シュタイナーの人智学的医術その250
それから、クリスマスが中間にある現在のような冬の季節が来た。この季節は、歳神によって霊感を授けられ、秘儀に参入した導師が、弟子に、水が芸術的な雪片の結晶形態となって大地を覆うとき、啓示される神秘を指摘する時期だった。 既に、秋に思考と観想になっていた判読(読解)は、今、魂の奥深くの領域で、内的生命になった。これまでの季節のなかで、外的、物質的活動とともに平行してきた魂の観察が、今、秋になって、内(精神)的、霊的活動になった。つまり、読解は神秘的な感化(深化)になった。 自らのなかの、「私」なる存在の最深の本質を、包括的に理解するには、宇宙言語や、宇宙的なロゴスにより、大地が雪のマントルに包まれたときや、大地の周辺と大地の上の生命が寒さによって収縮したときに、自然に生じる全ての存在に投影された秘密に傾聴するときだけであることを、古代の人々は知っていた。 (外界が白い雪の衣装を纏い、いわば外界が目隠しされた冬の季節こそが、魂の内奥にある、人類生誕の秘密をみつめるときであることを、古代人は理解していたという。) 歳神によって秘儀参入し、霊感を与えられた人々(導師)にとっては、歳神の書物を、冬の季節に与えられた指示(解釈)から理解できるようになることが責務だった。 大地の中に置かれた種子や、また様々な大地の収縮力の内部で冬眠する昆虫の生から、導師は、活動するプロセス(過程)を追跡できるように観察力を研ぎ澄ました。人間の眼差しは物質光を見ることで物質的な闇に導かれた。 (物質的な眼による視覚は、雪による白により閉ざされたという意味で、物質に囲まれると、人間は精神的問題に直面せざるを得なくなる。だから、金持ちは、冬の季節の象徴でもある。物質欲があればあるほど、益々、精神性が隠れるので、乏しくなり、冬のように、その精神的活動力、生命力を失う。金持ちは闇、つまり悪に直面せざるを得ない。) ある秘儀では、弟子は次のように導師が囁くのを聞いた。 「今、汝は真夜中の太陽を眺めなければならない! 汝は大地『を通して』太陽を眺めなければならない。大地の中の植物や下等動物にまで、魂の眼(心眼、霊眼)が到達できる浸透力をもつなら、そのとき大地が汝の最奥の魂によって、透明になるだろう。」 宇宙(天)に比べて、大地の様々な力が最も収縮するときこそ、人間は大地『を通して』太陽を、真夜中の太陽として眺めることができるようになる。そのとき地球は、内的に霊化される。 その冬とは逆に、夏至に、人々は、地球から宇宙(天)へと眼差しを向け、肉体の眼(視覚)で太陽を眺める。 しかし、深い冬の真夜中(クリスマス)に、太陽を眺めることが、歳神に導かれた秘儀参入者(導師)の弟子が学ぶべきことであった。 (古代人の宇宙言語を読み解く冬の秘儀、つまり読解儀式が、形式化してクリスマスになった。) そして、秘儀の忠実な信奉者だが、秘儀参入者(導師)にはなれなかったか、或いは導師の実際の弟子にはなれなかった人々に、真夜中の太陽が明かした秘密を伝えることが、秘儀参入者(導師)の責務だった。 (この儀式が形骸化してキリスト教のカトリックを生むことになる。本来は、高度な霊能力を有した秘儀参入者が宇宙言語、つまり神々のメッセージを読み解いて、人々に伝えたものだったという。やがて、時代が進むと、霊能者が減り、霊能力も衰えたので、神々を代表して、キリストが人間にメッセージを直接伝えるべく降臨したという。) そして益々次のような事態が古代に生じるようになった。冬の深みに、秘儀参入者が真夜中の太陽を指し示すとき、弟子たちに、地上の人間自らのなかの、「私」という存在が、ある意味、捨てられ、見捨てられたと感じることを、知らせざるを得なくなった。 当時、最も偉大な知識を保持する秘教集団にとって、冬至に行う祭は、地上という実存の中では、自らのなかの「私」という存在に到達する道を見つけることができない、という痛みと苦悩の祭へと次第になっていった。 