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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2017年08月17日
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カテゴリ:軟弱日本を斬る!
アホバカ脳の特徴が、読解力の無さや他者への配慮に欠けることだが、せっかくシュタイナー教育のリンクを貼ったのに、なんの学習もしないで、罵詈雑言コメントを相変わらず続ける単純さにあるが、カルトの意味も分からずに、カルトと罵るアホバカぶりには、カルトでもカルタでも、罵れればなんでもいいのであろう。

 このようなアホバカ脳はなんでも自分勝手に決めつけて罵る傾向をもっているので、読解力がないから、議論にもならないし、常に敵対的で、とにかく知性を感じられない肉食獣と同じである。相手にするだけ無駄なので、スルーしてシュタイナーの話を続ける。

 先日、人体についてのTV番組をみて、現代医学は進歩しているどころか、古代の医術よりも遥かに遅れている感じがした。

 盲腸という臓器について、これまでの科学では全く理解できていなかったが、盲腸を摘出すると大腸がんに罹り易いことが最近になってわかってきたが、人智学では、既に80年前に、盲腸の意味を明らかにしている。

 人智学的医術を紹介してきたが、その部分を再掲するが、その前に私的見解を添える。人智学によると、人体には上下の二元性があり、上部の臓器=器官と下部の臓器=器官は対応し、特に脳と腸は兄弟のような並行臓器=器官の関係にあるという。

 だから、脳の発達は、腸の発達と不可分で、腸が発達し、盲腸をもたないと、脳も高度に思考できないので、盲腸を摘出すると、脳が摘出前と同じように思考するためには、大腸から再び盲腸をつくる必要があるので、大腸がんになりやすくなると考えられる。

 前と同じ思考をしないか、盲腸に代わる臓器を大腸からつくるか、すれば盲腸摘出後に大腸がんに罹らないですむかもしれない。

 しかし、人智学やドリールの神智学の見解からすると、そもそも盲腸を痛めるのは、盲腸に関する思考がネガティヴ(自虐的)なためで、がんが生じるのは、ネガティヴな想念が臓器の働きを逆向きにさせるからである。

 ネガティヴな想念は臓器の機能制御の萎縮化をもたらし、臓器を人体の役割から解放し、独立させてしまうので、がん細胞のような冗長性、身勝手な増殖性をもたらすのだろう。

 それは、使わないのに、買ってしまう物欲による衝動買いのようでもある。衝動買いをするのは、自分に自信がないせいと考えられる。偶像崇拝の一種である。この心理については、後で、相対性理論を、心理学に応用した話で説明したい。

 ところで、思考と臓器の関係については、現代医学は唯物論を土台にしているので、全く無関心である。

 だから、脳と腸を機能別にマッピングする図をつくるのも面白いかもしれない。グーグル人体マップをつくるのもよいかもしれない。もしくは更に発展させて、人類の思考マップをつくるなども考えられる。

 シュタイナーによると、思考と臓器は関係しているので、この思考は、この臓器、あの思考はあの臓器と臓器別に思考が分類できるかもしれない。では、盲腸についての人智学的医術の説明部分を再掲する。

  ★        ★         ★

 一体何のために、人間は、盲腸のような、外界に対して閉じた臓器が存在するのか?

 以上のような疑問がよくされる。このような疑問を投げかけるとき、通常、次のような事には注目しない。

 実際、人間は二元性(二極性)をもって、自己を開示している。従って、人体下部でつくられる臓器は、常に上部でつくられる臓器の並行器官(臓器)であり、例えば、下部の並行器官(臓器)が発達できなければ、上部のそれに相応する並行器官(臓器)も発達できない。

 そして、動物の進化系列において、前脳が現れ、発達するほど、人間は、後に発達させるが、腸は、食物を蓄積する方向に発達する。脳と腸の間には密接な関係があり、動物の進化系列において、大腸、盲腸が現れ、発達しなかったら、物質界の性質として、思考する人間も生まれなかった。

