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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2012年03月22日
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カテゴリ:映画をノベル
 久しぶりに、くだけた話題を書いてみたい。それは、つい最近レンタルビデオでかりて見たサムライ映画に、いまの日本の状況を照らし合わせてみたいと思ったからでもある。

 勿論、映画はフィクションで、虚構である。通常、現実とは全く異なる。

 また、時代劇は、現代の心情からつくられたもので、当時の心情をそのまま反映したものではない。

 しかし、逆説的にいえば、現代からみるからこそ、第3者的立場でみれ、かえって映画は、人間の心を描いている点では、現実を超えるものともいえる。

 私見だが、芸術とは、人間の心の動きや働き、つまり、心の力学を記述するものだと思っている。

 またこれも私見だが、科学とは、この世の森羅万象を記述するものと解釈している。宗教は、この世を超えた、人間の心の動きや働きも含め、全宇宙の森羅万象を記述し、理解するものと解釈している。

 ここまで書いてきて、ぜんぜん、くだけてないので、ここからはくだけたい。

 私がみた映画は、「桜田門外ノ変」、「武士の家計簿」、「13人の刺客」の3つである。

 結論からいうと、「武士の家計簿」が一番良かった!

 監督は、このあいだ天に召された森田芳光で、非常に意外だった。森田芳光は、「家族ゲーム」で絶賛された監督だが、私にはイマイチ良さがわからない監督だったからである。
 
 この映画は、実際の手記を元に書かれた小説を映画化したものだそうで、江戸幕末の武士の精神を知るには、非常に参考になる映画に思える。

 その映画では、一芸を磨くことに徹する武士の武骨な精神が表現されていた。 

 勝海舟によれば、武士道は、徳川期につくられたものだそうで、戦国期にはなかったそうである。徳川期の長所といえば、武士道のような精神文化が挙げられるが、それはやはり平和な時代だからこそ、生まれた精神なのだと思われる。

 徳川期には、技芸を磨くことが推奨され、役割分担が、家ごとになされていたように思われる。このエキスパート制は、米国の専業専門制に通じるところがある。しかし、日本の場合、身分制度がある点で大きく異なる。

 つまり、徳川の江戸期の長所は、技芸を切磋琢磨して磨くことで、短所は、身分制度であることがわかる。

 いうまでもなく、明治維新は身分制度を改めるために行われたわけだが、実際は、徳川に代わり、薩長土肥の藩閥に代わっただけともいえなくもない。それは、現代の日本の政治が、米国を仲介しないと国際舞台に出られない無能さにも現れている。

 技芸が平和な世の中に磨かれるのは、一見すると矛盾しているようにみえるが、秩序が安定し、平和だからこそ、脇目もふらずに特定の技芸に専心できるという面が生かされた、と考えればよいだろう。

 「武士の家計簿」は、一技芸が、時代や価値観を超えることを思わせる映画であった。ただし、一技芸が、真実探求の方法になっている必要がある。

 このような映画から、理想を汲み取り、現代の家庭教育の一考にでもなれば幸いに思える。

 さて、他の2つのうちの「13人の刺客」は、黒澤明の「7人の侍」を思わせるもので、基本は、身分制度の弊害を描いたものである。エンターテイメントと思えば、それなりに楽しめる作品である。

 残る「桜田門外ノ変」も、身分制度の弊害を描いている。今更、桜田門外の変か、という感じで、この作品をかりるかどうかは非常に悩むところだったが、案外かりてみて、よかったように思えた。現代の政局とカブるところがあるからだ!

 桜田門外の変は、暗殺というよりも、必然的な改革に思える。司馬遼太郎も、桜田門外の変を評価しているが、西欧でいう革命に近いものに思う。

 そういう意味で、私は、井伊直弼は全く評価できない人物である。日本史上、東条英機か、菅直人か、井伊直弼か、という位至上最低の人物に思える。小泉純一郎は最低というよりも、極悪人である。魔界からきた人物なのではないか、とも思える。野田などは語るだけ無駄で、官僚のシナリオに動いている菅以下のアホでしかない。

 井伊直弼のよくない点は、徳川家しか考えられない小器量の人物ということに集約できる。

 家康が天海と江戸幕府を開いた経緯を知れば、徳川家ばかりを考えるような間違った方向に進むことはなかったはずだ!

