ネット情報の活用法 その1534
現代のお笑いの天才とよばれる、三谷幸喜氏のインタビューを見ていて、「笑い」とは何かと考えてみたくなった。 三谷氏によると、日本の笑いが世界一らしい、というか、「日本の笑いが世界一」と言っているその存在自体も、お笑いでもある。つまり演出である。 理解困難な存在に出くわすと、人は笑うしかなくなる。 それを逆説的にいえば、日本は島国で、古くから、他国からの流れ者が多く、色々理解し難い存在に出会う機会に恵まれた、というわけである。 シュタイナーの人智学では、笑いは、人間の魂が、物質界で理解困難な存在に出会うと、理解したくないために、起こる魂の肉体に対する表現で、その存在を理解するエネルギーを消耗しない方便であるという。 そういうわけで、その話の基になった講義を以下に要約して載せる。 ★ ★ ★ルドルフ・シュタイナー「魂の運動-経験」(第二巻)(GA59)佐々木義之 訳の要約第2講「笑いと涙」(1910年2月3日) 人智学の連続講義の中でも、今日のテーマは重要にみえないかもしれない。しかし、人間を、高次の世界に導くような考察においては、日常生活の細事を省くのは間違いである。 永遠の生命や、高次の魂、人間の進化についての大いなる疑問を講義で取り上げると、受講者は、容易に満足し、今日、考察するような細事に手をつけない。しかし、精神世界の扉を開くには、今日述べる細事、身近な現象から、未解明な現象へと一歩ずつ着実に前進するのが健全であるのを確信するはずである。 更に言えば、偉人たちが、笑いと涙を、粗末にしなかった多くの例が挙げられる。例えば、東洋文化の源流として、遥かに重要で、偉大で有名な「ゾロアスターの笑い(スマイル)」と呼ばれた魂の働きがある。 これはすなわち、過去の伝説であり、将来、人類の進化のなかで到達される意識(この意識は、現代の個人の意識よりも遥かに賢く、高次だが)のことで、この偉大なる高次の魂が、笑いながら、この世にやってきた、というのが特に意義深い。 そして、世界史の深い伝統的な解釈から、この笑いによって、この世の善良な生命体が狂喜する一方で、この地の邪悪な敵対者たちが、逃げ出した、のがわかっている。 いまもし、この伝説から、偉大な天才ゲーテの作品に目を移すなら、ファウストという人物像が思い浮かぶ。絶望したファウストが、今にも自殺しようとするとき、イースターの鐘の音が響き、「涙が湧き出てきて、地球が、再び、私を抱く。」という叫び、が聞こえる。 ゲーテは、この涙を、ファウストが絶望を経験した後、この世に再び戻る道を見つけた、魂の状態を、象徴として描いている。 このように考えると、笑いと涙が、高次の存在とつながっているのが理解できる。精神の本性、つまり高次の世界を直接考える方が、この物質界の身近な現象の背後に隠れる精神を追求するより楽だが、笑いと涙のなかにこそ、魂の高次の特徴(特に人間の精神)がみつけられる。 笑いと涙を、人間のなかの魂の働きと見なせなければ、理解できない。人間を、魂の存在として考えるだけでなく、その働きとつながる高次の存在も理解する必要がある。 この目的のために、この冬の連続講義を行う。だから、人智学から見た、人間という存在について概観する。今回は、人間の笑いと涙を理解するための基礎を考察する。 人間を、人智学的な世界観、つまり全体から観察すれば、肉体を物質界と共有し、エーテル体、もしくは生命体を、植物界と共有し、そして、アストラル体を、動物界と共有しているのが見て取れる。 アストラル体は、苦楽、悲しみと喜び、恐れと驚き、そして、人間が起きてから寝るまでの間、魂の中に流れ込み、流れ出る、物質的現象と関わる、あらゆる思考を担う。 これらは、人間が担う永遠の3つの鞘であり、その中心には、人間という存在を、最高に創造した自我が生きている。自我は、魂の中心にあって、その3つの構成部である感覚魂、悟性魂、意識魂に働きかける。 そして、人智学では、いかに人間のなかで、自我が、その成就(完成)へと一歩ずつ着実に近づくために働いているか、を見てきた。 では、人間の魂内での、自我活動の基礎とは何なのか? それがどのように働くのか、いくつか例を見てみる。 いま自我、つまり人間の精神の中心が、外界で、何らかの対象、もしくは存在に出会うとする。その対象、もしくは存在に対し、無関心でいられない自我は、その出会いが、自分を喜ばすか、あるいは不機嫌にするか、によって何らかの反応を示し、なんらかを内的に体験する。 ある出来事に狂喜し、また深い悲しみへと落ち込むかもしれない。恐怖でしり込みし、また、その出来事の主人公を、愛情を込め見つめ、抱きしめるかもしれない。そして自我は、それに関係するものを理解するか、もしくは理解しない、という経験もできる。 このように、起きてから寝るまでの間、自我の活動について、人智学的観察から、自我が、外界と、調和しようとしているのを見て取れる。 もし何らかの存在が、自らを喜ばし、温かさを感じさせたなら、その対象と絆を織りなし、結びつく。人間が、地球の環境全体について行っているのは、このようなことである。 