者として絶大な人気選手になれたのに・・・」と惜しんだという。

後藤和昭 内野手

 実業団の日本軽金属から1969(昭和44)年に、ドラフト外でタイガースに入団。1年目だけ背番号30をつけたが、2年目の1970(昭和55)年に、小玉から3番を受け継いだ。

 サードを守ったが準レギュラークラスの実力だった。と言うより、サードのレギュラーが不在の時代だったと言う方が正しいのかもしれない。

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 1974(昭和49)年に入団した掛布が台頭してきた1975(昭和50)年のオフに、日本ハムにトレードされている。タイガースでは背番号3を6年間つけた。


背番号3は、クレスニック以来、三塁手がつけてきたが、掛布の台頭で終止符が打たれる。このあと昭和50年代は、いろいろなタイプの選手がつけることになる。

続く

 


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Last updated  2015.12.08 21:54:23
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2015.12.07

 今回から背番号3に移ります。近年では、関本賢太郎が長くつけていたので親しみがある番号ですが、そこにたどり着くまでには、やはり紆余曲折があります。1979(昭和54)年には、「あの事件」がらみで「あの投手」もつけました。

背番号3(その1)

岡田宗芳 内野手

 1936(昭和11)年、タイガース球団創立時に背番号3をつけたのは、ショートストップの岡田宗芳である。この選手も広陵中学出身で金本現監督の大先輩。

 守備は強肩が売り物で、バッティングはミートがうまい好打者。セカンドを守っても上手く、優勝にも貢献した活躍から、「タイガースの明星」と称えられた。

 1940(昭和15)までの5年間プレーしたが、軍に召集され、1942(昭和17)年に戦死された。亡くなった時の年齢はまだ25歳。非常に惜しまれる選手の一人だ。ほとんど毎シーズン3割を記録していて、5年間の通算打率も3割4分4厘とすばらしい。

小俣秀夫 外野手

 岡田が軍に召集された後、戦前は誰も3番をつけていない。戦後、1946(昭和21)年に小俣秀夫がつけたのが2人目である。

 早稲田大学出身の外野手で、打順は主に1番だったが、20試合40打数4安打4打点の数字しか残していない。この1年で退団し、アマチュア野球に転進している。

内山 清 投手

 小俣が退団した翌年は、背番号3は空き番になっていた。1948(昭和23)年から2年間、内山清がつけている。 

 内山は投手として、タイガースに7年間在籍しているが、1950(昭和25)年から4年間は5番、最後の1年は20番へと背番号が変わっている。2度の二桁勝利など、7年で31勝を挙げた。

 引退後は、アマチュア野球に貢献し、埼玉の川口高校の監督も務めた。このころ、後に読売のエースになる斎藤雅樹投手を育てている。

野崎泰一 投手

 野崎が入団したのは1946(昭和21)年で背番号は11だった。1950(昭和25)年に、1年間だけ3番をつけたが、翌年は東急に移籍し、さらに広島に移って引退している。タイガースの5年間で31勝しており、二桁勝利も2度あった。

河 文雄 投手

 野崎のあと、1951(昭和26)年に3番をつけたのは、同じく投手の河文雄である。河は前年に入団し、28番をつけていた。肩の故障が原因で、1年目は登板機会が無く、2年目も1勝しか挙げられなかったため、在籍2年で引退してしまった。

梶岡忠義 投手

 1952(昭和27)年から4年間は、エース級の投手梶岡忠義がつけている。梶岡については背番号1の1で紹介しているのでご参照いただきたい。


 昭和20年代は主に投手がつける番号になっていたようだが、それぞれに事情があって短い期間しかつけていない。ここまででは、主力投手だった梶岡が最長だが、それでも4年間である。このあと昭和30年代以降は主に野手がつける番号へと変わっていく。


続く

 


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Last updated  2015.12.07 15:59:26
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2015.12.05

背番号2は24人がつけているので、6回に及んでしまった。これが最終回。

背番号2(その6)

