タイガース背番号史 40-3
背番号40(その3)2代目タイガース非公式サイトですみなさんこんにちは 背番号40の第3回目です 今回も3名の紹介になるんだけど ところが3人ともすでに「背番号史」や「猛虎異人伝」で紹介済みの選手なんだよなあ しかもそのうち2名が外国人選手でそれぞれ複数回にわたって書いてるから転記するとものすごく長い文章になっちゃうのよもうしわけないけど 今回は短縮版にするよ もう少し詳しい内容を確認したい人は文末にリンクを着けておくからそこから過去記事で読んでみてください では背番号40の3回目を始めるね桑野 議 外野手福岡県北九州市出身。左投げ左打ちで九州工業高校時代は投手。バッティングの素質も評価されており、1967(昭和42)年のドラフト会議でタイガースから5位指名され入団している。最初にもらった背番号は「「40」で6年間着けた。その後1974(昭和49)年にロバート・テーラーに譲る形で「17」に変えて8年間背負っている。投手としての入団だったが、1968(昭和43)年、1年目のキャンプ中に小鶴打撃コーチがバッティングの才能を生かすため打者に転向させている。しかし簡単には芽が出ない。1年目は3試合出ているが4打数1安打。2年目の1969(昭和44)年は1年間ファーム暮らし。3年目の1970(昭和45)年は20試合21打数4安打2打点という具合で、ほとんど数字は残せていない。1971(昭和46)年にようやく70試合に出場、107打数24安打7打点1本塁打を記録したが、翌年はまた6試合出場にとどまる。その後も50試合未満の出場しかない状況が続いていた。 1975(昭和50)年に就任した吉田義男監督がシャープな打撃を生かすため「代打専門」としての起用に踏み切ったところ、79試合で110打数27安打13打点3本塁打と貢献し、1打席の集中力という才能が開花する。翌1976(昭和51)年には76試合125打数33安打で21打点をたたき出すキャリアハイを記録している。打率は2割少々だが好い場面で打っているので印象が強く、代打専門になってからは非常に人気があった。 1978(昭和53)年にチームが最下位になったころから徐々に桑野の出番は減っていき、1980(昭和55)年には出場15試合、1981(昭和56)年には一軍公式戦の出場がなくなってオフ引退するが、約6年間代打専門に近い起用をされ続けた。タイガースの代打専門職の系譜は遠井吾郎が元祖だが、代打登場でスタンドが沸くようになったのは桑野が始まりといえる。吉田監督は第2次監督時代に川藤、第3次監督時代には八木を代打専門で再生させており、選手の「代打適性」を見抜く才能があったようだ。桑野の通算成績は530試合697打数154安打11本塁打76打点48四球135打点で打率.221である。引退後は阪神の二軍打撃コーチ(1982年 - 1987年, 1989年, 1996年)、スコアラー(1988年, 1990年 - 1995年, 1997年)を務めた。なお、先代が書き残している「タイガース脇役物語・代打の切り札」は「タイガース脇役物語9-2 代打の切り札 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)」を参照してみてね また今回新たに見つけたのが背番号「40」を着けた桑野さん(上の画像) なんとアニメ「巨人の星」で三振するシーンの姿が登場してるんだって 是非このブログも参照してみてね巨人の星(栄光の星編)第174話 「白い血の秘密」前編 | 野球侍SAKIのブログロバート・テーラー 外野手1972(昭和47)年11月4日、中日ドラゴンズはサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下3Aフェニックスに所属のロバート・テーラーと契約した。身長174cm、体重78kgと外国人選手にしては小柄だが、3Aでは1971(昭和46)年、1972年と2年連続で3割を記録している好打者。1970(昭和45)年にはメジャー経験もあり、63試合に出場して84打数16安打10打点2本塁打の記録を残している。同年3月、日米親善野球で来日したときは、ジャイアンツのクリーンアップの一角に入り、出場した4試合で11打数3安打しており、大洋のエース・平松から2ランホームランを記録している。 テーラーは、1973(昭和43)年1月31日に来日、早速キャンプに合流、オープン戦は15試合に出場し42打数13安打5打点、打率3割1分という好成績を残したが、ホームランは1本しか打っていない。公式戦が始まると、中日はテーラーを3番に起用したが、バットは湿りがちで1割台の低打率に喘ぎ、一向に調子が上がってこない。5月中旬から打順を6番に落とされる。