 というのも、人間が脳=思考器官を持てるのは、腸の負担、腸の御蔭だからである。腸は脳の忠実な裏面(陰;ネガ)なのである。思考する為に物質的活動を、上部から免除するには、下部に、大腸や膀胱による負担を、つまり、下部の臓器に担わせる必要がある。

 このように、物質界に現れている、人間の霊-魂の最高の活動は、脳の完全な形成と結びつくのと同時に、その反面の腸の形成とも結びついている。この事実は究めて重要な関係で、自然の創造全体に途方もなく多大な光を投げかける。

 さて、ここで、たとえ幾分、逆説的に聞こえるとしても、「人間には、なぜ盲腸があるのか?」、という問いに、「人間に相応しい思考ができる為にある」、と答えることができる。というのも、脳が、盲腸の形成と対置するからである。人体上部にある臓器は全て、下部にある臓器と対応している。

  ★        ★         ★

 さて、もう一つ人智学から、唯物論を土台にしている現代医学に提言したいことは、心臓の解釈である。現代の医学では、心臓は血流を保つ単なるポンプの機能としてしか理解できていないが、人智学では、心臓を上下の臓器の働きを調停する感覚臓器=器官と考えている。

 人智学では、様々な思考が様々な各臓器の働きに由来すると考えているが、思考が極端にならずに、各臓器の働きが過度に働き、突出しないように、心臓が調整し、それらの働きを調停していると考えている。

 そして、その調停の仕方、つまりリズムの取り方により、感情が生じるので、心臓は体内の感覚器官=臓器と考えているのである。興奮すれば鼓動が高まるように、心臓が、興奮を抑えるために、調整力を発揮していることがわかる。また、好みの音楽を聴くと、感情が休まるのは、音楽と、心臓の調整力が共鳴していると考えられる。

 だから、心臓移植すると、心臓提供者の調停の仕方を受け継ぐので、心臓を移植された人は、音楽の好みが変わったり、興奮の仕方が変わったり、感情が変わってくると考えられる。

 現代医学では、ホルモンの調整などで、説明しようとしているが、ホルモンの調節は下垂体や甲状腺、副腎などの機能なので、心臓移植からは鼓動が変化したなら無理に説明できなくもないが、心臓を単なるポンプとみなしていては、厳密にいって説明できないはずである。

 以上のように、心臓は、感情の中枢と考えられるが、現代医学では、感情と性格について混同し、全てを脳で説明しようとしているが、これも人智学では大きな間違いとみている。

 性格については、人智学では自我に起因し、その肉体上の反映は、血液と考えている。だから、骨髄移植などをすると、血液型が変わるように、性格が変わるのも当然といえる。

 だから、血液の成分が変わるというのは、ある意味、性格が変わるともいえるわけで、例えば、アルコールなどを大量に飲めば、血中に流れだし、アルコールは、血液の成分を保存しようとするので、新陳代謝が滞り気味になり、自我が内向きになり、自己防衛に目覚め、自己を強化し、内向きになるため、外界よりも、体内に関心が向くので、地球の自転力=コリオリの力を体内に感じるようになり、酔っぱらいは千鳥足になる。

 このような血液の話も紹介していきたいが、続けて別角度から、心理学に応用した相対論を考えてみた。

 昔、アインシュタインの相対性理論をわかりやすく説明するのが、随分と流行ったが、わかりやすい説明が理解できたからといって、相対論を理解できたわけではないことを肝に銘じてほしい。

 素人がやりがちな間違いが、わかりやすい説明を理解して、それでよしとする怠慢さにある。ゲームの攻略法と同じように考えてはダメである。

 さて、そういって予め釘をさしながら、相対論をわかりやすく説明すると、特殊相対論は、アインシュタイン自身がわかりやすく説明したように、人によって時間の進み具合が違う理論であり、一般相対論は、人によって、存在感が違う理論といえるだろう。

 3次元の座標から、虚数を用いて4次元の座標に変換する難しい数式で示したり、曲率を変換するテンソルの難しい数式で示したりせずに、お馴染みの言葉で、表現すると、上述のような説明になるが、これは相対論をいわば心理学に応用したものになっていることに気が付いた。

