シュタイナーの霊的言語-骨と冷酷さと憎悪
今日の人間が、精神について語るときは、せいぜい抽象的思考について語るだけだが、いまではその抽象的表明(思考)が、人間にとっての精神(霊)となっている。そして、人間にとって、これらの思考があまりに希薄になると、人間には言葉だけが残され、フリッツ・マウトナー(☆1)が行ったように『言語批判』を書くようなことになる。(☆1)フリッツ・マウトナー:Fritz Mauthner 1849ー1923 作家、哲学者。『言語批判論集』全3巻(シュトゥットガルト、1901)参照。 このような言語批判を通じて、それでなくても充分希薄になってしまった精神(霊)を、単なる抽象的思考へと完全に蒸発させてしまう可能性が出てくる。生まれつきの霊視(霊能力)に浸透された秘儀参入学は精神(霊)を抽象的思考のなかには見なかった。 秘儀参入学は精神(霊)を、形態のなかに見た。具象的で、具象の形態自身が語り、音を発するなかに見た。秘儀参入学は精神(霊)を、生きた活動のなかに見た。精神(霊)を、生きた活動のなかに見たことにより、物質や、骨、血液もまた精神(霊)において見ることができた。 この秘儀参入学においては、今日の骨格という考え、表象(イメージ)は存在しなかった。今日の骨格は、解剖学者、或いは生理学者や、計算を行う建築技師により、構築物のように見なされている。しかし、骨格は、本来そのようなものではない。この骨格というのは、いままで説明してきたように、鉱物質が熱エーテルにまで駆り立てられ、熱エーテルのなかに霊的ヒエラルキア(天使)の力が介入して、骨の形(フォルム)が構成されることにより、形成されるものである。 つまり、骨格を正しく見れる人に対しては、骨格は霊的な起源を、秘密糧に明かす。そして、実際、骨格を今日の形(フォルム)において、つまり今日の科学が観る形で、骨格を観る人は、「ここに印刷されたページがあり、そのページには、このような形の文字がある」、と言う人に似ている。 その人は、文字の形を書くが、その文字を読めないので読まない。その人は文字の形のなかに表現されている形態を、その根底にある意味に関係づけることなく、ただ文字の形を書くだけである。今日の解剖学者、自然研究者は、骨が示唆していることなど、あたかも何もないかのように、読めない骨を記述する。しかし、骨は、霊から発したその起源を仄めかしているのである。 物質の自然法則、エーテルの自然法則全てに関して、霊から発し、霊がその起源であるということが当てはまる。物質全ては、霊(精神)世界に関する文字のような存在なのである。物質全てを、霊界に由来する文字と解釈できてはじめて、上記のような事柄が理解できる。 けれども更に、人間の物質的な生体組織へと目を向けるとき、最初に知覚されるのは、あらゆる時代の秘儀参入者たちが(正に真の秘儀参入者であった人たちが)、霊界へと境界を越えて最初に知覚するもので、ゾッとするような、最初は容易に耐えられないようなものであると語ってきた領域に属するものである。 人間は大抵の場合、自分にとって努力する価値があると思われるものによって喜びを感じたいと思うものである。とはいえ、霊的現実、すなわち、真の現実に精通するなら、人は恐怖を通過して行く必要がある。 というのも、解剖学-生理学的に、眼前に置かれている人間の形姿に関して、この人間形姿は、霊界では、道徳的な冷酷さと憎悪である、2つの要素から構築されている、ということに気づくからである。 実際、我々人間は、魂のなかに、人間愛と熱、他の人間を理解しようとする、道徳熱への萌芽を有している。ところが、生体組織の固体の構成部分のなかには、道徳的な冷酷さを持っている。この冷酷さが、いわば霊界から、物質的な生体構成物を結びつけ、固める(造形)力となる。我々は、自らのなかに、憎悪への衝動を担っている。この憎悪への衝動が、霊界から血液の循環を引き起こすのである。 そして、我々人類は、非常に愛に満ちた魂、人間理解を切望する魂をもって、世界を進んでいく一方、他方で、魂は、潜在意識の底で、我々が肉体を担うことが可能な為に、身体のなかに流れ込み、衝動を与える冷酷さが潜んでいるのである。 始終、冷酷さについて語っているが、つまり、道徳的な冷酷さのことだが、ただし、この冷酷さは、熱エーテルという迂回路を経て、物質的な冷酷さに移行できる。我々人間の底深く、潜在意識には道徳的な冷酷さと憎悪が潜み、人間が、魂のなかに、体内に潜む冷酷さと憎悪を持ち込むのは容易で、その結果、人間の魂が、いわば人間無理解を感染させられるようになる。 人間無理解への感染は、道徳的な冷酷さと人間憎悪の帰結である。このようなわけで、人間は道徳熱、すなわち人間理解と愛を、元からまず、自分のなかに育成しなければならない。肉体からやってくる冷酷さと憎悪を克服しなければならないからである。