9月にはチーム事情で4番を打ったこともあったが、結局中日では規定打席に届かず、打率は2割2分2厘、ホームランも一桁の7本に終わっている。終盤まで優勝争いに食い込んだ中日は、長打力のある新外国人選手を獲得する方針を固め、戦力構想外となったテーラーを、11月30日付けで自由契約選手とした。同じころ、阪神ではシーズン中に始まった金田監督と江夏の確執がオフになって沸点に達していた。そこに「江夏放出」の憶測報道が重なって事態は混沌となり、12月10日、金田監督が辞意を表明するに至って、慌てた球団は翌11日、野田忠二郎オーナーが緊急記者会見で「金田も江夏も必要な人材。残留の方針は変わらない」と公式に宣言する。これにより漸く事態は収拾に向かい、江夏は12月29日に契約を更改し、年が明けて1974(昭和49)年1月には金田監督の留任も正式に決定している。阪神は、この騒動のためにカークランドに代わる新外国人選手を探す時間的余裕がなくなり、中日を解雇されたテーラーに目をつけたのは成り行き上仕方がなかった。 1974年2月1日、阪神はテーラーの入団を発表している。背番号は桑野から譲られた「40」を着けることになった。中日での成績は期待外れだったが、日本の野球を1年間経験できたことは大きかった。オープン戦では本来持っている打撃センスを発揮して絶好調。20試合に出場して58打数20安打8打点2本塁打、打率3割4分5厘をマークし、オープン戦打撃成績第4位にランクされている。開幕から1番に起用されたテーラーは、4月の17試合すべてにスタメン出場して、打率2割7分3厘ながら11打点、ホームラン4本を記録。トップバッターとして十分期待に応える数字だった。この活躍もあって、阪神は開幕ダッシュで走る中日を2位で追う好位置につけている。5月14日に首位に立つと、17日の中日戦では9回二死ランナーなしからテーラーの第7号サヨナラホームランが飛び出すなど、2位以下を引き離す勢いを見せ、5月24日時点で2位中日に3.5ゲーム差をつける。テーラーは5月にも4本塁打を記録し、リードオフマンとして十分な働きをしている。 5月29日から3番に座ったテーラーは、6月に入ってもチームをよく引っ張った。この時期の阪神は好調を持続しており、6月26日には2位中日との差を5.5ゲームまで広げる。気の早い新聞には「阪神首位固めか?」などの見出しも出たほどだった。テーラーは、ここまでの活躍が認められ、監督推薦でオールスターに選出されたが、調子自体は深刻な状態になっていく。6月までに10本のホームランを記録したバットから快音が聞かれなくなり、7月は打点ゼロ。ホームランは8月28日の大洋17回戦まで、丸2ヶ月以上出ていない。阪神は、8月19日に首位を明け渡すと、そこから泥沼の6連敗。その間には35イニング連続無得点という不名誉な記録も作るなど、極端な貧打に陥ってしまった。9月に入ると3日から14日まで7連敗。あっという間に首位中日から8ゲーム離され、優勝は絶望となる。最後はヤクルトにも抜かれ、終わってみれば借金7を抱えて4位まで落ちていた。そうした中、テーラーは、9月以降に帳尻を合わせ、打撃成績リーグ14位に食い込んで翌年の残留を決めている。1975(昭和50)年1月、新監督に就任した吉田義男は1番に比較的長打力のある中村勝広、2番にバントのできないテーラーを入れ、クリーンアップは3番藤田平・4番田淵幸一・5番ジョージ・アルトマンで固定という、やや攻撃型のオーダーでシーズンに臨んだ。オープン戦で3割をマークしたテーラーは、4月23日から約1ヶ月間、3番を任された時期もあった。しかし、4月から5月にかけてはバッティングの状態を崩しており、打率は2割2分台に低迷した。そのため5月25日から打順は再び2番に戻され、以後シーズン終了まで固定されている。テーラーは6月に月間打率3割をマークし、やっと本来の持ち味を出し始めた。もともとバランスのいい選手でミートも上手く、もし日本人なら下位打線でレギュラーポジションを取るだけの力は十分にあったが、ホームランは1ヶ月に2本程度のペースだった。これが及第点の貢献をしたにもかかわらず印象が薄い理由なのだろう。夏場からシーズン終了までテーラーは無難な働きを維持し、打率も序盤の2割2分台から最終的には2割6分5厘(セリーグ20位)まで上げている。100試合以上が2番という打順での48打点も決して悪くないのだが、チームを引っ張るというほどでもなかった。 阪神は8月29日から引き分けをはさむ8連勝を記録し、9月10日に首位を奪還したものの、その後はアルトマンの故障なども響いて、あっという間に混戦から脱落し、結局は広島が優勝する。1年目の吉田監督は6ゲーム差の3位で、消化不良のままシーズンを終えた。シーズン終了後の11月4日、帰国を前に梅田の球団事務所を訪れたテーラーは、長田球団社長と話し合い、自ら自由契約を申し出ている。