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シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2017年06月26日
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カテゴリ:軟弱日本を斬る!
歴史は繰り返すというが、腹痛で政権を投げ出したアホがまたも腹痛で政権を投げ出そうとしているという噂で巷は持ちきりである。

 歌舞伎役者の不幸に便乗してお涙頂戴の演出かと、悪巧みばかりしている連中のやることなので、勘ぐってしまう。なにしろ、共謀罪を通すために、国会での悪事の追及を誤魔化すために自己都合で国会を閉じるほどのインチキぶりだからである。

 このようなインチキ内閣とその一味やゴミ売りこそ共謀罪を適用し獄中で改心させるのが国家国民のためではないかと思う。

 出来の悪いバカ息子は都合が悪くなると逃げだすというが、まさに一国の宰相が逆境に耐えられずに逃げ出すのはこの国の不幸というか、そんなアホバカを選んできた国民の責任でもある。

 しかし、一度腹痛で逃げたアホバカがまた総理になったのは、果たして本当に国民の責任といえるだろうか?

 インチキ政治家たちはなんでも国民のせいにして責任を転嫁するので、あらかじめなんでも国民のせいにできる論理で洗脳しているインチキ政治家たちが国民に説明責任を果たさずに、雲隠れして有耶無耶にすることが大問題なんである。

 説明責任を果たせと、責任を転嫁して国会やゴミ売りを私物化して、森安の理事や加計の元文科省事務官を人格破壊にまでつながる罵倒をしておきながら、ブーメランになって、自分たちに返ってくると、さっさと逃げ出すというのは、卑怯者のなかの卑怯者がやることで、もはや人間とはいえない。
 
 強 姦容疑を誤魔化しバレたインチキ御用学者と、元秘書にパワハラで、これまた説明責任から逃げ出し病欠している某議員のような人間失格のやり逃げ内閣とその輩たちと皆やることは卑劣で姑息で、とてもマトモだとは思えない悪魔たちである。

 そのようなインチキに加担してきた日本会議と広報媒体となった参刑とゴミ売りはジャーナリスト失格なので、不買運動で廃刊に追い込むべきであろう。

 いつまでもインチキ政権を罵倒しても仕方ないので、高尚な話に移りたい。

 さて、シュタイナーは、出来立ての頃の地球は正四面体で、火山活動により、現在の球形となった、と述べているが、4つの点のうち1つが日本列島にあたる、とも述べている。

 いまでも、主な火山帯をつなげていくと正四面体が現れることがわかり、4つの点のうち最も地震が多いのは日本列島であるようなので、そこに住む日本人は、天変地異に最も影響を受けている民といえよう。

 さて、日本人と一括りによくいわれるが、八切史観からもわかるが、実際は多民族からなり、単一民族という幻想は、明治時代に長州からはじまった神道国家の影響が濃い。どうしてそのような間違った概念が広く浸透し、いまでも残っているのか、前回に続けて紹介するシュタイナーの話を読めばわかる。

 シュタイナーは、日本には古代アトランティスの古い伝統が色濃く残っているので、次の人類の進化である個人主義が根付き難い、というような話をしているようである。

 実際に、いまの日本社会をみると、この古く悪しき全体主義が至る処にみられる。特に、インチキ内閣の、森友、加計問題などは、ルシファーの日本会議による、血縁関係を基にした国家の全体主義化として捉えられる。

 また巷を賑わしたアイドルグループのスマップの解散をみていると、個人の自由よりも、血縁関係が重視される弊害がみられる。

 前回紹介したシュタイナーの話により、その精神は、まるで古代ギリシア人のようで、アテネ人の意識が濃く、いまでいえば、さながら、日本会議人や、ジャニーズ人、といえるもので、現代の個人主義がいまだ芽生えていないことがわかる。

 それは、中世の意識をいまだにひきづっている弊害が大きい。この国の住人は看板は架け替えても、中身の精神は中世から進化できていないことは、勇気をもって、悪事を告白した人を組織全体で迫害したり、独立しようとする人の独立を阻んだりすることでわかる。

 このままでは、世界の進化から取り残され、人類の進化段階から逸脱してしまう可能性が出てくる。悪いとわかっていながら改善できないでいるのは、人間の精神として進化できないことを意味する。つまり、益々堕天使の誘惑に負けて、仲間に加わっていく。