柴田講平 外野手

 野口が去った翌年、背番号2をつけるのは2009(平成21)年のドラフト2位ルーキー・柴田講平である。今は「背番号00」ですっかり定着しているため、最初が背番号2だったことを覚えている人は少ないかもしれない。

 実は、柴田が2番を背負ったのは、このルーキーイヤーの1年のみである。2年目にはアメリカ帰りの城島健司に剥奪されてしまって「00」になっている。

 非常に野球センスがあり、一時期はレギュラーを獲るかと思われたが、最近影が薄くなってしまった。頑張ってほしい選手だ。

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城島健司 捕手

 2010(平成22)年、鳴り物入りで凱旋。タイガースは城島がダイエー~ソフトバンク時代につけていた背番号2を、2年目の柴田から剥奪して与えるという待遇で迎えた。

 移籍1年目は144試合に出場して168安打、28本塁打、91打点と大活躍したが、持病となったひざの故障が悪化した2年目、3年目は、38試合、24試合と出場が激減し、2012(平成24)年をもって現役引退した。

 城島の最も大きな功績は、フロントがメッセンジャーの獲得で迷ったときに、「彼なら絶対大丈夫」と太鼓判で後押ししたことだと、非公式サイトは思っている。

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北條 史也 内野手

 城島が去って、現在2番を背負うのは、2013(平成25)年のドラフト2位、北條史也である。またルーキーがつけることになった。

 3年間ファームでじっくりと鍛えられ、掛布DCの指導もあって、バッティングでは持ち味が出始めている。4年目の2016年は、ぜひとも1軍で活躍する姿が見たい。

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 こうして見てきたように、タイガースの背番号2は、最初の2人が戦死されているし、短期間しかつけていない選手が多い。長続きしない番号になっているのは、移籍してくる選手に次々と与えてきたことも原因に挙げられるだろう。

 この番号をもらったルーキーたちも、誰一人大成していない。期待されながら伸びない背番号の印象になってしまっている。

 北条選手には、こうしたジンクスを打ち破って成長し、「背番号2といえば北條!」、そう言われるような選手になってほしいと思う。


背番号3へ続く

 


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Last updated  2015.12.05 14:16:38
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2015.12.04

引き続き、背番号2の2000年以降を見ていく。

背番号2(その5)


的場寛壱 内野手

 2000(平成12)年には、ドラフト1位ルーキーの的場寛壱が、平尾から剥奪された背番号2を引き継いでいる。

 3年前のドラ1今岡誠がいるにもかかわらず、ポジションのかぶる的場をまた1位で指名したのは、野村監督の今岡に対する評価が低かったことが原因と言われている。

 しかし、身体が硬かったのか怪我が多く、毎年のように手術を受けるなど、万全の状態なのはキャンプのときだけという印象が強い。

 6年間在籍しているが、背番号2だったのは2年目まで、2005(平成17)年に引退するまでの残り4年間は99番をつけた。

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藤原 通 内野手

 的場のあとに2番をつけたのは、2002(平成14)年にドラフト6位で入団した藤原通である。これで、3人続けてルーキーが背負うことになった。

 背番号2だったのは2004(平成16)年までの3年間。その後は関本健太郎から譲られた44番をつけた。

 立命館大時代は4番として活躍した藤原も、プロでは苦しみ、ルーキー年から5年間は通算14試合にしか出れなかった。

 2007(平成19)年に、岡田監督に抜擢されて44試合に出場し、ようやくと思ったところ、翌年は怪我で1年を棒に振り、2009(平成21)年を最後に引退した。

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野口寿浩 捕手

 藤原のあと、2番を引き継いだのは、2003(平成15)年に坪井智哉とのトレードで日本ハムから入団した野口寿浩だ。

 ただし、タイガースに移籍した最初の2年間は27番。2番をつけたのは移籍3年目の2005(平成17)年から2008(平成20)年までの4年間である。

 本来、高校野球などでは2番は捕手のポジション番号なのだが、タイガースでこの番号を捕手がつけるのは、初代の小川年安以来69年ぶり2人目のことだった。

 ヤクルト時代には古田敦也、タイガースでは矢野燿大という正捕手がいたため、実力がありながら極端に出場機会は少なかった。

 タイガース時代は井川慶との相性がよく、このバッテリーでノーヒットノーランも達成している。2009(平成21)年に横浜へ移籍した。

 

