ネット情報の活用法 その1855
流離の風来坊の、ネットフーテンの寅さんをしていると、ドラマもみくみるが、ドラマはフィクションで、嘘のような本当の話を描くのが面白く、ドラマの主人公に、日常の生活体験から、どれだけ感情移入できるか、作者との価値観を共有できるかで、そのドラマの世界を身近に感じられてくる。アラ還暦世代の私は、70~80年代のアメリカのドラマの世界、超人ハルク、白バイ野郎ジョン&パンチ、チャーリーズエンジェル、アメリカンヒーローなどを、よくみていたせいで、当時のアメリカ人が思い描く未来志向の世界、例えば、映画バックトゥザフューチャーパート2で描かれた2015年の世界、その嘘のようなドラマの、空を飛ぶ自動車などの時代がくるのに憧れて、アメリカ旅行をしたのと同じように、現代のアニメオタクが、アニメドラマの世界に憧れて、アニメの聖地とされる秋葉原などに、インバウンドで来日する現象を説明できるかもしれない。バック・トゥ・ザ・フューチャー - Wikipediaバック・トゥ・ザ・フューチャー PART2 - Wikipedia人間が思い描いたドラマの世界が、将来花を咲かせ、現実化するのは、人間の創造力が無限大なのを、ある意味で示している。勿論、人間は良い事もすれば悪い事もするし、何度も失敗に陥っている。しかし、ドラマとして残されている限りは、人類の誰かが失敗を克服し、いずれ成功へと導き、成就するのは、人間が、神の子の証ともいえるかもしれない。だから、人間さえ、その気になれば、ドラマの世界は嘘のような本当の話になって、漫画から生まれたアニメの世界が、昭和の日本の日常生活を描きながら、その世界で暮らす人々が、未来志向を想い抱き、憧れとして、未来世界を先取りし、予測してきたように、ほとんどが非現実で嘘塗れのドラマの世界が、いずれ改善され、ホンモノになる可能性を秘めながら、現段階ではあり得ない現実を表現しながら、現実と非現実の狭間にある虚構の未完成さを一歩一歩努力しながら進んでいくのを、半ば理解すべきなのかもしれない。実は、この一回切りの物質界で生きる現実も、一種のドラマで、この現実っぽい嘘を、本当の話にしているのは、我々人間で、地球人なのである。我々地球人は、地球という舞台で、ドラマを演じている。この地球で地球人は沢山のドラマを演じているが、そのほとんどは、嘘のような本当の話にならずに、いまは、その大半が、本当のような嘘の未完成な話になっているだけなのである。一回のドラマが終われば、キャストが入れ替わるのが、フィクションの性質なのだが、なかには「男はつらいよ」のような例外もある。しかし、主人公の寅さん演じる渥美清氏は、寅さん役から脱却できずに、何を演じても寅さんといわれてしまう宿命を俳優人生で背負うようになった。寅さんのような作品から、一回切りの物質界での人生があまりにも現実に身近に感じるために、生まれ変わりについて、信じられない嘘の話のようにみえるかもしれない。生まれ変わりがあるのなら、失敗したと思った時点で、人生をやり直せばいい、と安易に考えるのを戒めるために、金持ちに生まれ変われるまで何度もやり直せばいい、と浅はかな考えに陥らないように、ローマは一日にして成らず、というように、一回切りの人生で為せることは非常に少ないのが、神智学から、実は嘘のような本当の話なのがわかっている。ローマは一日にして成らず - Wikipedia寅さんのような毎度同じ人格の金太郎飴のような、何度も恋しては振られてしまう、悲劇を喜劇にする昭和の典型のドラマは、一回切りの人生を表現するのには、いかにも現実的にみえるが、実は、本当のような嘘の話なのである。