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G再建伝説の道へ

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球団名勝負!!第3話

S54江川初陣-速球一筋の投手哲学


 ドラフト1位、上原投手の評価がウナギ登りだ。「私が見た新人投手では、ナンバーワンです」と、長嶋監督は絶賛する。そこで、投手の専門家、宮田征典投手総合コーチにも、巨人軍の歴代新人投手の素質ベスト3を挙げてもらった。すると「上原も確実に3位には入ってくるね。それだけの逸材ですよ」。となると、その上に2人いるわけだ。上原もすごいが、それよりもすごいヤツ…。
 「堀内がいるね。入団時では堀内が1位で、それに続くのが江川でしょう。そして3位に桑田と上原が並んでいる。そんな感じですね」。昭和41年、甲府商から入団してきた堀内は、開幕新人13連勝の日本記録(いまだに破られていない)を作って、その年16勝2敗だった。歴代1位に座って当然だ。

 「ただし…」と宮田コーチが付け加えた。「作新学院から、そのまま巨人に入っていたら、断然江川がトップですよ。高校時代はまさに怪物だったものね」。夢をあきらめずに、5年間の遠回りをしても歴代2位。「記録よりも記憶に残る投手でありたい」とつぶやいた江川卓が、やっとデビュー戦にたどりついた。

 

※        ※        ※
 少年時代からGIANTSのユニホームを着ることを目標に、ひたすら技術を磨いてきた。そして巨人入りのチャンスは二度あった。作新学院卒業時と法政大学卒業時。しかし最初は阪急、二度目はクラウンがクジを引き当てた。江川にすれば、まったく入団する意思のないチームだったから、初志貫徹だった。なんと作新学院の職員という身分で米カリフォルニア大学留学という形で、1年間過ごした。それほどまでして、巨人入りを望んでいた。

 昭和53年ドラフト前日の11月21日。いわゆる“空白の一日”といわれた日に、巨人と入団契約を交わし、紆余曲折の末、コミッショナーの「強い要望」で江川を一位で引き当てた阪神とトレードという形に落ち着き、江川は巨人の一員になった。そこに至る過程で、ルールの解釈や批判など世間は騒然となったが、巨人の真意は一つ。野球浪人までして野球人生のペナルティを払いながらも、あくまで巨人入団を貫いた青年の、その熱い思いに応えるのが名門チームの信義である、と考えたからだった。

 ヒョーキンで誠実な若者に、世間がつけたイメージは「ダーティ」。江川はじっと耐えた。勝つことでファンの心を開こうとピッチングに力を込めた。しかし、1年のブランクは予想以上に大きかった。開幕は二軍で、5月も江川の姿は多摩川グラウンドにあった。長嶋監督がその多摩川に現れたのは、月の最終日、31日だった。「陽気がよくなったから、フラッと散歩に来たんだよ」と、口では説明しても、その動きは、しっかりと“目標”をとらえていた)。真っ先にブルペンへ。そこに江川の姿があった。「よし、OK」。江川のピッチングが終わると、満足そうにうなずいて、うれしそうに結論を出した。「明日から一軍に上げます」。

 デビューの時が来た。長嶋監督にためらいはなかった。調子がいいから一軍登録。上げたらすぐに使う。6月1日に後楽園球場に来た怪物ルーキーは、外野でウォーミングアップをしている時に早くも言われた。「明日、お前でいくぞ」。

 野球少年が描き続けた夢が、ついに実現する。それも左右に揺さぶられ、信念を貫いても「悪役」というレッテルをはられた運命に、敢然と立ち向かう日だった。

 そっと送り出すという気は、長嶋監督にはなかった。堂々と胸を張って先発のマウンドに上がって欲しい。その思いから「予告先発」を一軍昇格の日に発表した。

 日本テレビがまず動いた。その頃、野球中継の開始は午後7時30分だったが、「新・巨人の星」を飛ばして7時に変更。しかしそれでもプレーボール後の“夢の第一球”が6時20分だから間に合わない。記念の1球、希望の1球は、6時台の「ジャスト・ニュース」で入れることにした。