 人智学では、第5アーリア文化期といわれている現代で発達させるべき精神の課題は、前回紹介したように、他人の痛みを感じるほど覚醒意識を研ぎ澄ますこと、個人主義を発展させ、思想の自由を認めること、そして、人の心が読み取れるほどの霊視を獲得すること、である。 

というわけで、繰り返しになるかもしれないが、再び紹介を続ける。

 ★        ★        ★

 第6(ロシア)文化期を準備する その2

 ルドルフ・シュタイナー

 1915年6月15日 デュッセルドルフ

 過去になされた多くの神秘学の講義から、東ヨーロッパには、第6文化期に特別な使命をもつ民族が住むのを、人智学徒は知っている。東欧の住人は、第6文化期になるまで、霊魂の奥底に横たわっている新しい精神の基本となる徳性を明確に現わさない。

 ロシアの諸民族は、霊魂のなかに潜む、この徳性を展開するのに、第6文化期を待たねば、その準備が成就しないのを無意識に知っている。

 西ヨーロッパと中央ヨーロッパの使命は、意識魂を発展させる事で導入し得る徳性を注ぎ込む事である。この事は、東ヨーロッパの使命ではない。

 東ヨーロッパは、霊我が地上に降りて来て、転生した霊魂に浸透できるまで待たねばならない。この人類進化計画は、正しく理解する必要がある。間違って理解したなら、逆に、東の住人を、驕りや傲慢へと導くだろう。

 ポスト・アトランティス時代の文化の興隆は第5文化期に極められる。第6文化期と第7文化期では、その進化の下降期となる。にも関わらず、第6文化期の、この下降する進化により、霊我が霊感を吹き込み、浸透するだろう。

 今日、東ヨーロッパの人たちは、本能的に、以上が真実と感じている。ただし、しばしば倒錯した本能から感じているので、以上のような意識は、大抵、極めて茫漠とし、混乱している。

 「ロシア人」という言葉が頻繁に使われるのが、実に特徴的である。

 西側で「イギリス人」、「フランス人」、「イタリア人」、「ドイツ人」と言って、個人を見分ける代わりに、東ヨーロッパの人たちが、「ロシア人」と言うと、個人というよりも、集合体の、集合魂が姿を現わす。

 ロシアの知識層の多くが、「ロシア人」という表現法を大切にする。この事は、この独特の文化に関わる集合魂と深く関係している。この言葉は、共同体の上に広がり、同族とその成員の両方の意味を指す。

 「ロシア人」という言葉に、「人」という「個人」の意味を含ませる事で、その成員という意味が示されているが、個人が、遠い未来に到達すべき高次の精神には、まだ到達していない、のも明らかである。この表現が、紛れもなく矛盾する意味を含む限り、共同体と個人の中間にある。

 「ロシア人」という表現の「ロシア(の)」という形容詞が、「人」という名詞で表される個人を、実際には無効にしている。というのも、真の個人性に到達したなら、排他を示唆する形容詞が、個人の前につくはずがないからである。

 しかし、それよりずっと深いレベルで、ロシアの知識層の成員には、共同体や親愛の概念の、来るべき時代において、主流となるべき理解が霊魂の奥底に横たわっている。

 霊我は降下する事になっているが、それは親愛の意識に浸透された人たちの共同体の中にしか降下できない、霊我は親愛の意識を欠く共同体には広がりようがないと、ロシア人の霊魂は感じている。

 このために、ロシアの知識層は、西ヨーロッパと中央ヨーロッパに、次のような非難を浴びせる。ロシアの知識層は次のように言う。

 「貴方たちは、真の共同体に全く注意を払っていない。貴方たちは、個人主義しか育成しない。自立した人間になりたい。単なる個人になりたいだけなのだ!

 貴方たちは、個性を通じて、1人1人が個人を感じ、それを極端に推し進めている。」

 上述の発言は、東から、西や中央ヨーロッパへと、利己主義、退廃的等といった多くの非難のなかに反響している。現況を実感する、東の人たちは、西や中央ヨーロッパは、人のつながりへの感情を失ってしまった、と告発している。

 東の住人は、現実と未来を混同して、次のように言う。

 「真実で、純粋な共同体が存在するのは、ロシアをおいて他にない。誰もが、他者の兄弟、他者の「小さな父」、「小さな母」と感じる生活は、ロシアでしかありえない。」

 西ヨーロッパのキリスト教は、本能から共同体を展開するのに失敗したが、ロシア人は共同体が何であるか、を知っていると、ロシアの知識層は言う。

 アレクサンドロ・ヘルゼンは、19世紀のロシア知識階級に属した優れた思想家だったが、「西ヨーロッパに幸福はありえない。」と言う事で、上述の混乱した批判に究極の結論を与えた。

