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シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2012年08月20日
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カテゴリ:映画をノベル
 最近、レンタビデオで、何本か、映画をかりてきてみた。

 「新参者-麒麟の翼」、「ロボジー」、「山本五十六」、「ジョニーイングリッシュ-気休めの報酬」

 の4本である。

 当たり前のことだが、映画は虚構の世界である。だが、全てが虚構かというと、人間の心理を描いているという意味で、虚構でない部分もある。

 だから、私の映画をみる基本の観点は、映画を通じて、現代人の心理が巧く描かれているかどうか、にある。

 だから、虚構であればあるほど、現代人の心理が、妄想に近くなるわけだ。

 現代劇なのか、歴史劇なのか、の時間的な変化は重要な意味をもつ。過去の歴史については、現代の記憶から描くしかないので、ほとんどが現代人の感覚でしかないわけだ。

 だから、歴史劇とはいえど、現代劇を描いていると考えるべきだろう。

 また、現代という結果から考えて、過去にその要因を求めることもできる。現代人の心理に対する要因を求める種子にもなる。

 上記の4本の作品のなかでは、「山本五十六」が、一番、現代人の心理を妄想に導く可能性が高い作品といえる。「山本五十六」とはいっても、それは現代人が描く「山本五十六」でしかないからだ。

 なぜ、いまどき、「山本五十六」なのか? という現代人の心理、特に日本人を考えるのには、よい作品かもしれない。実際の「山本五十六」がどうだったかは明らかではないが、日米開戦に反対の立場をとった人物として描かれている。

 しかし、結果からみれば、反対の立場を貫けなかったわけで、組織をやめることもできずに、開戦に巻き込まれた責任は重い。「山本五十六」として描かれていた人物は、悲劇の人物として描かれていたが、情を重んじる日本社会とはいうが、なんとも、それが内向きでしかないのは、悲劇というより、喜劇のようにみえてくる。

 映画に描かれていた点でいうなら、宣戦布告が遅れたことの責任や、ミッドウェイ海戦での敗戦の責任を誰もとらずに有耶無耶にしたのは、国家中枢機能の麻痺といえる。

 この2つの重要事件に対して、誰も責任をとらずに有耶無耶にしたことが、後の原爆投下までに至ることを連想させる。

 もし、宣戦布告が遅れたことで、外務省の不届きものの連中を処分していたら、米国への印象は少しはかわっただろう。少なくとも2次攻撃をしなかったという点で、真珠湾の被害も民間には及ばずに、経済制裁に対する反抗という意味に限定し、後の講和の可能性も少しは見込めたのではなかったか? 

 また、ミッドウェイ海戦の敗戦で誰かが責任をとっていれば、少なくとも、その後の事実誤認を拡大させずに、少なくとも日米の軍事比較が可能になり、特攻隊などというような勝敗よりも生命を粗末にするようなことはなかったようにも思われる。

 日本軍が、自分の首を自分で絞めていくような愚かさに突き進んでいったのは、確かだろう。

 「山本五十六」という人物が、宣戦布告や、ミッドウェイ海戦での敵空母の出現を、口で念を押したことになっていたが、映画に描かれていたことが事実だとすると、口先だけの約束を見込む幼稚な集団と化し、国家の意思決定組織としては著しく公正を欠いていたことがわかる。

 それは、いまの福島原発問題を解決しないままに、原発再稼動へと進む愚かな選択を思わせる。当時も、中国と泥沼の戦争のなか、比較的良好だった、日米関係を反故にして、米国参戦へと向かわせることになった。

 ともかくも、世界全体を見渡せるような大局的視野に立てる日本人は当時も今もほとんど皆無で、いたとしても、少数に追いやられ、意思決定には参画できないことがわかる。このような歪な意思決定機関を作り出したのは、明治以来の日本国家が、欧米の物真似だった要因が大きいように思わせる。改めて、太平洋戦争を再考すべきに思える。

 日本人の内向きの思い込みの激しさと、洞察力のなさや、激情的で無責任、総じて外国人との交際や外交が不得意で、理性的な駆け引きが不得手なところは、現代の日本人の心理にも共通の代表されるところでもある。

 後の現代劇の3本の作品は、エンターテイメントとしては申し分のないものだった。特にロボジーは、現代の日本のロボット文化を皮肉っていて面白い。表情に乏しい日本人がつくるロボットが、人間のような動きをすることで出来事が進んでいく滑稽さは、現代の日本社会の問題点を指摘しているようにも思える。

