シュタイナーの人智学的医術その450
第6講 ゴルゴタの秘蹟前の紀元前3、4世紀までと、ゴルゴタの秘蹟後の紀元後3、4世紀までの間、600年から800年にわたるが、この時代は、東洋との関連という点で西洋の歴史を理解するために特に重要である。 この講義で述べてきた2人の人物に関する出来事は、アリストテレス主義(アリストテリスムス)の登場と、マケドニアからアジアへのアレクサンダーの遠征において頂点に達したが、この出来事の本質とは、この出来事がまだ秘儀の本質に対する衝動のなかに完全に浸りきっていた古代東洋の文明により、ある種、終焉を迎えるものとなる、ということにある。 この混じり気のない純粋な古代東洋の秘儀への衝動の、いわば終焉は、冒涜的なエフェソスの火災にあった。エフェソスには、いわばヨーロッパや古代ギリシアにとって、神に浸透された古代の文明が、秘儀の伝統の形で、いわば影像の形で残されていた。 そして、ゴルゴタの秘蹟後の紀元後四世紀に、別の出来事を通して、いわば秘儀の本質の廃墟のなかでもなお残存していた叡智を見ることができる。この叡智を、背教者ユリアヌス(ユリアヌス・アポスタータ[Julianus Apostata])(1)に見ることができる。(1)背教者ユリアヌス:フラヴィウス・クラウディウス・ユリアヌス Flavius Claudius Julianus、361年から363年までローマ皇帝、キリスト教に対する背教者[von den Christen Apostata, der Abtruerninige]と呼ばれた。1917年4月19日ベルリンでの講義(『ゴルゴタの秘蹟の認識のための礎石』GA175所収)を参照のこと。 フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8C%E3%82%B9 ローマ皇帝、背教者ユリアヌスは、紀元後4世紀に、エレウシスの秘儀での最後の導師により、秘儀参入できた秘儀に参入した。つまり、背教者ユリアヌスは、古代東洋の神々の秘密のなかで、紀元後4世紀にエレウシスでまだ体験できた叡智を体験した。 エレウシス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%82%B9 人智学徒は、以上のように、ある時代の出発点に、エフェソス神殿の火災消失を置く。エフェソスの火災の日はアレクサンダー大王の誕生日にあたる。この時代の終わり、つまり363年には、背教者ユリアヌスの命日があり、西洋から彼方のアジア(ペルシャ)での、背教者ユリアヌスの非業の死がある。 従って、この時代の中央にゴルゴタの秘蹟がある、という結論に達する。 ここで、たった今、区分した時代は、人類の全進化史のなかでは、本質的にどのように見えるか?という問いを再度確認しておく。 すると今、まさに奇妙な事実を前にする。人類の進化を、この時代の過去にまで遡って見通すなら、現代の観点とは異なる、何か別の類似からくる観点を持ち出さなければならない。ただ、現代においては、通常このような類似から、関連づけることはない。 著書『神智学』においては、古代の出来事を理解するに際し、考慮すべき様々な世界を示す必要があったが、つまり、その様々な世界とは、(我々の住む)物質界、そして、物質界に境を接する中継的世界、いわゆる魂界、そして人間の最高部だけが参入できる世界の霊界(霊の国)である。 そして、現在の人間が、死と新たな誕生(転生)との間に経験する霊界の独自の特性を度外視し、霊界の普遍的な特性に着目するなら、次のような結論に到達する。 つまり、この霊界の理解には、現代人が自身の魂の状態を方向づけしなおす必要があるのと同じように、ゴルゴタの秘蹟の時点より過去の向こう側にある出来事を理解するには、現代人の魂の状態を方向づけしなおさなければならない。 (物質界から、霊界へと観点を180度変換しないといけない。) 今日の物質界に適用できる概念やイメージ(意識)で、エフェソスの火災の背後にある存在を理解できる等と思ってはならない。 ゴルゴダの秘蹟以前には、別の概念やイメージ(意識)を育成する必要があり、現代人が呼吸というプロセスにおいて外の空気と関わり合っているのと同様に、魂を通じて絶えず神々と関わり合っている事実を、まだ知っていた古代人たちを見通せる(洞察できる)ような概念やイメージが必要になる。 すると、いわば地上の神界というべき地上にある霊界(霊の国)を見る必要がある。なぜなら、物質界(的な観点)は、霊界に対しては何の役にも立たないからである。 次に、キリスト(ゴルゴダの秘蹟)より前の紀元前356年から、キリスト(ゴルゴダの秘蹟)より後の紀元後363年までの中間期がくる。 さて、それでは、この中間期の現代へと向かう、こちら側には何があるのか? 中間期のこちら側には、古代の人類が、古代東洋の世界から、古代ギリシア世界を経てローマ帝国へと進んで行ったのと、ちょうど同じような概念において(上図参照)、古代アジアや古代ヨーロッパに向かって、現代の人類が培ってきた世界がある。 というのも、中世のなかの数世紀を通じて、現代に至るまで、発達してきた文明は、秘儀の本質というべき内容を度外視すれば、概念やイメージ(意識)から人間が育成し得る外的な(物質的な)知性を基礎として形成し、展開してきた文明だからである。 古代ギリシアでは、すでにヘロドトス以来、来るべき文明が準備されてきた。ヘロドトスは歴史の事実を外(物質)的な形で記述し、霊的な存在にはアプローチできず、せいぜい極めて不十分にアプローチしただけだった。 (シュタイナーによると、ローマ帝国はギリシア時代に既に準備されていたという。) この(物質的な)文明は益々一層(歪に)形作られていく。しかし、古代ギリシアには、霊的な生活を思い出させた神々の影像の息吹が、僅かに残っていた。 古代ギリシアとは対照的に、古代ローマでは、古代ギリシアの魂の状態とは全く違う形で、現代の人類に親和性のある魂の状態を獲得する時代がはじまった。 (古代の精神文化ではなく、新しい物質文明獲得の歴史がローマからはじまった、といえる。) 背教者ユリアヌスのような人物だけが、古(いにしえ)の世界への抑えがたい憧れを感じ取り、そして、実際に、彼は、ある種の敬虔さから、エレウシスの秘儀への参入を受け入れる。 しかし、彼がエレウシスで得た叡智には、もはや(古代の文明を見通せる)認識力は何もなかった。つまり、彼は、古代東洋の秘儀の本質として残る伝統を、もはや魂の内部(精神)から完全に理解できない世界の出身であった。