 「どのような目論見がなされようとも、西ヨーロッパ文明に幸福は決してやって来ない。西ヨーロッパ文明では、人は決して満足を見つけることはない。そこでは、混沌だけが支配する。」

 唯一の救済は、ロシアの集団性にある。共同体から自分をまだ切り離していないロシアの集団生活にある。ロシアの村落共同体には、堅固として依存できる集合魂の性質が、まだいくらか残っている。集合魂と呼ぶ状態から、人類は徐々に抜け出してきたが、動物はまだ、その状態のままでいる。

 集合魂は、ロシアの知識層によって、ロシア人の間にある偉大な存在として尊ばれている。未来の共同体は、まだこれから実現すべき高い理想をもって、上空を羽ばたいている、という新しい理想に、ロシア人は昇華できない。ロシア人は、次のような過ぎ去った理想に固執する。

 「我々は、集合魂に基づく生活を保持するヨーロッパの最後の民である。他の民は、集合魂を超え出ていった。我々は自分たちのために保持してきたし、これからも保持すべきである。」

 しかしながら、実は、このロシアの集合魂による生活は、未来には全く存在してはいけない。というのも、この集合魂の生活は、霊魂の古い状態なのである。もし、集合魂が続くなら、ルシファーの集合魂となってしまい、古い進化段階に没落してしまう。

 上述のような偽の集合魂ではなく、次の進化段階で人間が追求すべき真の集合魂は、人智学から霊視できるものである。

 しかしながら、確かに、古い集合魂ではあっても、ロシアの知識人の願望と憧憬は、霊我の降下をもたらすのに、共同体の霊(精神)性がどれほど必要であるか、を示している。

 今は間違った方向で、霊我の降下が求められているが、本来は、真実の道を、人智学から追求すべきである。だから、東に対して、次のように言いたい。

 「貴方達が依存している古い集合魂、すなわち、ルシファー-アーリマン的な共同体を完全に克服する事が、我々の課題である。」

 ルシファー-アーリマン的な性格の共同体には、ロシア正教の教会が確立したような硬直した信仰の強制がある。そのような共同体は、本当の自由な思考を理解しない。ましてや、自我を完成させるために、親愛の支配する社会生活に、自分を結び付けるレベルには上昇できない。

 ロシアの共同体は、純粋な血縁を通じた親愛に埋没する、霊魂の古い状態を保存したい、と願っている。

 (懐古主義的である。)

 血縁ではなく、霊魂(精神)に基づく共同体は、人智学で追求すべき課題である。血縁が、もはや力をもたない共同体を創造する必要がある。

 当たり前だが、血縁関係も存続するだろう。家族関係などは生き抜いていくだろう。残る必要がある関係は消し去られないが、新しい関係が生まれなければならない!

 子供のときに意味をもった精神(霊)力は老年でも保持されなければならないが、歳をとった頃には新たな精神(霊)力を受け取らなければならない。

 血縁関係が、未来の人間たちの偉大な共同体をつくることはない。血縁関係は、東から、今日の戦争のような恐ろしい出来事の中に染み込んでくる誤謬でもある。かつてスラブ民族の間で、共同体の支配を巡って戦火が広がった。

 現代の運命から、今耳にしたばかりの霊我が入りつつある。実は、この霊我のなかには、正しい核心、すなわち、霊我は親愛が支配する共同体でしか現れない、という特性がある。

 だから、そのような共同体は、血縁関係による共同体であってはならない。それは、真の精神(霊)性による共同体でなければならない。

 霊(精神)性による共同体として、将来成長する霊我は、今はまだ、いわゆる幼少の段階だが、人智学の活動グループにおいて発達(進化)していくだろう。東ヨーロッパを、集合魂にしっかりと捕え、スラブの集合魂を捨てずにいるどころか、国家の発展のためと見なすようにさせている強制こそ、現代人が克服すべきものである。

 大いなる恐怖の象徴が、目の前に立っている。かつて戦争をはじめた2国家をいま思い浮かべてみる。スラブ世界を率いたロシアは、この戦争が血縁関係の兄弟愛に基づいていると、一方で宣言し、他方には、オーストリアがある。オーストリアは、13の異なる言語によりはっきりとわけられる13の民族を統合している。