 つまり、心理学的な特殊相対論では、心の持ちようで、時間の進み方が異なるわけで、例えば、地獄のような苦しい体験では時間の進み方を遅く感じ、天国のような楽しい体験では時間の進み方を早く感じることを意味する。

 これを抽象化すると、ポジティブな想念では時間は早く進み、ネガティヴな想念では時間はゆっくり進むことになる。

 つまり、想念をどう発するか、思考することで、時間の進み方が変わるわけである。数学的には、3次元空間プラス想念の座標になるから、つまり外界と内界=想念の座標で、体験を記述する必要がある。

 (x、y、z)→(x、y、z、ict)のctが、「想念」に置き換わる。

 この想念は、量子力学の観測論にも応用できるから面白い。相対論を取り入れたディラックの量子力学では、想念が、ゲージ場になる。光速度で電子が運動する前提なので、光速度不変則が、ゲージ場不変則になる。

 面白い事に、ゲージ不変則から、電子の双子の陽電子という有名なディラックの海が出てくるが、これを想念に置き換えると、ポジティヴとネガティヴと同じものになる。

 いずれ、このディラックの海に、ホメオパシーの原理を付け加えたい。簡単にいうと、ポジティヴとネガティヴの違いは、現在の位置によりかわり、ポジティヴは近くの、ネガティヴは遠くの意味になり、それらは現在の位置を変える事で、ポテンシャルが変わるので、変換するのがホメオパシーの原理である。

 さて、心理学に、一般相対論を適応して進むと、人によって存在感が違う、という心理に置き換わることがわかる。

 いわゆる偶像というか、忍者で有名な分身の術のようなもので、当人の印象が人間関係のなかで肥大化してしまう現象で、例えば、有名人や歴史上の人物は一般人よりも、情報が拡大して、大袈裟に伝わっているので、その分、社会的な責任も重くなるという理論となる。

 重力が空間を歪ませるように、偶像化が、情報伝達を歪ませる。要するに偶像化されると、話が盛られて伝わりやすいということである。

 この効果は、歴史上の人物や有名人のエピソードなどが過剰に伝わっていることでよくわかる。

 例えば、偶像をアイドルと呼ぶが、アイドルは、この情報伝達の歪みを巧く利用して、存在感を高めて、商売しているが、その存在感に不都合な事実が明らかになると、実像を脅かすほど偶像が支配的になり、ついには偶像が、実像を破壊するまでになる。

 昨今の不倫バッシングはこの現象をよく説明している。

 不倫をしない存在で知られた清純派アイドルが、実は不倫をしていたという事実から、その責任をとって謝罪に至る例である。

 つまり、実像は、情報の受け手の想念の持ち方に影響される、というわけである。

 心理学の実像を、物理学の質量に置き換えれば、静止エネルギーは、質量と光速度の2乗となる有名なアインシュタインのE=mc^2の数式から、存在感は、実像とその偶像化の受け手の想念により、決定されることになる。

 だから、偶像崇拝がよくないのは、実像を見失わせるからである。また、受け手にポジティヴな想念を与える情報は早く伝わり、逆にネガティヴな想念を与える情報はゆっくり伝わるため、ネガティヴな情報を長く留まらせるため、一度ネガティヴな印象を受けると、なかなか払拭できないことがわかる。

 例えば、一度不倫のイメージがつくと、一生ついてまわることになる。

 このように現代医学からは説明不可能なことが、人智学から明らかになることが多いので、続けて再掲する。

  ★        ★         ★

 ルドルフ・シュタイナー
 「精神科学と医学」 第四講
 1920年 3月24日  ドルナハ
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 前回の議論は極めて興味深く、今回、目にした質問との関係で既に述べたが、やはり再度、次のような点を強調しておきたい。

 「個別の症状から、その治療薬を見つける方法は、今回の考察のなかで、前もって、基礎問題を処理しないと得られない。」

 基礎問題を処理してようやく、外界との関係から認識可能な範囲がわかり、外界に薬を見つけられる。特に、各々の治療薬と肉体の各臓器との関係を知るには、基礎問題を処理しなければ不可能である。