 カードは因縁の阪神戦。舞台装置は完ぺきにそろって、2日の後楽園は超満員だ。江川は憧れのマウンドに上がって、スタンドに頭を下げた。「晴れて巨人の一員になれました。どうかお願いします」。そんな光景にも見えたが、胸中に去来したものは何だったのだろう…。久保田球審の「プレーボール」の声に、江川は大きく振りかぶった。この1球…それは野球を始めた時から決めていたに違いない。アウトローのストレートだった。「ストライク」の判定にスタンドがどよめいて、巨人軍の江川がスタートした。

 一番、真弓は左飛。二番の榊原に中前安打を浴びたが、三番ラインバック、四番竹之内をともに空振りの三振に斬って取った。青白かった江川の顔に、やっと赤味がさしてきた。「緊張はしませんでした。ホームベースが見えました」。無難な立ち上がりに、江川の表情はなごんでいた。

 試合前に長嶋監督は全ナインを集めて、こうゲキを飛ばしたそうだ。「今日は新人が投げる。先取点を取って、みんなで盛り上げて勝つんだ」。その先取点は二回。河埜、中井の二塁打でまず2点。三回を終えて江川の許したヒットは1本だけ。野球中継が全国に流れたのはそこからだった。

 四回表にスタントンに一発を浴びた。その差1点。しかし五回裏にシピンが15号ソロホーマーで再び2点差とし、ゲームは後半に流れていった。勝利投手の権利はモノにしている。完投の夢も生まれてきた。

 七回、先頭の若菜に左翼席に運ばれたが、佐野、山本を打ち取って二死。真弓もカーブ、カーブの連投で2-0のカウントに追い込んだ。「なぜ?」の疑問がここから始まる。捕手・山倉のサインはまたもカーブだった。これは裏をかいたに違いない。快速球が売り物の怪物投手のデビュー戦。3球勝負は自慢のストレートと真弓に読まれているだろうから、逆に出た。しかし、プロは甘くない。泳ぎながらも中前へ転がしていった。榊原の打席の時に二盗。ルーキーに揺さぶりをかけ、動揺した江川は榊原に粘られて四球を出した。二死一、二塁でラインバック。

 頭のいい江川だから、あの記事は忘れるわけがない。予告先発が決まった時、阪神ナインの談話がスポーツ各紙に載っていた。ラインバックは、こうコメントしている。「速い球を投げる投手らしいね。しかし、しょせん、プロのルーキーだろう? 対戦を楽しみにしているが、プロの厳しさを教えてあげるよ」。

 「速い球」がラインバックにインプットされていることは一目瞭然だった。それなのに…。初球は内角低めのストレート。ラインバックのバットが空を斬った。江川は戦いを挑んでいた。2球目もストレート。ファウルで、またもカウント2-0と追い込んだ。あと1球で初陣の勝利投手が見えてくる。ブルペンでは鹿取のピッチがあがってきた。この回を江川が切り抜けたら、八回から鹿取で逃げ切るという筋書きも出来上がっていた。どう、ラインバックを料理する?

 3球目は内角高めのストレート。のけぞらせるための意識的なボールで2-1。勝負手は広がった。外からカーブを決めるか? 一番無難ではある。長打もないだろう。しかし、4球目も内角のストレートだった。強引に攻める。4球すべてが真っ直ぐだ。グイグイ押しまくって、運命の5球目となった。山倉のサインに江川は大きくうなずいた。逆転の3ランが高々と右翼席に舞い上がったのは、その数秒後だった。「パワーを誇る外国人選手に、なぜ5球もストレートを続けたのか?」。ルーキーはデビュー戦の敗戦を、黙して語らずだった。

 それから9年後、昭和62年9月22日の広島球場で、初めてデビュー戦が理解出来た。2-1のリードで九回裏。打席に小早川を迎えた時、やっぱりストレートで押した。サヨナラ2ランは弾丸ライナーであれも右翼席だった。その時、江川は引退を決めた)。

 デビューから引退まで――怪物が貫き通したのは「自分のあるべき姿」だったのである。あくまでもストレート勝負が、江川卓の本領だった…。


文=平田 翼(月刊「GO!GO! ジャイアンツ」より)


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