その集団の人々は、冬至に、ロゴス(宇宙言語の言葉)によって大地に書かれた徴(しるし)から、読みとった意味から、自らの自我もろとも、宇宙に捨てられた様を学ぶしかなかった。 というのも、その秘教集団が感知したのは「大地」だけだったからである。「私」の存在が、最も渇望したもの、つまり太陽の力は大地に覆われていたからである。実際、太陽は真夜中に現れたが、当時の人間は、太陽存在に近づく力が弱まるのを感じた。 (この秘教集団とは、恐らく、ヒベルニアの秘儀を起こした密教団だと思う。ここでシュタイナーが述べていることは、人間のなかの魂の自我の力、つまり良心の力が弱まったことから、太陽の力の弱まりを感じ、つまり、神が死んだのではないかと思ったのである。これが、ゾロアスターの神は死んだという叫びで伝承される。 それと同時に、神が死んだのは、大地に覆われたせいで、それはつまり、大地の地球が、神の子を身篭ったということで、将来、太陽が失った霊力の分が、地球に到達し、降臨する予感を感じたという。この事が、キリスト降臨の預言となり、実際に人の子イエスに降臨し成就された。) しかしながら、同時に、人間の「私」という存在が、宇宙に捨てられたと覚ることは、将来、太陽存在が地球に到来する進化の行路で人間存在に浸透し、宇宙での孤立ゆえに苦しむ人間を癒すために現れるだろうという預言的な教えでもあった。 (人間は、神々から離れた神の子なので、必ず、神々が救いにくるという救世主到来の信仰を生むことになる。) この事実は、痛みと苦悩の冬の祭が、既に南の民族の間では、地上にキリストが出現する内(精神)的な喜びの祭に変わったという人間の進化の事実を指し示している。そして太陽存在として啓示された存在が、宇宙から地上存在(人間)に降下する事実は、その出来事の象徴で、それを告知した人々によって預言された。 預言者は、古代の苦悩の祭が歓喜の祭に変容したというメッセージを、地上全ての人に発せられたことを示した。羊飼いの心の最奥で、次のような言葉が鳴り響いた。 「宇宙の高みにおいて、神性は自らを啓示し、善意なる人間において、平和は地上で生まれるだろう」 そのような言葉が、羊飼いの素朴な心に告知された。 もう一方の対極において、宇宙的な霊性(太陽霊)の地球の物質への参入メッセージは、魔術的知識に最も深く浸透して集団に、古代の天体に関する叡智の残存の名残からもたらされた。 (こちらの魔術的秘教集団とは、エレウシスの秘儀を起こした集団か、エフェソスの秘儀を起こした集団だろうか?) 今日、クリスマスの神秘について語るとき、それによって経験する全てを、古代の苦悩の祭を背景にして考察しなければならない。人間の進化行路に、人間を重圧で押し潰し、大地に隷属させる全てから自由になるように闘う力が入った様を思い浮かべなければならない。例えば、次のように自らに言い聞かせられるように、クリスマスのイメージを定式化できなければならない。 「冬の深みに地球が宇宙から退き、自己観想の時に入ると、古の秘儀参入者に啓示した歳神の霊感は今でも真実となる。人間は、人間の「私」という存在、つまり自我の秘密が、1年のこの冬の秘密と関連していることを今でも理解できる。 そして、キリスト=イエスが、地球の人間の生に入るイメージに囲まれると、人間的洞察や識別をもたらす感情や心の叡智から、聖夜のイメージが、あらゆる深みにおいて経験できるようになる。」 (かつての太陽での神の死の生みの苦しみの祭が、いまや地球でのキリスト降臨による死からの再生への喜びの祭に変わる。) しかし、あらゆる時代に姿を現すキリストを追いかける意志を本当に持ったときにだけ、聖夜のイメージを真に経験できる。古代の秘儀参入学の秘儀参入者(導師)の課題は、1年の行路(季節)から人間性の神秘のヴェールを取り去ることだった。 (古代の神殿は、いわば、秘儀参入学を研究する場で、秘儀参入学が、神々の宇宙言語のロゴスを読解する研究であり、それを多くの人々に伝授するために、祭という儀式をつくったようである。)