 オーストリアの動員令は、13の言語で発令する必要があった。なぜなら、オーストリアは13の民族を統括するからである。ドイツ人、チェコ人、ポーランド人、ルテニア人、マジャール人、スロヴァキア人、セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人(他に分離した別の方言もある)、ボスニア人、ダルマチア人、イタリア人である。

 13の異なる民族集団が、小さな差異は別にして、オーストリアでは統合されている。この意味を理解しようとしまいと、オーストリアが、血縁に基づかない共同体でつくられているのは明らかである。

 というのも、その不思議な国境線は、13の異なる家系につながる支流も含むからである。ヨーロッパの、この最高度の統合国家は、古い集合魂、すなわち画一性を強力に求める国家とは正反対の位置にある。

 しかし、古い集合魂に根差した共同体をめざす努力は、非常に多くの他の事柄を犠牲にしている。この事は、別の問題に導くが、その意味を考えてみる。

 昨日の公開講義で、偉大な哲学者ソロヴィヨフに触れた。ロシアで最重要な思想家の1人である。ソロヴィヨフは傑出した思想家だが、徹底したロシア志向の思想家で、西ヨーロッパの観点からは、理解し難い精神の持ち主である。

 しかし、人智学徒は、彼の仕事を研究し、理解しないといけない。ソロヴィヨフの中心となっている理念について、割と親近感をもった観点から述べてみる。

 ソロヴィヨフは、古い集合魂による共同体を、何の疑問もなく、自分に採用するには、あまりにも偉大な哲学者といえる。彼は、それに関して多くの疑問をもち、多くの点で同意しないが、ある1つの理念だけに支配された。

 彼は、ほとんどあまり意識できずにいるが、もし霊視できたら、第6文化期に彼の霊魂が、地上に受肉するのを待つしかない、のがわかるはずである。西や中央ヨーロッパの人には、理解困難な理念が、ソロヴィヨフでは中心となっていた。

 第6文化期の準備として、西ヨーロッパにおいて追求すべき人間の精神性は他にも色々あるが、いまは、生にとっての死が何を意味するのか、死の意義を把握しようと努力すべきである。死が人間という生命の、いかなる1つの現実として現れるのか、また、霊魂が、死によって、どのように別の生命へと変わるのか、を理解するのに努めるべきである。

 人智学徒は、この世での生と、あの世での死から新たな誕生の、霊魂の様態を描きだす。人智学徒は、死を理解しようとする。死は見かけにすぎない。霊魂が死を通過した後も生き続けるのを実感する事で、死の克服に努める。死の理解を通じて死を克服することが、現代人には切実に重要な目的である。

 しかし、人智学徒は、ここで、ある重要点に到達する。実際に最重要な点で、人智学は、この点を通じて、偉大なロシアの思想家ソロヴィヨフの中心となっている理念から、完全に離れる。彼の理念は以下である。

 「この世には悪があり、愚かさがある。もし、人間の感覚で、邪悪と愚劣を眺めたなら、この世が、この2つで満ちているのを否定できない。これらは、この世の神性を否定するものである。」

 「というのも、人間の感覚でこの世を眺めたとき、神の存在を、どのようにして信じれるのか? なぜなら、神が、悪を現わす事など、断じてありえないからだ! 

 しかるに、人間の感覚はこの世の至る処に悪を知覚し、その悪の極みが死である。死がこの世にある限り、この世は邪悪と愚劣を現わす。だから死こそ悪の根源である!」 

 以上のようにソロヴィヨフは、この世を特徴付ける。また彼は、次のように言う(ほぼ原文どおりに引用している)。

 「この世を、通常の感覚で見よ。通常の精神で理解してみよ。あなたは悪の存在を決して否定できない。また、死の理解を望むのも馬鹿げたことである!

 死は存在する。

 感覚を通して獲得された知識は、愚劣に満ちた、この世の悪を知らしめる。この世が悪に満ちているのを示すとき、この世のあらゆる進展のなかで、死を示すとき、この世が、神のものである、と我々人間は信じれるのか?」

 以上のようにソロヴィヨフは疑問を投げかける。

 「我々人間に死を与える世界が、神の世界であるとは、断じて信じることができない。というのも、神が悪で、愚であるはずがない。何よりも悪の根源である死であるはずがない。神が死ぬ事はありえない。

 それゆえに、もし神がこの世に生まれるなら、もし神が現れるなら、神であることを、我々人間はただちに信じれるのか? 