何度も振られ続ける人生から何を学ぶのか、が、人生の醍醐味で、寅さんという、昭和ドラマ代表の主人公へのアンチテーゼで、令和ドラマの、ブラッシュアップライフが出てきたのは、いかにも地球の、火星紀に対する水星紀のような、嘘のような本当の話とも考えられるわけなんである。ブラッシュアップライフ - Wikipedia寅さんのような一話完結失恋ドラマも人生の意味を理解する上で不可欠だが、それ以上に、寅さん以外の主人公がブラッシュアップライフのように何度も生まれ変わり失恋を乗り越える、生まれ変わりのドラマも不可欠なんである。ブラッシュアップライフというドラマでは、生まれ変わりを想定しているので、前世での失敗がやり直せ、例えば、昭和の寅さんの失恋もやり直せてしまうから、寅さんのキャラ設定が死んでしまう可能性もあるかもしれない。しかし、寅さんが寅さんでないまた別の寅さんも、ドラマの世界ではなく、現実の世界でみてみたいものである。仏陀の二人の弟子について面白い話が残っている。一人の弟子が、仏陀に、「お師匠さま、私が涅槃に達するまでどれくらいかかりますか?」と聞いたら、「十回生まれ変わったら」と答えたのを、その弟子はそんなにかかるのか、と思い悩んで泣いたという。次にもう一人の弟子が、仏陀に、「お師匠さま、私が涅槃に達するまでどれぐらいですか?」と聞いたら、仏陀は、「一万回生まれ変わったら」と答えたのを、その弟子は、そんなに少ないのかと、喜んで飛び上がったら、ついには涅槃に達してしまったという。この話の面白いのは、十回よりも一万回の方が覚醒意識での時間感覚では長く感じるのだが、潜在意識ではまた別の話で、涅槃、つまり神我一体の境地に達するのが、輪廻転生の回数の、分別知に依らないのを示している。要するに、お釈迦さんが説いたように、知識に束縛されずに、執着心を無くすかどうかで、一回切りの人生でも、自己と他者の区別がなくなれば、充分に自己実現可能なのである。また、執着心をなくせずに、自分が偉いと思い込んで、上下関係を強いれば、何度もその上下関係を入れ替えて輪廻転生を続けることになるわけなんである。ブラッシュアップライフが、人間が現世に生まれるのは徳を積むためで、自分と他者の関係の垣根をなくし、平等に正しく改めるというのは、神智学的観点からも正しいのだが、自分と他者の関係を、前世そのままのやり直しの関係から、生まれ直すところは若干異なる、といえる。同じドラマの配役を演じ直すというよりも、立場を入れ替えて、逆の配役を演じ直すといったほうが正しい。だから、過去の失敗を回避するというよりも、過去の失敗を通じて、互いの至らなさを理解するという方が正しい。どちらかが失敗の責任をとるのではなく、お互いが失敗を通じて、お互いの立場を変えて、失敗を改めて学び直すという感じかもしれない。そういう意味では、人智学により、現代人は大体、一万回の輪廻転生を続けているという。輪廻転生:死後の世界への旅 | 終活図書館悟りが進むと輪廻が減る - 日本テーラワーダ仏教協会人間の精神世界と死後の行方仏陀やキリストのように教師として、転生するのを除いて、現代人のほとんどは、一万回も失敗を互いに学び直しているのだから、通常なら、地球を卒業できてもいいのだが、現代人のほとんどは、落第者に近いというわけなんだろう。古代人の古代遺跡が素晴らしいのは、それをつくった人の霊魂が地球を卒業し、次の金星に進化舞台を移しているからである。そして、地球には、代わりに火星から、火星を卒業した人間の霊魂が地球に生まれてきているわけで、そのような人たちは、物欲が旺盛なわけである。恐らく、そのような火星をようやく卒業できた地球人が、火星に再び帰りたがっているのかもしれない。田舎者が田舎に帰りたがるのと同じである。現代人は、人類が唯一の知的生命体で、最先端の知性を担っていると思い込んで、いわば自画自賛の天狗になって、嘘をつき、人を騙したり、論争、闘争、戦争などをして、宇宙人はいない、と思い込んでいれるのは、神や宇宙人よりも知性が劣る、その何よりの証拠である。