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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2006年04月14日
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 人生を振り返ってみると、若いときは、理想を追い求めるあまりに、自分のことしか頭になかったといえるだろう。自分だけよければ、他人のことなんかどうでもいい。はっきりいえば、自分が常に正しいという単なる自惚れ屋にすぎなかった。そして、極端にいえば、自分だけが、人間で、他者は、その道具だと思っていた節もあったといえる。

 理想のなかに強さがあり、強ささえあれば、何でも叶うような錯覚に陥っていたといえるだろう。しかし、理想は、未熟な若さから来る単なる思い込みにすぎないことが、歳を取るにつれ、苦い経験を味わうことで、わかるようになった。

 そして、それは自分の弱さからくるものであり、自信がないあまり、自分を常に正当化するための、単なる強がり、見せ掛けにすぎないこともわかってきた。

 人間は、自分の言う事がある程度通用すると、思い上がる傾向にある。それは、ホリエモンや、巷をにぎわせる占い師をみれば、わかるだろう。

 ホリエモンはその典型であり、単なる虚勢を張るやくざと変わりがない。弱い自分を常に正当化するために、大きく見せる必要があるために、宣伝活動をしているにすぎなかった。

 人間は皆人間という点で、本来、平等なのである。

 全ては人間ということで平等なのである。

 他をモノ扱いすることなど、単なる思いあがった傲慢にすぎない。

 必ず、その、報いを受ける人生になるだろう。

 私は、若いときに、このような未熟な利益主義の間違いに陥っていたことを、深く反省し、その機会を与えてくれた神に深く感謝したい。

 この世は虚偽と錯誤に満ち溢れている。だからこそ、日々の考えは正されていかねばならないのだろう。

 かって、古代インド人は、この世の全てはマーヤー(幻想)から成っていると自覚していた。

 マーヤーを信じてはならない。マーヤーを糧として真実を見い出すべきなのだ!

 断じて、他をモノ扱いしてはならない。皆、人間なのだから。

 人間にはこころがある。いかに科学者がその存在を否定しようが、あるものはあるのだ!

 科学という実証主義、科学をした人間が、科学をしない人間よりも優れていることなど、ありえることだろうか?

 たとえ百歩譲って、真実を知っている人間だとしても、その人間が、真実を知らない人間を、モノ扱いしてよいということは、断じて正当化されないだろう。

 それが正当化されるとしたら、そこに愛が存在するかどうかであろう。

 いま、人間を人間として、愛情のこもった人間関係を構築すること、至極当たり前のことが求められている。

 人間は皆平等なのだ!

 損益や、経済的理由で差別することなど、宇宙では赦されない行為なのであろう。

 人間はあまりにも科学的になりすぎ、あまりにも物質的に贅沢になりすぎ、人間という大事な存在を、忘れてしまっているような気がしてならない。

 科学がそれほど進んでいるというならば、未開民族の暮らしと、都市生活とどっちが幸せなのか、自ずとその答えは明らかだろう。実際は、都市生活者の方が、便利な生活に慣れすぎて、それに依存しすぎて、独立体という意味で、病んでいることは明らかだろう。

 自分の理想のなかに、私利私欲がないか充分に吟味する必要がある。非常な苦難を味わってみて、はじめて理想が見い出される。理想を言葉なんかで表すことなどできない。

 その人の人生こそ理想であり、死んだときにはじめてわかるものといえるだろう。

 我々は皆、平等な人間なのである。人間は皆、平等に死ぬ存在なのである。

 最大の喜劇であり悲劇なのは、人間は皆自分が死ぬ存在であることを、日々生活するなかで、忘れていることである。人生には終わりがあり、それが死であるという単純なことを忘れてしまっている。

 科学者がいかに立派な仮説を実証しようと、その科学者は、死ぬ存在なのだ!

 立派な仮説が生き残ったとしても、実証主義で、それを証明した科学者は死によって、宇宙から消えてしまう存在には変わりがない。

 天才アインシュタインも、お馬鹿ブッシュも、宇宙から消えてしまう死ぬ存在という実証主義の意味で平等である。

 それにしても、昔の人はよくいったものである。器量という言葉は、それを的確に表現しているように思える。自分しか考えられない人間は、小さい器量で、小人。要するに我儘利己主義人間で、社会的に信用するに足らない人間だ!結婚して、家族としてやっていける者で、ようやく、一人前。そして、大きな組織で、他の世話もしっかりとできて、それなりの地位に就ける。国家を背負うなぞは、大人物にして初めて可能な大人である。

 しかし、昨今の政治をみたら、独身が総理大臣で、全く我儘勝手に自己宣伝に埋没している有様。これで、国家が滅亡しないのが不思議といえるだろう。よほど日本民族を支えている神々(霊)の恩恵が篤いのだろう。しかし、それももはや危ういように思える。

 あんな総理大臣にして、人口や人心が荒み、若者に夢がないことがその証であろう。悪いが、日本民族はどうみても滅ぶことは確かだと思われる。いや、もう既に滅んで死んでいるのだが、それに気がついていないだけだ!だって英語は巷に溢れているし、アメリカの退廃文化や、物質主義、セレブなどという人種差別主義が生じていることがその証であろう。

 遊んでいるにすぎない利己主義のスポーツ選手を褒めちぎる文化のどこが素晴らしいといえるだろうか?いかにスポーツが進歩しようと、所詮、パフォーマンスの目立とう精神であり、人命を救うことや自己犠牲の精神を生じることはできない。それは単なる利益誘導でしかないからである。

 一時の感動を与えようとも、所詮、数字勘定でしかない。目立つか目立たないかでしかない。目立たなくても、重要な仕事こそが、本当に大切なものなのである。目立てばそれだけで、充分恩恵にありつけているのである。贅沢な暮らしができれば、それだけで、単なる傲慢を生んでいるにすぎない。

 とどのつまり、ただ、楽がしたいにすぎない。快楽主義とどこが異なるのか?

 人生において、自分がどれだけ、他の犠牲になっているか、愛を与えているかが、真の意味であろう。わざわざ、苦行主義を肯定するでもないが、あのお釈迦さまだって一度は苦行を行ったからこそ、悟れたのである。苦行を通らずして、悟ることもないだろうし、苦行のみでもダメなのである。

 苦あれば楽在り、そういうことなのであろう。






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Last updated  2006年04月15日 01時37分58秒
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