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シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2007年01月27日
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カテゴリ:神秘体験空間
 神秘学を学ぶと、人生の目的は、ただ人が与えられた人生をありのまま生きるのみであるということがわかる。

 そう、人生の目的は、自分に与えられた人生をただ生きることなのだという。

 鈴木大拙という禅の学者に、ある記者が、「水の中にいても、溺れない方法は何か」という禅問答を教えられ、何遍考えてもみても、結局、わからずに、とうとうその答えを聞いたときの、その答えは、「それは溺れることだ」という逸話がある。

 つまり、この禅問答は、水を、人生に、つまり大きな運命、いわゆる宿命に喩えているわけである。

 世の中は、まるで、自分の思い通りにはいかない。考えてみれば、自分と異なる人間が、何億人と同時に存在し、たとえ血縁関係の家族のなかといっても、数人のなかで、自分1人の意見を押し通すことは、困難だろう。

 血縁関係の家族のなかでも、自分の思い通りに生活を送ることは困難なのである。人が3人集まれば、法が必要になることはいうまでもなく、更に人数が多くなれば法を超える道徳やモラルが確立していなければ、たちまち、衝突し、戦いのうちに、人類は滅亡していたに違いないだろう。

 まして国家という大人数の人間社会には、伝統的文化や社会規律があり、そのようななかに、いかに世の中が変わったといっても、自ら独自の意見を押し通すのは、とどのつまり、水の中で、必死に独力で泳ごうとして、もがくもので、たちまち、周囲の水の抵抗にあい、息ももたなくなるであろう。

 神秘学によると、古代人は、人生の意味、目的を、現代人とは比べものにならないほど、非常に熟知していたことが、命名法からわかるという。

 古代人は、人間は、霊界からこの世にくることを知っていて、子供の名は、霊界にちなんで名づけるべきだと心掛けていたという。古代人がしばしば、天使の名や、預言者の名をつけるのは、その時代の神々の意向を反映し、その担い手、手足となって働くことを意味したという。

 つまり、古代人は、自らの人生を、神々によって与えられたものだと悟っていたという。

 そして、古代人は、神々によって与えられたこの世の乗り物である、肉体が、人生のいわば、教科書のようなものであることを理解していたというのである。
 
 だから、古代人は、人生をそのまま受け入れることを基本としたという。

 神々によって、与えられた人生を不平、不満もいわず、ただ感謝して、黙々と全力を注いで生き抜いたのである。

 古代人にとって、この世は、所詮、物質的に変えられるものではなく、霊的(精神的)に感化していくべきものと捉えていたのである。古代人の使命は、この世を、神々による、霊化(精神化)の世界につくりかえて、神々が降りてくるのに相応しい、つまり神々の国につくりかえようと思ったのであるという。

 古代エジプト人は、神々により与えられた叡智、つまり霊化(精神化)した世界、いわゆる幾何学を元に、世界をつくりかえようとしたのである。例えば、全くの直線は、この物質世界には存在しない。どんな直線や円も、細かくみていけば、歪みや微妙な曲線がみられるだろう。そのような真の直線や円は、神々から与えられた、人間の精神(霊)のなかにあり、その精神を元にして、この世界を幾何学からなる世界につくりかえたいと願い、実践したのである。

 それらの願いが、ピラミッド等の古代遺跡として後に残されたのである。

 古代インド人は、この世は幻(マーヤ)で、真の世界は霊界にあると思い、常に瞑想し、精神(心)の世界を平静、平安にすることを基本にしていた。物質世界を考えることは穢れることだと思ったのである。そして、この世にいながら、あの世を夢見た。古代インド人は、穢れることを恐れ、頻繁に沐浴、水に身体を浸したのである。

 古代インド人は、人間という存在は、神々の大河(大きな海)のなかの表面の存在であることを熟知していたと考えられる。古代インド人は、いわば魚類の文化ともいえ、この世の地にあがることを穢れとして、畏れたのである。

 この古代インド人の消極的態度とは異なり、古代ペルシャ人は、この世の地を悪と捉え、人間は、この世の地の悪を、積極的に善に変えていくべき、神の使者として考えたのである。古代ペルシャ人は、神々の教え、叡智を積極的に広めていこうと思ったのである。古代ペルシャ人は、魚類から、両生類の文化にかわりつつあったといえる。

 そして、古代エジプト人は、神々の叡智から、この世を作り変えようと真剣に思ったのである。両生類から、爬虫類の文化といえるだろう。エジプトのこの文化の象徴が、爬虫類で表されるのは、このことを神秘学的に意味しているという。

 つまり、どの時代にも、人間の上にいる天使の存在の意向が反映しているというのである。人間は、つまり、神々の一部なのである。

 神秘学では、実は、人間は神々の目であるという。ピラミッドの叡智の目の意味は、人類の存在を意味しているのある。古代の叡智の目であった人類の指導者は、秘儀参入者といわれるが、しばしば目や蛇で象徴化されたのは、爬虫類の文化であるのと、神々の目を意味するものであったと考えられる。そして、神々の目は、もう1つあり、それは月なのである。 

 西遊記という物語は、このような人間の叡智と、仏教の極意をも巧く伝えているようにみえる。

 孫悟空とは、人類の存在そのものを示す。お釈迦さまは神々の存在で、孫悟空は、お釈迦さまの手の上を出ることはできない。お釈迦さまの手とは、人間の人生の素であるカルマのことを表すようである。

 カルマは、前世の不道徳な行いにより、次世で課される宿題のようなものである。つまり、この世で、ある程度の道徳的行為を実践しなかった者は、その程度により、落第させられるのである。それは道徳的法則こそ、宇宙の存在を保っているバランス、調和の法則なのであり、万人が幸福に暮らすいわば法律といえるものだから、当たり前の原則といえる。

 天使たちは、人間の身近にいて、自らの意向を示しながら、その実践ぶりを観察しているのである。そして、道徳評価に吟味して、いわば、通知表を随時作成しているともいえる。それが、個人のアカシャ記録といわれるものである。この世に現れなくても、しっかりと天使により、逐一神々に報告されているのである。なぜなら、人間は、神々の目でもあるからである。

 人間は、神々の目でもあるので、不浄、不義、虚偽のものであってはならない。神々の存在たる真善美を正確に観察しなければならない。天使は、その調整役といえるだろう。

 そう、だから、天使や人類の身近な指導者が、孫悟空の師である三蔵法師なのである。

 孫悟空が猿なのは、低次元の自我を表している。恐らく、いまの猿が、アトランティス時代の動物人間の堕落した子孫であることを意味しているのだろう。人類も堕落すると、猿になるぞという警告でもある。

 三蔵法師がお経を唱えると、孫悟空の頭に頭痛が生じるのは、人間のなかに、神々の意志が働いていることがわかる。

 孫悟空が、この妖怪が住む幻の世界で、道徳を実践し、徳を積むと、人間が死後、その徳の積まれ度合いにより、最後の審判が、閻魔様により行われ、判定によりカルマが形成され、次世の転生へと、人間としての度合いに反映される。

 つまり、積善は、次世の健康の素となり、不善、つまり悪は、次世の病の素となる。

 この世の妖怪たち(妖精)を退治、つまり、悪を善に転化していくことで、人間孫悟空は、段々と、真の人間、つまり神々の目となっていくというわけである。

 孫悟空は、三蔵法師の教えを卒業すると、真の人間存在になり、神々の目となるという話である。西遊記は、実は、人類の進化論なのである。






Last updated  2007年01月28日 00時58分43秒
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