これに対して、球団側も遺留することなく直ちに了承し、退団が決まった。テーラーの日本での3年間の成績は、358試合1265打数328安打113打点30本塁打、128四死球107三振、打率.259という数字である。テーラーさんについては「猛虎異人伝」で中日時代と阪神時代の2回に分けて詳しく紹介してるから覗いてみてね猛虎異人伝13 ロバート・テーラー① | 2代目タイガース非公式サイト - 楽天ブログ猛虎異人伝13 ロバート・テーラー② | 2代目タイガース非公式サイト - 楽天ブログ マイク・ラインバック 外野手ラインバックさんについては「猛虎異人伝・列伝15」で3回に分けて詳しく紹介済みなのよね・・・ここではホントに概略を載せるにとどめます 詳しくは「異人伝」を読み返してみてねラインバックは、カリフォルニア大を卒業後、ボルチモア・オリオールズに入団したが、ほとんどは傘下の3Aロチェスターに所属する「万年二軍」の選手。メジャーには、1974(昭和49)年に1度だけ昇格し、わずか12試合に出場したに過ぎず、通算成績は20打数5安打2打点、ホームランは打っていない。ただし、まだ26歳という若さには魅力があった。1976年2月10日に来日し、キャンプに合流すると、早く体が開いて手打ちになるドアスイングの欠点を暴露しボテボテの当たりを連発したため、山内コーチがマンツーマンで矯正に取り組むことになる。 ラインバックはそのアドバイスを素直に聞き入れて基本から打撃改造に成功し、オープン戦では、別人のようなバッティングで打率3割を記録、15試合で11打点という勝負強さを見せて、周囲を安堵させるまでに変身している。1年目のラインバックは比較的好不調の波が小さいのが特徴で、一年を通じて信頼できるバッターだった。8月12日の巨人戦で右手親指を負傷して10試合ほど欠場したが、復帰後も不振に陥ることなく安定した成績を残した。豪快なホームランを打ちまくったハロルド・ブリーデンの蔭でそれほど目立たなかったが、それなりにホームランも打っている。 9月19日の対広島20回戦では「脅威の四連発」にも名前を連ねている。この試合で看板の打線が火を噴いた阪神は、広島の投手陣にプロ野球記録の一試合9本塁打を浴びせて13対4で大勝したが、圧巻だったのが6回裏の猛攻。中村勝広の2ランを皮切りにして、掛布、ラインバック、田淵と四者連続のホームランが炸裂する。これはリーグ・タイ記録で、あの1985(昭和60)年の「200発打線」ですら成し得なかった快挙にラインバックも一役買っている。セ・リーグ打撃部門14位ながらも1年目にして打率3割をマーク。3番に座っての81打点22本塁打に加えて11盗塁も記録し、新助っ人としては文句なしの内容だった。ペナントレースは、9月に入って阪神が7連勝を記録して巨人を追い上げたが、9月14日の巨人19回戦と10月10日の同22回戦の直接対決で、いずれも勝てる試合を引き分けたのが痛かった。もしどちらかを勝っていれば最終勝率で上回り、優勝できていた。補強が成功し当時のチーム本塁打193本という日本記録も達成しただけに、2位という結果には悔いの残るシーズンだった。 2年目となる1977(昭和52)年は、コンディション的に不本意なシーズンとなっている。4月後半に足を痛め11試合もスタメンから外れ、7月には足を捻挫し、今度は長期欠場している。そんな状態にもかかわらず、6月に田淵がリタイアしたときには13試合で4番を任されている。ブリーデン以上に吉田監督の信頼が厚かった証拠だろう。オールスター後は調子を取り戻して8月は月間打率4割。シーズン終盤の10月には4試合連続ホームランも記録するなど、シーズン打率はセ・リーグ打撃成績7位の3割2分5厘で悠々と残留を決めている。しかしチームは4位に落ち、史上最低勝率の4割6分6厘でシーズンを終了。吉田監督が責任を取って辞任し、後藤次男が後任監督に就任した。1978(昭和53)年、後藤新監督は「結束」のスローガンのもとにスタートを切った。ところが、ラインバックがキャンプ中に故障、オープン戦の半ばにはブリーデンも古傷のヒザ痛が再発するなど、出だしからつまずく。5月に入ってブリーデンのヒザが限界に達して解雇されたため外国人選手はラインバック一人となり、精神的につらい立場になる。そうした影響からかバッティングは不振を極め、6月終了時点で打率2割5分9厘、19打点、ホームランはわずかに5本という内容で、チーム低迷の一因となっている。7月にも腰痛で6試合を欠場するなど、満足にプレーできなかった。不振だったラインバックは終盤になってようやく調子を上げ、9月以降に限っては打率2割9分4厘、7本塁打と巻き返している。しかしシーズン通算では2割5分3厘に終わり、残留か解雇か極めて微妙な数字だった。