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 ルーキーの二人は大成できず、相変わらず2番は暗いイメージである。野口も運の悪い選手の印象がある。なんとか払拭できないものだろうか。


続く

 


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Last updated  2015.12.04 14:15:28
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2015.12.03

引き続き背番号2を見ていくが、平成になっても落ち着かない番号である。

背番号2(その4)


大野 久 外野手

 柏原が引退し、1989(平成元)年から2年間は生え抜きの大野久が背番号2をつけた。それまでは背番号33をつけていた。記憶に残っているイメージは33番だろう。

 村山監督が「少年隊」に抜擢して根気よくレギュラー級に育てたが、90年オフにダイエーへトレードされている。ダイエー移籍1年目で大ブレイクし、全試合に出場して42盗塁でタイトルを取った。


高橋慶彦 内野手

 大野のあと、高橋慶彦が引き継いだため、移籍組パターンに戻る。広島の生え抜きスター選手として14年間を過ごし、ロッテでの1年を経て、1991(平成3)年にタイガースへ移籍し、2年間背番号2をつけた。

 タイガース移籍後は、かつてのスターも見る影無く、移籍2年目の1992(平成4)年には久慈が入団したこともあって、ほとんど代打要員。怪我もあって、この年限りで現役を退いた。

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松永浩美 内野手

 高橋のあとを受けたのが松永浩美だ。阪急・オリックスで12年間活躍した俊足・好守・好打のスター選手である。1993(平成5)年、タイガースは野田浩司を放出する出血トレードで獲得した。

 ところが、タイガースでは故障もあって出場は80試合。放出した野田が大活躍したのも手伝って、タイガースファンの怒りを買った。しかも自分の成績を棚に上げて「甲子園は幼稚園の砂場」などと暴言をはいた上に、NPB初のFA権を行使して、さっさとダイエーへ移籍してしまった。

 なお、松永は当初2番をつけたが、シーズン途中にゲン担ぎも含めて「02」に変更している。

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平尾博司 内野手

 高橋、松永で懲りたわけでもないだろうが、背番号2は、1994(平成6)年、ドラフト2位で入団した期待のルーキー、平尾博司に贈られた。

 平尾は、大宮東高時代には通算68本塁打を放った高校球界屈指の大砲で、足もあるセンス抜群の内野手として、将来を期待されていた。

 ところがプロに入ると長打力は鳴りを潜めてしまう。入団6年目の1999(平成11)年のオフには2番を剥奪され、2000(平成12)年からは「00」でプレーしている。その年に自己最高の43安打を記録したのだが、翌年のシーズン途中で谷中真二との交換で西武へトレード。

 西武では代打や控えながら12年間プレーしている。

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 4人ともトレードが絡む選手である。

 結果的は放出になったが、タイガースは、期待のルーキー平尾に「2」を与えることで、「移籍組の持ちまわり」という悪い印象を払拭したかったのかもしれない。これ以降、ドラフト上位のルーキーが付けることが多くなる。

続く

 


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Last updated  2015.12.03 14:47:09
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2015.12.02

昭和50年代から60年代を見ていきます。

背番号2(その3 )

 

東田正義 外野手

 野田のあと、1976(昭和51)年~77(昭和52)年は、日本ハムファイターズから移籍してきた東田がつけている。

 東田は西鉄ライオンズにドラフト2位で入団し、ルーキーイヤーに9本塁打するなど、強打で鳴らした選手である。ライオンズで7年を経て日本ハムに移籍し、1年在籍した後タイガースに来た。