 「ロボットを人間の形にする意味があるのか?」

 と、人が入ったロボットに助けられ、ロボット熱をあげるロボットオタクに、疑問がぶつけられ、返答に窮するシーンなどは象徴的だった。

 官僚的で、無表情な日本人は、ロボットをつくるうちに、人間らしさを取り戻していく必要があるのではないか?と思わせるところがある。なによりも、人がロボットに入っていることに、誰も気がつかない、製作した会社の上司でさえ、自分の名誉しか頭になく、間抜けにも気がつかないことで、話が進んでいく異常さが、ある意味、日本社会を巧く表現している。

 虚構なのにも関わらず、現代の日本社会では、ありそうで、現実的な話になっているところが非常によくできていた。

 「新参者」は、現代の親子関係を、虚構だが、その心理を表現しているようにみえる。仕事に明け暮れることで、家庭を顧みることなく、父親として、子どもにどう接していいかわからない現代の父親の代表像を描いている。

 そして、現代の競争社会の異常さと歪さを描いていたように思われる。競争により得られる勝利よりも、失った友情の大きさを考えさせられる。

 確かに、親が会社などで経済的に働くことで、家庭は経済的に築かれるが、経済がよくても、決して幸福ではない家庭が多いのはなぜだろうか?

 ましてや、殺人事件などに走るのは、競争社会故の、自分の弱点を露わにできない愛情の乏しさにあるのではないだろうか?

 マザーテレサが、来日したときに、日本社会の愛情の薄さを指摘したが、昨今のいじめ問題をみると、益々愛情の薄さが深刻になっているように思える。

 これは競争原理がもたらした弊害といわずになんというべきだろうか?

 そもそも、競争で勝てば幸せなのだろうか?

 競争せずに共存できる道はないのか?

 それには、お互いを良く知る必要があり、少なくとも、国家レベルの国民性を知る必要があるだろう。

 国民性を知るには、どのような笑いが好きなのか?が重要に思われる。

 「ジョニーイングリッシュ」などは、イギリスのブラックジョークを知るのにはよい映画に思われる。

 イギリスは紳士の国とは名ばかりで、野蛮な国この上ない。それは血で血を争う略奪の歴史をみればわかる。イギリス人は、なんでも笑いにする。笑いの題材に事欠かない。

 人間は何もなくなると、笑うしかなくなると、私は思う。最後に笑いがないと、思いつめて死ぬしかない。日本人の自殺者が多いのは、笑いに乏しいせいだと思う。特に、秋田県が多いのは、笑いが少ないせいなのではないだろうか?

 「ジョニーイングリッシュ」は、付録でカットシーンがついてくるが、監督がなぜカットにしたか、を語っているが、そこから、色々考えながらジョークや笑いをつくっていることがわかる。

 確かに、イギリスのジョークは、日本人には笑えないものも沢山あるが、国民性を理解するには格好の材料に思える。

 例えば、吉田茂がマッカーサーに好かれたのは、ジョークに富んだ切り替えしが巧かったからだともいわれている。

 人を笑わせることがいかに大変かは、少し笑いをやればわかる。結局、笑いとは、相手に興味を抱かせ、好かれることで、相手の価値観を知らなければいけない。

 競争原理の対極にあるのが、笑いなのではないかと思う。

 例えば、ダウンタウンの松本人志は、子どもの頃、苛められっ子だったが、苛めっ子たちに笑いを与えることで、苛められなくなったというようなことを述べている。
 
 深刻に悩むことよりも、笑いを考えることの方が、建設的に思える。笑いを与えることで、立場はいくらでも逆転する。笑いには、そのような力がある。

 日本の戦前、戦中に、あったのかもしれないが、表立って、それほど笑いがなかったのは、非常に悔やまれるところである。第2次世界大戦時には、エノケンが有名だが、「国策に賛同する役柄を演じさせられる事が多くなり、その人気は徐々に衰退していった。」とウイキペディアにも記載されているように、戦争と笑いは対極的なものに思われる。

 しかし、笑いを用いて、つまり、からかいなどで、苛めるのでは、笑いの品性さえも失わせる。





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Last updated  2012年08月20日 15時01分30秒
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