ネット情報の活用法 その1752
大掃除と、放送大学の講義にハマってしまって、なかなかブログを書いている時間がとれなくなっているが、なんとか久しぶりに書く。巷は裏金議員が開き直り、政治の大掃除半ばで、中断を余儀なくされているが、問題を先送りすればするほど、この国の混迷が深まっていくだけにすぎない!番組表 | 放送大学 (ouj.ac.jp)このままでいくと、シュタイナーの予言などで話題の、この国の滅亡もカウントダウンに入ってきているような、来年辺りに、現実的になってきているような気が、元旦からの能登震災などや一連の飛行機事故などで、なんとなく明らかになりつつあるほどの、モラルハザードのこの国への侵食ぶりでもある。巷の低レベルな政治、カネのかかる政治家たちにつきあっているほど余裕はないので、とにかく、大掃除が必要な事に変わりはなく、政治家たちのやる気次第で、国民ができることは、裏金議員らの選挙にカネがかかるという名目の買収集票マシンによる組織票の選挙に負けないように、モラルを問いかけ、世論を活気するしかないので、神秘学の学びを続ける。このブログでも何度も紹介したが、子どものとき、アニメ一休さんが大人気で、野球漫画でも、一球さんができたぐらいで、差し詰め、いまの大谷選手のような存在だったかもしれない。その一休さんに、どちて坊やという、なんでも質問してくる面倒くさいキャラが登場していたのが印象的だった。一休さん - Wikipedia一球さん - Wikipediaどちて坊や 知ってます? | 【みきさん家に遊びに来ない?】大阪高槻⭐︎インナーチャイルドカード・アロマ・サンキャッチャー (ameblo.jp)どちて坊やは、将棋の千日手のような存在で、例えば、哲学的な話をしていると、たまに、どちて坊やみたいな、あれこれと疑問をぶつけてくる人物に出くわすが、そのような人は、疑問をもつことに疑問をもつべきで、なんでも他人に解決や答えを求める、その無責任な姿勢に疑問をもたないので、このような人に出くわすのは、事故に遭うようなものといえる。この、どちて坊やのような、自分の疑問を、自分で解決しようとしない人は、なぜ、人は、疑問をもつのか?を考える必要がある。思考力が足りないのはいうまでもないが。確かに、学問は、言葉の通り、問いの、疑問からはじまり、その疑問を解決する叡智を獲得する、学びであり、俗にいう、叡智の物真似といえるかもしれない。叡智とは、宇宙や自然の振る舞いや運行であり、プロセスである。逆説的にいえば、叡智が不足しているから、疑問が生じるわけでもある。だから、自分よりも叡智溢れる存在や出来事に出くわすと、驚きとともに、どうしたらそのような存在や出来事と調和できるのか? 自分とは、自分が見慣れた環境とは、どこかどう違うのか? と疑問が生まれるのである。頓智溢れる一休さんに、どちて坊やが出てくるように。つまり、未知な存在に遭遇し、驚きが生じるのは、叡智が不足しているからである。さて、前回は、現代人よりも古代ギリシアの哲学者が遥かに賢く、更には古代エジプト人のほうがより遥かに賢いのを紹介してきたが、それは健全な精神には健全な肉体が宿る、という格言からも明らかで、というのは、人間の肉体は、人間の精神からつくられ、人間の自我は、いわば肉体の画家だからである。人間は生まれたときには、親からの遺伝子を通じて、その肉体を見本として引き継ぐ、いわば画家のデッサンのモデルのようなものである。モデルに囚われたままだと、蛙の子は蛙と、親によく似る大人になるが、モデルを発展させて、自分なりのアレンジが加わると、親には似ない、鳶が鷹を産むというような、親とは異なる大人になる。つまり、現代物質科学からいえば、遺伝から自由になれる。つまり、それは人間の自我の自由性により、自我がどのくらい叡智を獲得したかによる。人智学では、自我が、前世からのカルマによる物欲を克服し、物質的な遺伝の束縛を解放し、叡智を獲得した状態を、霊我=マナスと呼び、そして、更にアストラル体にも、霊我を浸透させて、叡智を獲得した状態を、ブッディと呼び、そして、エーテル体にも、霊我を浸透させ、叡智を獲得した状態を、アートマと呼んでいる。現代人が、古代エジプト人よりも遥かに愚かなのは、健康が与えられるもの、と思っていることである。外見でさえも、異なっているのに、他の人の健康が、自分の健康とほとんど同じと思い込んでいる。叡智の獲得状況や、知性も人それぞれなのに、健康だけは皆同じに与えられる、というのは、不公平にみえないだろうか? 唯物論に洗脳された物質科学では、肉体だけをもって健康を漠然と定義しているが、健康という言葉だけ独り歩きして、肝心の人生の目的はどうなのか?シュタイナーは、健康とは、何らかの人生の目的のために相応しい道具にすぎなく、健康のために健康になるのは、カネと同じで、金儲けのためにカネを稼ぐのと同じで、道具のために人生の目的を台無しにしては元も子もない、と説いている。