一方、チームは球団創立以来最低だった前年の勝率を、1割以上も下回る最悪の成績(勝率3割3分9厘)で球団史上初の最下位に終わり、後藤監督は1年で辞任する。フロントでは新たに阪神電鉄専務の小津正次郎が社長に就任し改革を進めるが、田淵のトレード問題やブレイザー新監督の就任、さらには江川卓のドラフト問題と事件などの対応や処理に忙殺されたため、新外国人選手の人選などしている余裕がなく12月4日にとりあえずラインバックの残留が決定された。 1979(昭和54)年2月、阪神は江川問題が片付いてようやく主砲候補としてリー・スタントンを獲得する。この時点では、主軸に成長した掛布と新入団のスタントンに注目が集まり、運良く残留した格好のラインバックには大きな期待はかけられていなかった。ところがペナントレースが始まると、ラインバックは前評判を跳ね返すようにコンスタントに打ち始め、5月9日からは堂々の4番をつとめ、つねに3割台をキープし続けている。ホームランは期待以上に数字を伸ばし、本来の4番候補だったスタントンの23本を上回るシーズン27本を記録している。なかでも6月2日の巨人11回戦、「江川のデビュー戦」を忘れることはできない。プロ初先発の江川は、4回にスタントンの一発を浴びたが、6回を終わって巨人が3対1とリードする。7回表2点を追う阪神は、一死から若菜に3号ソロが出て1点差に迫る。さらにその後二死となったが真弓のヒットと榊原のフォアボールでランナー2人を出してラインバックに打席が回った。初球低めだったがゾーンに来た球をうまく救い上げ、阪神ファンの想いを乗せた打球は、ライトスタンドに飛び込む第6号逆転3ランとなった。打たれた江川はガックリとマウンドにうずくまる。この一撃だけでも、ラインバックは阪神の歴史にその名を刻む価値があると言えるだろう。 オールスター・ファン投票の順位もグングン上がり最後は外野手部門の第3位で選出され、本番でも4安打を放っている。最終的にラインバックは全試合に出場、在籍中最高の成績を残し、セ・リーグのベストナインにも選ばれるなど大活躍の年になった。特に江川を返り討ちにした一撃によって人気は不動のものとなり、文句なしで残留が決まっている。最後の年となった1980(昭和55)年、解雇の原因は「衰え」という説もあるが、それは結果論であって、ラインバックの成績を見る限り当たっていない。4月から好調に3割をキープ、5月にはシルバー賞(ファンが選ぶ月間MVP)も受賞した。前半戦終了時にも打撃ベスト10に入っているし、ホームランも11本打っており、年間20本以上のペースだったのである。当然オールスターにも2年連続ファン投票で選ばれている。 ところが、8月早々に故障し15試合を欠場すると、その間に阪神は大きく負け越して4位に転落する。9月2日、ラインバックはチーム事情から、完治しないまま戦列に戻らなければならず、その後の試合では代打出場や欠場の繰り返しで精彩を欠いた。無理を押してチームのために復帰したのに、成績が上がらないことをもって「衰えた」と判断されたのは不本意だろう。阪神は5位に終わり、不振を極めたボウクレアとともに、ラインバックはチーム成績不振の責任を負わされた格好で解雇された。前半戦の数字から見ると、怪我さえなければまだ2~3年はプレーできたと思われるだけに、残念というほかない。ファンに惜しまれながら去っていった数少ない外国人選手の一人である。 通算成績は565試合2023打数598安打324打点94本塁打248四死球313三振で打率.296だった。1988(昭和63)年5月20日、ラインバックは自動車事故で亡くなっている。タイガース退団からわずか8年目のことだった。 ラインバックさんに関しては他のエピソードなども含めて「猛虎異人伝」にくわしく紹介してます 次のリンクからぜひ読んでみてね猛虎異人伝15 マイク・ラインバック① | 2代目タイガース非公式サイト - 楽天ブログ猛虎異人伝15 マイク・ラインバック② | 2代目タイガース非公式サイト - 楽天ブログ猛虎異人伝15 マイク・ラインバック③ | 2代目タイガース非公式サイト - 楽天ブログ まとめ3人とも前に紹介してるからコンパクトにまとめ直そうとしてみたけど 意外に短くならないのよ 難しいものね・・・2回目の登場なのでご存じのことも多いかな でもリンク先の方がエピソードなど内容は濃くなってるからぜひご覧になってくださいこの3各の選手の思い出は60代以上の年代の方々にはなじみある選手だとおもうよ それなりに名を残してもいるしね先代もラインバックさんのことはよく覚えていて 事故死のニュースがかなりショックだったらしいよでは次回は4回目に進みます 3名を紹介しますがはすでに「猛虎異人伝」に出てきた外国人選手ばかり 名前覚えてる人がいるかどうかな?背番号40―4に続く ブログを応援してくださる方はこちらから❤