 否、できないだろう!

 神はまず自分が神であるという証明を確立しなければならない。もし神であると主張する存在が現れたなら、我々人間は、その存在を神とは信じないだろう。

 神は、我々人間が、神として認識できるような通俗文書などを提出し、自らの神性を証明しなければならない! 

 そのようなものは、世の中に何も存在していない。神は、この世に既にあるものを通じて、神であるのを証明できない。というのも、この世の全てのものが、神の性質に矛盾しているからである。それでは、どんな手段で神は自分を神と証明できるのか?

 神が、この世に現れるとき、神が死を克服したと、死が神には何ら力をもちえないのを示すしかないだろう。

 キリストが自分が神であるのを証明しなければ、我々は、キリストが神だとは決して信じないだろう。しかし、キリストは、死を克服した。キリストが復活した以上、悪の根源の死が、キリストにないと示した限りにおいて、キリストは死を克服した。」

 以上のようにソロヴィヨフは言った。以上は、キリストの実際の史実の復活に基づいた神性の意識についての理念である。以上のように、キリストは、神性に基づき、自分が神であるのを証明した。

 更に、ソロヴィヨフは言葉を続ける。

 「この世にある何物も、復活という唯一の例外を除けば、我々に神の存在を実感させるものはない。もしキリストが復活しなかったら、我々の信仰は空しくなるだろう。そして、この世における神性について、我々が言い得る全てが、また空しくなるだろう。」

 以上が、ソロヴィヨフの基本的な見解である。ソロヴィヨフは、聖パウロの言葉を再三再四引用する。

 もし、我々人間が、この世を見るなら、悪や愚劣や、退廃や無意味を見る。もしキリストが復活しなかったなら、この世は無意味となるだろう。それゆえにキリストは復活した! 

 この文によく注意すべきである。というのも、これは東ヨーロッパの最も偉大な思想家の基本理念だからである。

 「もし、キリストが復活しなかったなら、この世は無意味だろう。それゆえにキリストは復活した!」

 ソロヴィヨフは、次のように言っている。

 「もし、キリストが復活しなかったなら、この世は無意味だろう。それゆえにキリストは復活した、と言うと、非論理的にみえるかもしれないが、これは、いかなる論理よりも、遥かに立派な論理なのである。」

 神性を証明する文書という、この奇妙な例により(これはソロヴィヨフの著作に見つかるが)、東ヨーロッパの思想の不思議さを具体例で示した。自らが神であるのをいかなる手段で、論駁の余地なく神が啓示するのか、を理解する努力から奇妙な思想が山積みになる。

 以上のように、西や中央ヨーロッパとは全く異なるのである!

 では人智学の目的は何か? 

 人智学が育成すべき霊我を振り返って、比べてみる。その目的と方向性は何か?

 人智学の知識から、この世には意味・意義や目的があるのを認識し、この世は悪と退廃に満たされているわけではない、と認識するのが、人智学徒の望みであり、目標である。霊界からの直接の知識を通じて、この世の意味を実感するのが人智学の目標である。

 この実感によって、人智学徒は、キリストを実際に経験する事を準備している。これら全てを、勿論、贈り物として、恩寵として、受容して、いまもキリストが生きている、という霊的な理解を望む事にある。

 「私はいつも、世の終わりに至るまでも、貴方がたと共にいる。」という言葉の重さを実感し、人智学徒は、キリストが休む事なく、人類と約束した全ての行いを受け入れる。

 というのも、キリストは福音書を通じて語るだけではないからである。キリストは、人間の霊魂の内側からも語る。

 この内なる声こそ、キリストが「私はいつも、世の終わりに至るまでも、貴方がたと共にいる。」という言葉の意味である。キリストは、いまも生きるキリストとして、いつも心のなかに見つかる。