カネも健康も、人生を豊かにする道具にすぎない。カネも健康も、人生の目的を叶える手段や道具にすぎない。だから、金儲けや健康そのものを追求するのは、人生を無駄に過ごし、カネや健康の奴隷に成り下がるだけなんである。古代エジプト人や古代ギリシアの哲学者よりも遥かに劣る現代人は、日々移り変わる物質界の雪崩のように押し寄せる物質的な情報操作により、この大事な原則の、健全な精神には健全な肉体が宿る、つまり自由な精神性を追求するのを忘れてしまっている。この原則を信じる者は、持てる者であり、健全な自由な精神を持てる者は益々富み、この精神を持たざる者は更に失っていくわけなんである。健康は与えられるものではなく、自分でつくっていくものなのである。人智学的にいうならば、外界からくる論争、闘争、戦争のような悲劇や苦悩を、自分の内面で調和させ、克服することで、叡智を獲得し、癒すことである。だから、叡智の獲得状態により、健康は異なる。自我の数だけ、健康の数はあるので、健康は皆同じではなく、内なる自我と、周囲の外界の環境との相互作用の平衡点、均衡点の違いほど存在する。だから、ある人には薬になるものが、他の人には毒になることがある。だから、例えば、エスキモーには肉食が健康の薬になるが、修行僧には肉食は毒になる。逆に、修行僧には草食が健康につながるが、エスキモーには毒で、下手すると死んでしまうわけなんである。要するに、体質の違いがあり、肉体は、自我の作品なので、絵具を変えてしまうと、作風も下手すると死んでしまうわけなんである。また例えば、一般の健康への観点からすれば、修行僧の草食や禁酒などは、苦行にみえるが、逆に、修行僧の健康への観点からすれば、肉食し、お酒を飲んでどんちゃん騒ぎをするほうが、苦行にみえるわけなんである。健康への観点は多種多様なので、人生の目的が肝要なんである。どのように生きるかで、健康も生活も変わっていくわけで、叡智を獲得したければ、それに相応しい健康や生活をつくっていく肉体の芸術家になる必要がある。叡智を獲得するための器となる、自我の最良の作品である健康となるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ ルドルフ・シュタイナー 真相から見た宇宙の進化 Die Evolution vom Gesichtspunkte des Wahrhaftigen (GA132) 第2講 太陽期における地球の内的側面 ベルリン 1911年11月7日 佐々木義之 訳 要約-------------------------------------------------------------------------------- 前回の講義から、「地球」の創造に先立つ3つの進化紀、つまり「土星」、「太陽」、「月」を記述するのが極めて困難なのがわかるだろう。このような記述には、宇宙の進化の中でも、現在から、遥かに遠く離れた未知の状態にまで至るのに、必要な概念と思考法をつくる必要があった。 既に述べたように、古「土星」紀や、それに続く「地球」紀についての記述も、例えば、「神秘学概論」での記述などで、網羅できるものではない。その本を書くに当たり、手近で身近なものから導出された図案などの衣装をかりて、その主題に着させることで、どうにか満足しなければならなかったが、それは、その本が大衆になるべく理解が可能で、かつ、ショッキングにならないように意図したからである。 「神秘学概論」の記述が、不正確というわけではなく、図案的にいえば、幻想、もしくはマーヤの中に浸されている。真実に貫き至るには、幻想の中を、努力しながら進む必要がある。例えば、古い「土星」は、現在の地、水、空気として知っている、4つの基本要素からではなく、熱(火)のみから成り立っている、と記述できる。 この記述が正しいのは、ある限度の範囲内である。同様に、空間に言及するには、常に図案的な漠然とした記述にならざるを得ないが、それは、前回の講義でも見てきたように、古「土星」上には、時間さえも存在しなかったからである。古「土星」上には、少なくとも、現代人の言葉の意味での空間もなかった。 しかし、一方では、その当時、初めて時間が存在するようになった。だから、自分を、古「土星」の文脈の中に置くには、空間のない状態の中にいることになる。だから、もし、この状況を思い描くなら、単なる、像に過ぎない、のを明確にしておく必要がある。 このように、もし、古「土星」に入れても、そこには、現在のような、気体として記述できるほど濃厚な実質は見つからない。そこにあるのは、温かさと、冷たさだけだっただろう。実際、空間のように、その一部から出たり、別の部分に入ったりなどはできなかった。そこにあるのは、より温かい状態とより冷たい状態の間を動く、感情だけである。