古代ギリシアの哲学者の名言の真意を読み解きさえすれば、現代人がいかに愚かなのがわかるはずである。現代人は自分の知性で自分を愚かにも閉じ込め縛っている、いわば知性に所有された奴隷なのである。知性がどこから来るのかも理解できていない。古ぼけた知性のガラクタを集めるしか能のないのは、論語読みの論語知らず、といえるだろう。論語読みの論語知らず - ウィクショナリー日本語版ぶっちゃけていうなら、現代人が知性を悪用しすぎて、あまりにも愚かなので、神や宇宙人が、地球人に存在を知られないように、見守っているのがわからないくらい、アホになってしまっているだけなんである。例えば、仏陀が八正道を説いたが、自分に正しく生きている坊主がいたら、現代が、末法の世になってはいないはずである。キリストが、金銭の奴隷になってはいけない、それでは何度も人生をやり直して、霊魂のゲヘナに陥って混沌のなかで身動きがとれなくなるぞ、と警告しているわけでもある。神や宇宙人が常に地球や人類を見守っていることを、古代人は説いているのを忘れてはならない。この国では、古くから、天知る地知る我知る子知る、と言われ、そして、老子は、天網恢恢疎にして漏らさず、と残している。天知る地知る我知る子知る - ウィクショナリー日本語版天網恢恢疎にして漏らさず - ウィクショナリー日本語版ネットフーテンの寅さんをしていると、数々の古代ギリシアの哲学者、当時の霊能者の名言に出逢う。現代人は唯物論からカリユガを経ているので、物質界に余りに執着しているので、霊魂が穢れて、権力で磨くのを忘れて、無秩序になって、闇に取り込まれ、鈍重な、乏しい灯となっているので、折角の霊能者の名言を霊魂に刻まずに、鈍感にも、素通りさせてしまっている。例えば、デモクリトスは次のような名言を残している。「幸せは持っているものに宿るのではない、金に宿るのでもない。幸せは魂に宿るのである」神智学から、この名言の意味を読み解くと、霊魂を磨く者が最大の幸福を得るわけで、持ち物は、それを磨く道具にすぎない、となる。だから、キリストは、霊魂を磨く者は、益々磨かれて、磨かない怠惰な者は、益々輝きが失われる、という名言の、「持つ者は益々富み、持たざる者は益々失われる。」を残したわけなんである。霊魂の輝きとは、神の存在を感知する能力である。人生に疲れた人へ。デモクリトスの名言「幸せは金に宿るのではない…」英語&和訳(偉人の言葉)(鈴木隆矢) - エキスパート - Yahoo!ニュースマタイ効果 - Wikipediaキリストが説く、「持つ」とは、徳を積むことで、それを天国の奥義と呼んでいる。徳を積むための、実践方法を世に伝えたのが、仏陀の八正道である。八正道を一言でいうなら、「所有概念をなくしなさい、分別知をなくしなさい、自分だけを特別視して、神から分離するな」という意味になるだろう。だから、現代人は、知性で自分を特別視し、神から分離し、知性の奴隷となって、偶像崇拝に陥り、挙句の果てに、支配欲から、金銭を崇拝し、霊魂を穢しているのである。八正道 - Wikipedia本来の、「持つ」とは、霊魂は皆、神から生まれた神の一分枝であるから、分け隔てることなく、常に正しく神のありのままの正しい表現体としなさい、という意味になる。神という一つの主になって、愛を体現しなさい、ということなのである。早い話、全体の調和、バランスを考えて行動しなさいというわけで、仏陀は慈悲と呼んでいる。苦は何から生まれるかといえば、全体の永遠でないもの、部分的で、一時的な、束の間の快楽に溺れることから、生まれるわけで、それは、神から分かれて、自分を一時的に分離し、自分を崇めて、神と同等かのように錯覚することにある。