 我々は、キリストと共に生きたいのである。キリストを自分の中に受け入れたいのである。

 「私ではなく、私の中のキリスト!」

 聖パウロの言葉のなかで、この言葉が最も意義深い。「私ではなく、私の中のキリスト。」 

 この言葉により、次のことを実感する。どこを向いても、意味と目的が啓示される。ファウストは、次の言葉に、自らの哲学を纏わせ、同じ真理を表出した。

 おぉ、偉大で崇高な救いの霊よ、あなたは私が祈り望んだものすべてを与えてくれた。

 あなたが火中のなかで、あなたの相貌を私に見せてくれたのも、無駄ではなかった。

 あなたは私に大自然を大いなる世界として与え、それを感じ楽しむ力をも授けてくれた。

 あなたは、ただ冷たく困惑した知を産むばかりではなく、素晴らしいことに、自然の最も深い胸に抱かれて、私は、親友の胸のうちにあるかのように、自然を眺める。

 あなたは生きものたちの序列を導いて、私の前を通らせ、風と水と静かな森の中にいる、私の兄弟たちを私に教えてくれる。

 森に嵐が咆吼し逆巻くとき、樅の巨木は隣の大枝を押し倒し、隣の幹たちをうちひしぎ砕き倒れるとき、うつろな雷鳴が丘に満ちる。

 そのとき、あなたは私を安全な洞窟に導いて、私に私の自己を見せてくれる、そして私の胸の中で深い神秘の奇蹟が展開する。

 以上の言葉は、外界と内なる精神、宇宙の進化目的、死の意味についての霊的な理解を指し示している。死が、ある生から別の生への通路である、と実感することを指し示している。

 生きているキリストを求めるなら、死と復活を通じて、キリストを追いかけるべきである。東ヨーロッパのような共同体の復活を、人智学の出発点とは見なさない。

 キリストに従い、キリストの霊感を流れ込ませ、キリストを研ぎ澄まされた意識の中にむかい入れる。キリストを追いかけるなかで、死を乗り越える。

 Ex Deo Nascimur 「我々は神から生まれる」だけでなく、In Christo Morimur 「キリストの中で死ぬ」ことにより、キリストに従う。

 この世を、詳細に調べれば、この世が文書であり、それを通して、神は自らの神性を現わすのを知る。霊の織り成す力を経験し、それを理解しようとするので、西の人智学徒は、もし神がこの世に生まれるなら、神が自分を神であると確立する文書を必要とする、とは思わない。

 そうではなく、むしろ、神を、この世の至るところに、自然の中に、そして人間の霊魂の中に求める。

 だから、この第5(アーリア)文明期は、人智学徒が、グループのなかで育成する霊我を必要とする。それはまだ、人類の頭上で羽ばたいていて、高次のヒエラルキーの天使たちに抱かれている。

 だから、霊我に満ちたオーラを意識的に育成する必要がある。それは、第6文化期に地上に生きるとき、人間の霊魂に流れ込む。

 東ヨーロッパのように、死んだ集合魂に頼ることや、古い残存である(血縁の)共同体に頼るのは、人智学徒の道ではない。人智学徒の努力は、生きている霊魂を、その幼少のときから抱きしめ育成することである。

 人智学の共同体は、そういうもので、血縁関係を探し、血縁を同じくする人だけを呼び集め、共同体をつくり、古き良き集合魂を育成するのは、人智学のやり方ではない。

 人智学の目標は、兄弟姉妹となるのを決意する人たちを呼び集めることである。人智学徒の頭上には、人智学を育成することで、発達(進化)させようと努める霊我が羽ばたいている。人智学徒たちは、親愛の善良な霊我が、頭上に羽ばたいているのを感じている。

 人智学徒のグループの1つの幕開けに際して、以上は、自分の中に受け入れる献呈の理念である。この理念によって、人智学徒は、創設に際したグループを聖別する。新しい共同体に芽生える生命である! 

 人智学徒は、頭上に共同体を追い求める。人智学徒の内に生きたキリストを追い求める。このキリストは何らの文書も必要とせず、まず証明、もしくは保証される必要もない。なぜなら、人智学徒は自らの内側でキリストを経験するからである。

 グループの創設において、次のことを、聖別式の理念と見なす。

 「我々の上なる共同体、内なるキリスト。」 

 もし2人が、3人が、5人が、いや多くの者が、この意味においてキリストの名前のもとに結合するなら、キリストが正しく本当にその人たちの内に生きている、ということも、我々は知っている。

 ★        ★        ★

 キリストというより、現代は思いやりを育てる進化段階なのである。思いやりを育てないと、人間は進化できない。

 病に負けずに頑張っている姿に人は感動するのである。病から逃げ出すのは、責任から逃げ出すのと同じである。病に罹ったのは、インチキ自民党がよく使う「自己責任」だからである。






Last updated  2017年06月26日 19時07分20秒
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