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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2005年10月03日
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カテゴリ:映画をノベル
 私は日本の侍を描かさせたら、藤沢周平か、山本周五郎かだと思っている。とくに最近は、藤沢周平作品が映画化されて、非常に出来がいいので、なんべんも観てしまった。それにくらべNHKでやられるドラマはあまりにも貧弱にすぎてイマイチだった。「蝉しぐれ」はまあまあだったが、「秘太刀馬の骨」ははっきりいってクサすぎで失敗だと思う。あれじゃ、格好だけ江戸期で、現代劇と全く同じである。水戸黄門、大岡越前レベルといわせてもらおう。

 NHKドラマの愚痴はともかくおいておいて、その秀逸だと思われる「たそがれ清兵衛」「隠し剣鬼の爪」についてノベル。

 「たそがれ清兵衛」は、やはり、藤沢周平作品の剣の凄みというか、剣のリアリティがよく出ていたように思える。俗に剣というと派手さや過剰な演出がみられがちだが(NHK、民放のが典型)、そのようなものがなく、いかにも、真剣という感じが全面に出ていたと思える。大体、一介の武芸者ならば、安易に剣を抜こうなどしないものである。やたらめったら剣をすぐ抜くところなど、どうみても軽薄さを免れない。抜くまでのプロセスの重厚さが藤沢作品の命なのである。なぜ、抜くに至ったか?、これが大切なのだ!。

 抜きたくないが、人を切りたくないが、できれば戦いたくないが、日本男子やむにやまれず、面目面子丸つぶれの究極に至った場合に、武士に二言なし、一旦、決めたらとことん闘う、闘うのならばその宿命に沿って、どこまでも清く創造的独創的に剣を練り挙げるという決心、そこまでのプロセスが重要なのである。藤沢作品には全編にこのようなやむにやまれぬ無常さが流れているのである。

 剣をとって闘ってたとえ勝ってみても、一抹の無常さが残る。この無常を墓場まで抱えて生きるというのが藤沢周平の描く因縁の武士の浪漫なのだと私は勝手に解釈している!。

 「隠し剣、鬼の爪」で、昔の剣友と戦う宿命になって、主人公が、師匠のところに行くと、師匠は、その宿命を予感していたようなセリフを吐く。あのところに藤沢作品の無常の集大成がある。人間関係の無常さがある。勝負とは何なのか?、因縁とは何なのか?、何の為に闘うのか?、それは剣を握ったときからの剣士の宿命である。そして、師匠は、伝説、伝統を弟子に伝授する。そこには勝負を超えた悲劇の無常を背負って行かねばならない男の性の掟、悲哀の伝授がある。

 男は弱いが、強く逞しく生きなければならない。そして、そのような性を克服するためにやさしさの許容量、器を広げないと生きられない。そこに剣があり、日々の精進がある。それこそ隠された男の浪漫、秘めた男の真の男根なのだ!。そして、戦いを終えた主人公は、そのような悲哀を抱え、母なる大地である女に母性を求め、その解消を望むのである。この世に男と女という生き物があるというのはいかに神が辛抱配慮の行き届いた存在かを暗示させるのである。男だけでは気が狂い新撰組のようになってしまうだろう。もし、そこに女の母性があれば、男はハタ(陽区ではない?)と現実に帰り得る舞台をもつ。

 藤沢作品には、古きよき男の美学と女性との一定の緊迫した緊張関係が描かれている。男は強くやさしく、女は純粋で美しく。礼にはじまり礼に終わる。そのような映画が日本の侍映画の真髄だと思える。

 次の映画「蝉しぐれ」もかなり期待してしまう今日この頃である。できたら、馬の骨も映画化してほしいぞ!。

 私的には、勝海舟あたりを映画化してほしいな!?。福沢なんてもんもあったが、どうみても、慶応の宣伝フィルムとしか思えなかったな!。幕末もんは駄作が多いが、三谷幸喜脚本の「竜馬と妻とその愛人」はよかった!。しかし、あくまでも喜劇なとこが…、少し残念か?。





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Last updated  2005年10月03日 23時31分16秒
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