自分を神のように権威化する事から生まれる。それは悪魔の所望だからで、独裁者などは、自分を崇めるように強いるわけで、だから、イスラム教などでは、偶像崇拝を禁止して、絶えず、自分が神の一分枝であるのを自覚させるわけなんである。何より、愛というのは永遠なるもので、神の愛こそ完全無欠で、憎しみの入る余地がないものである。だから一時的な、現世だけの快楽は、執着で、不完全の、ヘラクレイトスが説いた、万物は流転する、万物流転則に反するわけで、俗に言えば、不倫はニセモノの欲望でしかないわけなんである。名誉欲や虚栄心の、一時的な快楽と欲望とを、永遠のホンモノの慈悲の愛と、混同するのは、執着心の為せる業と、仏陀は喝破した。自分を正しく育てる方法が、八正道で、神との隔たりをなくすことだから、そのまま天国に導かれる。キリストならどうするか、神ならどう愛するか、常に自我の奥にある全体像を、考えて行うべきである。上に紹介したサイトには、幸福に生きるために、他にも名言が挙げられている。「私たちは自分にあるものについてはほとんど考えないが、自分にないものについてはいつも考えている」アルトゥル・ショーペンハウアー(ドイツの哲学者)「期待はあらゆる苦悩の元である」ウィリアム・シェイクスピア(イギリスの劇作家)「いくら悩んでも明日から悲しみが消えることはない。今日から強さが消えるだけである」コーリー・テン・ブーム(オランダの時計職人)これらの名言は、仏陀の説いた仏教から、苦や苦悩の悩み全てが、現世に快楽を求める執着心に端を発している言い換えなのがわかる。 自分が何者なのか? なぜこの世に生まれてきたのか? 人と比較する分別知をなぜ求めるのか? 全体から見れば、あなたがあなたであることで、わたしとのバランスが、調和がとれているわけなんである。だから互いに愛し合うように、神の思し召しで、天の配剤なのである。人智学的にいうなら、人間の進化の全過程は、人間だけのために存在しているのではなく、全宇宙の神霊の働きを開示するために存在している、というべきだろう。現代人は、自分を見失っているために、自分のなかにある、自分を成り立たせている天国、つまり幸福感にも気づけないでいる。ありのままの自分を愛せないから、自分に条件をつけて、その条件を知性として、知性の奴隷と化している。もっと金持ちでなければ、もっとルックスがよくなければ、もっと頭がよくなければ、といって、自分を奴隷のように酷使している。以下のニーチェの名言などは、現代人の知性故の悩みを端的に表現している。人生に悩んでいる人へ。ニーチェの名言「生きる理由を持つ者は…」英語&和訳(偉人の言葉)(鈴木隆矢) - エキスパート - Yahoo!ニュース「生きる理由を持つ者は、どんな生き方にも耐えることができる」フリードリヒ・ニーチェ(ドイツの哲学者)このニーチェの言葉は、「生きる意味を理解するために、人間は生きる。」という意味に言い換えられる。もっとポジティヴに言い換えるなら、「生きる喜びを感じるために、人間は生きる。」という感じになるかもしれないが、以前、紹介した、「男はつらいよ」の寅さんの、「なぜ生きるかって? 生きていて良かったな、と思うことが時々あるじゃない、そのために生きているんじゃないの」というセリフを哲学的に言い換えたようにも思える。上のサイトに紹介されている他の名言も、人生の苦が執着心から生まれるのがわかる。「人生は近くで見ると悲劇だが遠くから見れば喜劇である」チャールズ・チャップリン(イギリス出身の喜劇俳優)「お金が人を幸せにすると思っている人たちは皆お金を持っていない」デヴィッド・ゲフィン(アメリカの映画プロデューサー)「充実した一日が安らかな睡眠をもたらすように、充実した人生は安らかな死をもたらす」レオナルド・ダ・ヴィンチ(イタリアのルネサンス期を代表する芸術家)チャップリンの名言は、「人生で何かを失うのは悲劇かもしれないが、一時的な快楽から解放されたと思えば、喜劇で、魂が磨かれる。」