 その理由は明白で、薬と各臓器との関係はそれほど単純ではなく、複雑で、今回、もしくは次回の基礎問題を処理しないと、その関係の意味が理解できないからである。

 それから続いて、治療薬、特に治療法と、個々の臓器の疾病との具体的な関係を実際に議論する可能性が出てくる。しかし、今回も早速、前置きとして、とりあえず、次の事例を受け入れて欲しい。そこから、光が当たることもあるが、最初は衝撃を与えることを強調したい。また前回、考察した関係の別側面もあわせて考慮して欲しい。

 前回、治療理念=治癒原理について基礎的な事例を数多く紹介でき、良かったように思う。さて、この治癒原理に基づいた治療法を、恐らく稀少にしてしまうほどの単純な治療法を紹介する。だから、この治療法を用いない為に紹介したい。

 この治療法は、勿論、人智学徒にしか紹介できない。この治療法とは、リッターの治療法(1)を普及したものである。勿論、この治療法の成果を、医師個人の能力に帰すわけにはいかない。というのも、個人として、次のように意識するかもしれないからである。

(1) リッターの治療法:「M・リッターの光線力学的治療の臨床応用のための手引き」(ミュンヘン、1913) 及び「蛍光及び発光(ルミネセンス)素材を用いた力学的治療法-神経細胞、及び神経細胞死への作用に関する研究と経験との関係」(ライプツィヒ、1905)参照。

 (リッターの治療法の現代版が、光線力学的療法や、放射線治療である。)

 リッターの治療法を大学病院で実施した途端、多くの病気(全てではない)が治療できるので、その治療法に染まってしまい、もはや反対の立場には立てず、これまでの治療の成果が著しく減少するような経験をするかもしれないので、1人の医師として、自分は、大きな医師集団に対して闘わなければならない。

 このようなおかしな事例も現実には考えられる。つまり、通常考えられている通りにはほとんど進まない。医師個人は、1人の患者の治療が最大の関心事なのは当然だが、現代の唯物論的な医学は、1人の患者の治療に専念させるような法的根拠を、専門化のなかで探し求めてきた。

 実際、この法的根拠は、「病気はそもそも単独では存在せず、患者として存在する」という考えにある。

 当然、外見的に、患者として病気が周囲から隔離されているなら、このような根拠も正しいが、実際は、病気が単独で存在するほど、患者は隔離されていないので、以前、E.博士が言及したように、ある病気に罹患している期間が、かなり広範にわたり、ある人を治しても、また別の人に同じ病気が発症していた、という事実を考えないといけない。

 個々の症例を、全体のなかに置いてみないと、以上のような事例に甚だ驚愕させられる。だから、人類全体の治療法を洞察できる為には、やはり別の角度から考察する必要がある。

 以上から、治癒原理を臨床に一面的に活用するだけでなく、病理学を基にして、治療法を引き出してくる事が是非とも必要となる。この講義では、通常の経験的-統計的な思考に、理念、理性をもたらす事を試みる。

 さて、今回は、お馴染みの事実から始める。この事実は、自然科学や、医学的思考との関係では、正当に評価されていないが、外の自然に対する人体の関係を判断できる基礎知識を提供してくれる。

 それは、人体が3つの部分、すなわち、神経-感覚系、循環‐律動系、そして新陳代謝系から成り、特に新陳代謝系が、外の自然の、植物で生じている活動に対して、陰画(ネガ)の関係をもつ、という事実である。

 次のような事実を描き出して欲しい。外の自然の、差し当たり、植物だけを観察すると、植物は、いわば炭素を集積し、炭素を基盤とする傾向が認められる。

 (シュタイナーによると、中世の賢者は、炭素を賢者の石と呼んだ。)

 人間は植物に囲まれていることによって、炭素の集積を基盤とする生命体に囲まれている。この植物の活動の基礎を成す炭素は人体にも現れているが、人体の本質としては、植物の活動、つまり炭素の集積があまり進行しないうちに、この活動を止揚し、抑えるために、代わりに、その反対の分解、つまり消化活動を活発化しなければならない。