 第1次吉田監督時代にクリーンナップの後ろの6番を打つことが多く、強打を振るったが、腰痛を抱えていたこともあって在籍2年で引退した。


竹之内雅史 外野手

 東田が引退して1年の空白があり、そのあとに2番を継いだのが竹之内雅史である。

 竹之内は1978(昭和53)年オフ、田淵+古沢対竹之内+真弓+若菜+竹田の大型トレードで、西武ライオンズから移籍してきた。タイガースでは、1979(昭和54)年から4年間プレーし、この間背番号2をつけた。

 独特のマサカリ打法で、ライオンズ時代は10年連続2桁本塁打を記録、タイガース移籍一年目にも25本を放って4番も務めた強打者。引退後も打撃コーチを務めるなどタイガースに貢献した。

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岡 義朗 外野手

 竹之内の引退後、翌1984(昭和59)年から2年間は岡 義朗がつけている。現在はスカイAのTigers・aiの解説者としてタイガースファンに親しまれている。外野手となっているが、内外野どこでも守れる守備のスペシャリストだった。

 広島で7年、南海で4年を経て、晩年にタイガースへ移籍、84年に27試合に出場しただけで、翌年は優勝の年だったが公式戦出場は無く引退している。

 引退後は、タイガースでは守備走塁コーチやスコアラーを務め、選手育成に尽力された。評論家として選手を見る目は優しい。

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柏原純一 外野手

 岡のあと1986(昭和61)年から3年間は柏原純一が引き継ぐ。南海、日本ハムで強打のレギュラーで鳴らしたが、一本気な性格から球団と対立することも多く、晩年金銭トレードでタイガースに移籍してきた。

 タイガースに来たときには往年の力は無く、1年目こそ17本塁打を記録したものの、残り2年は衰えてしまった。

 日本ハム時代の1981(昭和56)年には敬遠のボールを本塁打しており、このエピソードを真似て、新庄が敬遠球をサヨナラヒットしたのはあまりにも有名。

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 その3で登場した選手たちは、すべて他球団からの移籍組である。

 要するに、他球団で活躍した選手が晩年に差し掛かって戦力外に近づく。そういう選手を拾って補強するが、歳が歳だけにすぐに衰える。その穴をまた移籍選手で補強する。という繰り返しがあった時期なのだろう。

 そのために、そういう選手が切れ目無く「背番号2」を引き継いでいく形になっており、この傾向はその後も続く。


続く

 


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Last updated  2015.12.02 19:36:20
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2015.12.01

 引き続き背番号2の昭和30~40年代を見ていきます。

背番号2(その2)

宮崎逸人 投手

 藤村隆男が広島に移籍すると、1957(昭和32)年から宮崎逸人が引き継ぐ。

 宮崎は1954(昭和29)年の入団で、それまで46番をつけていた。藤村のあと2年間が2番をつけたが、1958(昭和33)年に退団し、そのまま引退している。在籍5年間で1勝しかできなかった。


柴山宗守 投手

 宮崎から2番を受け継いだのはサウスポーの柴山宗守である。1959(昭和34)年、村山実と同期入団で3年間背番号2を背負ったが、1961(昭和36)年で退団。その間、一軍の公式戦で投げる機会は無かった。


中島広喜 投手

 柴山のあと、1962(昭和37)年と翌年の2年間は中島広喜投手がつけている。4人続けて投手だ。

 中島は1960(昭和35)年から1967(昭和42)年まで8年間在籍したが、背番号2だったのはこの2年間だけである。

 入団時には村山2世などと評されたが、8年間で一軍での登板機会は1試合のみ。藤本定義監督の薦めで外野手に転向してみたが6試合に出場しただけで、こちらも成功しなかった。


本屋敷錦吾 内野手

 立教大時代は、長嶋茂雄、杉浦忠とともに「立大三羽烏」と称され、キャプテンも務めた人気選手だった。

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 1958(昭和33)年、阪急ブレーブスに入団し、6年間在籍した後、1964(昭和39)年にタイガースへ移籍してきた。このとき中島から背番号2を譲られた。