 家康は、秀吉の子の秀頼を追い詰め、豊臣から政権を奪ったことを自らに戒め、もし、徳川幕府に一大事があれば、日本という国家のために、政権交代がスムーズに行くように、諸大名を配置したというのが真意だという。これは海舟の言にある。

 だから徳川家の財政を緊縮化し、質素倹約を旨とした。徳川家で事業を独占することなく、平等に分配し、流通させ、監視役に徹したともいえる。また参勤交代制度は、当時の公共事業の一環ともいえる。海舟は無血開城を進める上で、以上のことに気づいたようである。

 従って、慶喜の大政奉還、つまり政権交代は、家康創業期からの徳川家一大事のときの規定路線だった。問題は、徳川家が大名として残るかどうかにある。

 偉大な人物というのは、作る前に壊すことを考慮するものである。

 先君家康の意を知っていたかどうかは定かではないが、15代将軍の慶喜は、賊軍となることをなんとしても避けたかったようで、結果論だが、井伊直弼が出なければ、14代慶喜政権で、案外に大政奉還はスムーズに進んだとも思える。

 水戸藩は、尊王攘夷思想の総本山なので、朝廷を中心に事を進めた可能性があり、勿論、米国と衝突する可能性もあるが、米国も、アジアとの交易を優先させたはずで、無意味な衝突は避けた可能性が高いからである。

 しかも、慶喜の背後には父親の水戸の列公や、朝廷工作を得意とする薩摩の島津斉彬や、理論派の松平春獄がいて、慶喜さえ出しゃばらなければ、外国とも対等にやっていけた可能性が大きい。

 結果論だが、井伊が血迷って、安政の大獄などをしなければ、明治維新は血生臭くなっていなかったように思える。慶喜が将軍になっていれば、安政の大獄はなかっただろう。

 つまり、井伊を代表とする江戸期の無意味な世襲制が、日本を血迷わせた。

 そもそも、当時英邁と噂された慶喜では、血のつながりが薄いという自論を展開したのが井伊である。14代将軍家茂選出の裏には、大奥の意向も働いたようである。8代将軍吉宗の享保の改革も大奥の支出削減からはじまったように、大奥は、現代の天下り官僚のように、国家財政逼迫の大きな一因であった。

 第一、皇室ならわかるが、朝廷でもない征夷大将軍の任命に血の濃さなど荒唐無稽だろう。皇室は、祭祀の家系なので、霊能力に卓越し、神道を奉じていかなければならないので、ある程度の血の拘りは必要だが、南北朝の経緯をみれば、厳密には血のつながりを本位にしたものでもないことがわかる。

 単なる朝廷の一役識の征夷大将軍の血の拘りが、大奥のような財政逼迫、ひいては農民弾圧を生じさせた。

 実際、江戸幕府瓦解の経緯をみれば、財政破綻の元凶が大奥の浪費にあることは衆目一致するところだろう。大久保一翁などは、大奥から幕府が潰れると、海舟に手紙を送っている。

 つまり、14代将軍選出の際に、井伊が失脚し、慶喜が就いていたら、大奥の改革は必然だったように思われる。大奥でも、自分たちがお荷物であることを自覚し、予め手を打ったのが、家茂選出につながったのだろう。

 このような関係は、現代の日本の状況とも酷似している。井伊は、仙石か財務官僚のような感じともいえる。

 以上のように、映画「桜田門外ノ変」をみて、現在の政局を改めて感じた。

 幕末の無血開城までいたる経緯をみれば、大奥がガンであったことは明らかである。いまなら、官僚の天下りで、財務省というところだろう。

 公武合体の経緯でも、井伊が血にあくまで拘るあまり、最後は朝廷の血を入れて、正当化しようとするところなど、略奪者の悪魔が考えそうな手口である。

 井伊は、自分が血の薄い出身で出世の見込みなく遊び呆けたくせに、非常に運よく大老になった途端に、血に拘るとは、よほどのコンプレックスだったのだろう。小人物に共通するのは、役職に見合うだけの器量がないため、体裁に拘ったりして、自己のコンプレックスに埋没してしまうところにある。

 幕府が公武合体したため、家定の妻の天璋院と和宮の贅沢競争がはじまり大奥の浪費が益々進んだのは、井伊のせいである。

 「武士の家計簿」からわかるように、世襲制というのは、血への拘りがなければよい。つまり、血よりもお役目の方が大事という責任感の問題である。

 江戸期では最下層に公的に身分差別された商人の商家などは、そもそも下層階級なので、血の拘りがなく、世襲制が上手くいった例ともいえる。

 つまり、明治維新を逆にみれば、身分制度がなくなって、商家が一番繁栄したからこそ、大正につながっていくわけで、実際に明治維新を陰で支えたのは有力な商家だった。

 つまり、血の拘りのない能力による世襲制、それはもはや世襲制とはいわないが、技能のお家制度のようなものが、日本の江戸期からの繁栄を受け継いでいく基本となったようである。

 それは、天皇が、神を祀る祭祀の家柄継承なのと同じように、血の拘りというよりも、本質的には、能力や技能の継承、古代でいう秘儀参入法の継承であるべきである。

 井伊という頭でっかちの無能なボンクラが、もう日本の歴史に登場しないことを切に願いたい。

 くだけた話題のつもりが、くだけていない話になったのは、井伊のようなボンクラと同じ現代の政治家をみているせいでもある。

 大奥の改革を進めなくては、日本国は滅亡まっしぐらであることが、3つの邦画に描かれたサムライ魂が警告しているように、私には聞こえた!   





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Last updated  2012年03月22日 15時17分59秒
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