 この分解、消化活動のはじまりは、以前「人体下部」と呼んできた下腹部に見つけられる。人体下部では、炭素を集積させて、植物化となる活動を始めさせた後で、人体上部から誘導されて、この植物化に抵抗しなければならない。

 つまり、炭素に酸素を対抗させることで炭素を止揚し、炭素を炭酸に加工することで、植物化に対抗する分解活動を誘導しなければならない。

 外の自然とは反対の人体の活動に注目する必要がある。というのも、この活動に注意すれば、人体の真実を根本的に理解できるようになるからである。体重を計っても、人体のしくみを理解できないが、次のような事実を考慮すれば、人体のしくみについて、直に、真相が理解できるだろう。

 脳の重量は良く知られているように、平均1300グラムだが、この重さで、脳の下にある組織が圧迫されることはない。というのも、もしこの脳の重さで圧迫されたなら、繊細な血管が拡がっている脳の下の組織が押し潰されてしまうからである。脳が下を圧迫する重さは、せいぜい20グラム程度である。

 脳が水のなかに浮かんでいる、という事実の為に、良く知られたアルキメデスの水圧の原理に従って浮力を得た結果、脳の重量の大部分は下に作用せず、浮力により止揚されているからである。

 脳の重さが克服され、人体組織の重量のなかではなく、その反対の重量を克服するなかに、物理的重量とは反対の抵抗力のなかに、人間が生きている、という事例は、人体の他の活動も同様なのである。

 実際、自然現象が作り出したものではなく、それを止揚したなかに、人間は生きている。更に、実際、外の自然のなかにある、植物の生長の最終的活動を知覚し、体験するなかに、人間は生きるのではなく、植物化を止揚する事で生きる、のである。

 以上の事実は、病気に罹っている人体と植物薬との間に橋を架けようとすれば、当然、問題の本質となってくる事である。

 さて、以上のような事実を、ちょっとした短編小説風に叙述する。人間を取り囲む、素晴らしい植物に眼差しを向けると、当然、とても大きな歓びを感じるだろう。けれども、羊を解剖し、その直後に、羊の腸内にある植物相に眼差しを向けるときは、そうではない。

 この羊の体内の植物相は、その発生因という点でも、外の植物と類似するが、羊を死後に解剖して、内部の腐敗臭が漂ってくるのを感じれば、この腸内の植物相、すなわち腸菌群落に、とても歓びを感じるどころではない。

 けれども、特に、この相違に注目すべきである。というのも、外の自然では、植物を、生長の軌道にのせる要因であっても、人体では逆に、それを克服する必要があり、腸内に、腸菌群落が発生してはいけないのが明白だからである。

 この相違には究めて広範な研究領域が拡がっており、比較的若い、勉学中の医学生に薦めたいが、学位請求論文などに、多くを役立てるとよいのではないか、と思われる。とりわけ、様々な動物の形態、哺乳動物を経て、人間に至る、腸形成の比較研究から多くの知見が得られるだろう。

 この領域には究めて重要な事がまだ数多く研究されないまま残っているので、将来実り豊かな分野が成立するだろう。とりわけ、羊を解剖すると、その腸菌群落の為に、酷い腐敗臭がするのに、鳥類では腐肉を食する鳥の場合でも腐敗臭はなく、解剖してもほとんど臭いがしないのはなぜなのか、その隠れた事情を一度探究してみるとよい。

 以上の事柄については、今日(1920年)まで、いまだ多くの事が研究されていない。この領域の腸の形態の研究については尚更である。ちょっと考えてみればわかるが、鳥類の腸が、哺乳類や人類の腸との本質的な違いを示している。

 鳥類の、(例えば、パリの医師メチュニコフ(2)のような唯物論的な医師たちは、鳥の腸について大きな間違いをしてきたが)膀胱と大腸は、究めて未発達である。鳥類は、走禽類となる事でようやく、大腸や膀胱に、発達した膨隆が見つけられる。

(2) Elias Metschnikoff 1845-1905 オデッサ大学で動物学教授、後にパリのパスツール研究所副所長。

 以上のようにして、重要な事実が示される。つまり、鳥は、排泄物を蓄積し、一定期間、体内に溜めた後で、排泄物を随意に排出することはなく、摂取と排泄が即座に行なわれている。