 主にショート、セカンドの選手だったが、タイガースには吉田義男、鎌田実の名二遊間が存在したため、どうしてもレギュラーになれなかった。

 ただし、貴重なサブプレーヤーとしてタイガースでも6年間活躍している。在籍期間中は引退まで背番号2で通した。


野田征稔 内野手

 本屋敷の退団後、1970(昭和45)年から1975(昭和50)年までの6年間は野田征稔が2番をつけた。セカンド、ショートのほか外野もOKという、今で言えば大和のような選手。PL学園出身のプロ第1号選手でもある。

 1964(昭和39)年からずっと38番だったが、本屋敷の退団で受け継いだ。100試合以上出場した年もあるが、結局ユーティリティプレーヤーで終わった感がある。


 

昭和30~40年代は投手がつけることが多かったが、いずれも大成していない。その後、移籍組の本屋敷がつけたことがひとつの発端で、この先移籍選手にあてがう番号の様相を帯びていく。


続く

 


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Last updated  2015.12.01 22:29:10
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2015.11.30

 ここからは背番号2について見ていきたいと思います。非常に興味深い番号です。紆余曲折、不安定な番号といってもよいかもしれません。

背番号2(その1)

小川年安 捕手

 球団創設の1936(昭和11)年に、背番号2をつけたのは捕手の小川年安である。

 広陵中時代には5季連続甲子園出場していて、そのうち準優勝3回。現監督の金本氏の大先輩に当たる。慶応大に進んだ後も、捕手で4番という東京6大学野球のスター選手でもあった。

 タイガースに入団して前途洋々だったその年に召集されて軍隊へ。そのまま大東亜戦争まで転戦し、1944(昭和19)年に中国で戦死されている。スター選手になる素質を持ちながら、たった1年間のプロ野球選手生活だったのが惜しまれる。実際に通算42試合で3割4分2厘の高打率を残している。


村瀬一三 内野手

 背番号2は、小川が軍に召集された翌年から4年間は空き番になっており、2番目につけたのは、1941(昭和16)年途中に名古屋軍から移籍してきた村瀬一三だった。

 タイガースではショートの控えになったが、1942(昭和17)年初めに召集されて戦地へ赴き、戦死されてしまった。タイガースでは実働半年、27試合に出場しただけだった。


乾 国雄 内野手

 村瀬のあと、1943(昭和18)年から2年間は、内野手の乾国雄が背番号2を受け継いだ。その後戦争を挟んで復帰した乾は、背番号1をつけている。(背番号1の1で紹介済み)


小林英一 内野手

 1944(昭和19)年に入団したときは8番。戦争が終わって1946(昭和21)年に復帰して3年間2番をつけた。守備には定評があったが、打撃面が弱く控え選手で終わっている。1949(昭和24)年に松竹ロビンスに移籍するも、すぐ引退した。


藤村隆男 投手

 小林の移籍後、1949(昭和24)年は空き番になっていた。翌1950(昭和25)年から2番を引き継いだのが、ミスタータイガース藤村富美男の弟・隆男である。

 藤村は、1940(昭和15)年にタイガースに入団し、召集されるまで3年間は背番号9だった。戦後、パシフィック太陽で現役復帰して2年間プレーした後、1949(昭和24)年、タイガースに戻ってきた。このときは背番号20だったが、翌年から1956(昭和32)年まで7年間2番をつけた。

 タイガースでは、戦前に22勝、戦後に111勝し、兄冨美男とともにスター選手として活躍。1952(昭和27)年には25勝6敗の成績で最高勝率のタイトルを獲得している。引退後はタイガースの二軍監督なども務めた。

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創設期は、つけた選手が2人続けて戦死するなど、華やかなイメージではなかったが、戦後、藤村隆男ががつけたことで、ようやく背番号2が認知される。

しかし、この先をたどっていくと、タイガースでは花形選手がつける機会が少なく、いろいろ意味の深い番号であることが分かってくる。


続く

 


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Last updated  2015.11.30 22:53:45
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