起きている時間全体を通じて、人間は、魂のなかで、自我と、外界との間に、調和を創り出す作業を行っている。外界の対象や存在を通してやって来る経験は、魂の中で反射されるが、同時に、自我の住居の3つの構成体だけでなく、アストラル体、エーテル体、そして肉体にも働きかける。 自我と、外界の対象との間に確立される関係が、アストラル体の感情をかき立て、エーテル体の流れと動きを正すだけでなく、肉体にも影響を及ぼす、いくつかの例を、前回の講義などで既に挙げた。 恐ろしいものが近づいて来て、青くならない人はいるだろうか? それは、自我と、その脅かす存在との絆が、肉体に作用し、青くなるように血流に影響を与えている、のである。 逆に、恥ずかしさで顔を赤らめる現象も先に触れた。誰かとの関係について、しばらく身を隠していたい、と感じると、血が顔に上っていく。 以上の2つの例によって、自我と外界との関係から、一定の影響が血流に生じるのが分かる。自我がアストラル体、エーテル体、そして肉体の中で、いかに自分を表現するか、について、他にも多くの例が挙げられる。 自我は、環境との間に調和、もしくはある一定の関係を求め、それが何らかの結果をもたらす。 ある対象と正しい関係がもてた、と自我が感じた場合、たとえ、その対象に恐れを抱く正当な理由(後に、その理由が白日の下で明らかになっても)があっても、その対象を含む環境とは調和的な関係にある、と感じる。 自我が外界の中で、その事物の理解に最終的に成功するなら、その環境と調和の中にある、と感じ、そのとき自我は、その事物との一体性を、あたかも肉体から抜け出して、その中に自らを浸しているように感じ、正しい関係にあるように感じる。 言い換えれば、それは自我が、他の人々と愛情に満ちた関係の中で生き、周囲との調和の中で、幸せと満足を感じる状態にある、といえる。これら満足の感情は、次いでアストラル体、そしてエーテル体の中に移行する。 しかしながら、自我がこの調和の確立に失敗し、そのため、ある意味で、「通常」、と呼べる状態に達しない場合、それは調和とは難しい状況にある自我の状態が見出せる。 つまり、自我が、何か理解できない対象、もしくは存在に出会う、つまり、その存在と調和的な関係を見つけようと努力するがうまく行かず、はっきりとした態度を取らなければならない場合である。 例えば、自我が、外界で、その本性の中に浸透するほどの価値がないように見え、理解し難い存在、つまり、理解するのに、あまりにも多くの知識を必要とする存在に出会う場合である。 そのような場合、自分を、その対象から、自由にしておくために、一種の障壁をつくる。その対象から、自我の調和力を逸らすために、それを意識すればするほど、自意識を高めるようになる。そのとき、自我へとやって来る感情が、解放の感情である。 この感情が生じるとき、人智学的な観察では、自我が、アストラル体を、その環境、もしくは存在が与える印象から、引き揚げ、遠ざける、のが見える。勿論、目を閉じたり、耳を塞いだりしなければ、その印象は、肉体にも影響を与えるだろう。 肉体は、アストラル体に比べて、自我の直接なコントロール下にないため、代わりに、アストラル体を、肉体から引き揚げ、外界からの印象に曝されないように解放する。もし、そうしなければ、肉体に関わってしまい、エネルギーを消耗してしまう。 その解放は、人智学的な観察では、アストラル体の膨張のように見える。 すなわち、それは、その感情の解放の瞬間に、膨張し、拡張する。自我は、外界のある存在よりも、上位に引き上げるとき、アストラル体を風船のように膨らまし、外界との通常の絆の緊張を緩める。 そうすることで、顔をそむけたいと思っている存在との絆から解放され、自由になる。自我はいわば自分の中に引きこもり、外界のその状況全体から自分を超越させる。アストラル体の中で生じる全ては、肉体でも表現されるが、このアストラル体の膨張の、肉体的な表現が笑いなのである。 したがって、この笑いという表情は、周囲で起こる出来事から自分を超越させているのを示すが、そうする理由は、自らの理解力を、その対象に適用したくないからで、自我の立場から見て、それが正しいからである。 だから、理解できないものは何であれ、アストラル体に膨張をもたらし、よって笑いを生じさせるのである。 新聞の風刺コラムで、著名人を巨大な頭と小さな体で描写するが、それはその時代の、この人物の重要性を、滑稽に表現することで、理解が困難な存在として、同時に表現しているのである。 このような表現に、意味を見つけるのは無駄で、巨大な頭と小さな体を関係づける法則などなく、理性を適用するのは、エネルギーと感情の無駄使い、である。 そのような表現が受け入れられるのは、アストラル体を膨張させ、通常の、肉体に与える印象の絆から、自分を上位に引き上げ、膨張した中で、自我を自由にし、笑いを起こすからである。 というのも、自我が経験するものは、最初にアストラル体に手渡され、その反応による、表情が、笑い、だからである。 (以上は笑いの話、以下の涙は、次回に譲りたい。)