 腸内の植物相、更に、これから見ていくように動物相のなかに、病因をみるなら、表面的な見方にすぎない。実際、恐るべきことだが、今日の病理学の文献を調べてみると、各章毎に、この病気には、この菌(ウイルス)が、あの病気にはあの菌(ウイルス)が、新たに発見された云々に出くわす。

 以上は、腸内植物学、腸内動物学にとっては興味深い事実だが、病気については、せいぜい1つの指標以上の意味を持たない。つまり何らかの異常な状態が根底にあると、興味深い微小な動物、或いは微小な植物が、この異常な状態に起因する繁殖の機会が提供されるが、その単なる指標にすぎない。

 この微小の動物相や植物相(細菌やウイルス)の繁殖が実際の病気に関与する程度は非常に低く、せいぜい間接的に関わるだけである。今日の医学のなかで展開されている論理は、究めて奇妙である。

 例えば、良く飼育された見事な牝牛が沢山いる土地を発見したとする。その際、これらの牝牛が何処からか飛び込んできて、この土地に感染したから、などと考えるだろうか。恐らく、そんな風には考えないだろう。

 それよりも、恐らく、この土地に牛を育てるのに勤勉な人たちがいるのは何故か、牛の飼育に適した土壌がこの土地にあるのは何故か、というような理由を考えるだろう。

 この土地が、良く飼育された牝牛に感染されたからなどとは考えもしないだろう。しかし、今日の医学が、微生物等について展開している論理は、これと同じである。微生物からわかるのは、その繁殖に良い肥沃な土壌がある、という事実で、この土壌こそ当然観察して注意すべきものなのである。

 ただ、例えば、良く飼育された牝牛を、何頭か譲ってやれば、もっと勤勉になろうと奮起する人も出てくるようになり、間接的に、良く飼育された牝牛が増える可能性はある。これは無論、付随して起こり得ることではある。細菌(ウイルス)により、繁殖準備の行き届いた土壌が刺激され、間接的に土壌も何らかの病気に陥ってしまうことは当然起こり得る。

 実際、細菌(ウイルス)は、病気とはほとんど関係がない。健全な論理の育成を心掛けるなら、細菌(ウイルス)だけに病因を求める論理により、公認された科学から、健全な思考を荒廃に招くような事態は起こり得ないはずである。

 以前から、考慮すべき人体の特徴とは、人体上部と下部の異常な関係が誘因となって、正しい相互関係が成立しない可能性である。例えば、その結果、上部の反作用が乏しいため、つまり植物化の傾向を阻止する反植物活動に乏しいため、植物化を阻止できずに、下部で植物化が活発になる可能性がある。

 そうすると、腸菌群落(腸内植物相)が夥しく蔓延る機会が与えられるので、この腸菌群落は下腹部が、正しく働いていない状態を示す。

 人体下部が規則正しい活動、つまり植物化を阻止する活動ができないと、その活動は停滞し、下から上へと逆に進む、という特殊な事態が起こり得る。つまり、下腹部で正しい活動ができないと、活動は逆に進む。

 このような表現は素人臭いが、今日通用している病理学の表現よりも少なからず科学的といえる。人体下部での規定通りの活動が逆進し、上部に向かうわけだが、これと同じように、上部の肺や肋膜などの異常な排出についても、その原因を、下腹部の異常な排泄活動との関係を調べる必要がある。

 以上のように、下腹部で起こるべき活動が、上半身に向かって逆進するのを正確に見ていくのが重要である。上半身で起こり得る異常な活動の多くは、下腹部から逆進した活動に他ならない。上部と下部との間に正しい関係が成り立たないと、活動が逆進し異常となる。

 さて、もう1つ注意すべきことがある。恐らく、日常の経験から、次のような事実を経験しているはずだが、十分に評価されていないので、健全な科学では、この事実の正しい評価こそ重要となるだろう。

 その事実とは、人体の臓器について考える瞬間、もっと良い表現をすれば、その臓器に特有のイメージを抱く瞬間、この臓器に活動が起こる。例えば、食べ物のイメージと唾液分泌のように、腸内の粘液分泌、母乳の分泌、尿の分泌、精 液の分泌等と、イメージを抱く、思考との関係を(未来の学位請求論文の為の研究領域)、一度研究してみるとよい。

 以上の生理現象と、並行して現れるイメージや思考が、どのように起こるのか、を研究するとよい。

 いま問題にしているのは、一体、どのようなものなのか?