と言い換えられるし、ゲフィンのは「おカネをもてばもつほど、おカネの奴隷となり、魂が穢れる。」となるし、ダヴィンチのは、「自分らしく生きた人生には、悔いがなく、執着心もない。」となるだろう。このような名言から、人生から自分を学び、自分を生かすために、自分の執着心を拭い去り、霊魂を磨く、のが重要なのがわかる。霊魂を磨き、徳を積むことで、自分の霊魂のなかに、宇宙人や神の訪問を宿すことができるわけなんである。これは量子力学でも明らかで、我々人類は、宇宙人や神の意識をそのまま波動として潜在意識からは表現できないが、量子として、覚醒意識の知識で、ハイゼンベルグの不確定性関係を使ったシュレディンガーの波動関数の確率波で、表現できるのである。しかし、それは前回紹介したように、ダークマターやダークエネルギーを含む全体の、5%での知性の表現体でしかない。さて、前回は、タレスの名言、万物の根源は水であるから、人類が神から生まれた宇宙人の一分枝で、徳を積み、霊魂を高めるのが、地球人の、神から与えられた役割で、有名なメーソンのシンボルの、ピラミッドの目が、人類が神から生まれた、バランスの三位一体の自我の持ち主の証なのを紹介したが、仏陀が仏教の八正道を説くまでの、ヨーガ哲学では、アカシャ(虚空)を生み出す、母なる宇宙の海メムに、到達する行法を説いていた。恐らく、八正道とヨーガ哲学が組み合わさって、サマディーの禅の三昧になったのかもしれない。三昧とは、キリストが説いた、天国の奥義なのである。三昧 - Wikipedia神智学で、ヨガの源流となった、古代インドのヨーガ哲学を解き明かすと、神経衰弱というカードゲームが、日本のカルタにもよく似ているが、記憶の面から、潜在意識と覚醒意識の違いに焦点を当てる遊びなのがわかってくる。恐らく百人一首などは、当初は陰陽師などの、いまでいうイメージトレーニング、昔の霊能力の開発のために用いられた訓練に由来するものかもしれない。 神経衰弱 (トランプゲーム) - Wikipediaかるた - Wikipedia百人一首 - Wikipedia人智学によれば、人間は、潜在意識では、経験する全体像を捉えているのだが、覚醒意識では、全体像を漠然としてしか思い出せずに、その一部の関心のある像しか記憶に残せないのがわかっている。フロイトが、意識が、無意識の氷山の一角にすぎない、と説いたのは有名である。例えば、ある商店街などの通りを歩いて、30分後に、何の店があって、何を売っていて、どんな通行人がいて、どんな客が何を買っていたのか、神経衰弱ゲームや、カルタのように、記憶の連想ゲームをすると、ほとんどの人が、自分の目に止まったモノ以外は忘れているだろう。このように、人間の知性とは、全体の大体5%ほどのモノでしかないのである。覚醒意識が、潜在意識の氷山の一角でしかないわけである。人間が、全体の約5%しかみていない覚醒意識で、判断しようとするのは、愚かな行為なのは明白で、せめて、10%まで、少しでも先見力を獲得しようとするのが、ヨガや禅の、仏教の八正道なのである。ヨガや禅や仏教の八正道は、キリストの天国の奥義に達するための、仏像の白毫で有名な、第3の目を開くための、分別知を捨て去る生き方を説くものである。白毫 - Wikipedia「如来」の仏像を知る Part1 - 慈雲寺新米庵主のおろおろ日記前回のピラミッドの目から、第3の目が、宇宙人や神と交信するための、松果体で、この松果体を通じて、神や宇宙人が、人間の自我を通じて、見守っているのである。だから、人間の自我は嘘をつけないように見抜かれているのである。くわばら、くわばら。