 霊魂=精神にある考え(イメージ)が生じると、それと並行して生理現象が起こる、のではないだろうか?

 これは一体どういうことなのか?

 思考として生じてくるエーテル(再生力)は、そっくり丸ごと臓器のなかにある。つまり、ある考えを抱くと、それと並行して腺分泌が起こるが、その考えの基礎と成る(エーテルの)活動を、腺から取り出している。

 腺から取り出したエーテルを用いて思考すると、腺は地上の法則に従い、地上の活動に没頭し、分泌を行う。この分泌を妨げたなら、もし妨げられなければ、腺から排泄される思考(エーテル=再生力)が、腺のなかで結びついたままになる。

 以上の事例から、再生力が、臓器から思考として現れる事実を明白に理解できる。

 だから、「そのように考えなかったら、腺は分泌しなかっただろう。」と言えるのである。すなわち、腺から、思考=再生力を奪い、霊魂に移行させたので、腺は分泌を行う。

 今までの考察から述べてきた事例の証明が人体の活動のなかに見つけられる。つまり、人間がエーテルを用いて、霊-魂で体験している思考、感情、意志は、目の前の自然の活動の基盤となっている再生力=エーテルに他ならない、という証明である。

 外の自然の植物の活動のなかにこそ、体内の腸菌群落から取り出した再生力が潜んでいる。だから、戸外で山の植物や草原の植物を眺めるとき、本当は、次のように言わなくてはならない。

 「この自然のなかには、人間が、思考やイメージ、感情、意志を持って生きる糧となる再生力が潜んでいる。」

 従って、腸菌群落は外の植物とは異なる。外の植物からは、思考が取り出されていないからである。外の植物のなかに眠る思考は、茎、葉、花のなかに潜んだままでいる。

 以上から、花や葉のなかで生長を支配している再生力と、腸菌群落が体内で繁殖する際に必要な反作用との親密性が理解できるだろう。

 その際、腸菌群落に再生力を委ねず、腸菌群落から再生力を奪い取る。再生力を奪い取らなければ、人間は思考できない。人間の思考は、外の植物が持つ再生力を、体内の腸菌群落から取り去った結果である。

 動物でも事情は変わらない。このような洞察が無いと、植物薬との関係に到達出来ないのと同様に、外の動物のなかの再生力を、腸内動物相から取り出す事実について意識できなければ、血清のような動物薬の使用についても正しく理解できない。

 以上からわかるが、人間と環境との関係を、本当に見据えない事には、治療理念=治癒原理を基にした治療学は体系化不可能である。更に、もう1つ重要な事を指摘する。少し前(1920年)に滑稽にも、通りで唾を吐くのが禁止されたとき、甚だ酷い状態になったが、体験された人もいるだろう。

 この唾吐き禁止により、結核を撲滅しようとしたようだが、滑稽なのは、誰もが知っておくべきだが、病原菌、結核菌は、日常の太陽光により究めて短時間で殺されてしまうので、唾吐き後数時間たって、調べれば、結核菌はほとんど死滅している。

 太陽光は即座に病原菌を殺す。だから、医学上の前提が正しくても、このような唾吐き禁止令は、究めて滑稽である。このような禁止行為は、せいぜい、ごく一般的な衛生面では意味をもつが、広義の予防医学では無意味である。

 正しく評価できれば、以上の事実は非常に大きな意味を持つ。というのも、動物相、ないしは植物相に属する、結核菌などの病原菌は太陽光の下では生存できない事を示しているからである。

 病原菌は太陽光の下では自らを維持できない。太陽光は病原菌には都合が悪い。

 では病原菌が自らを維持できるのはどのようなときか? 

 それは人体内にいるときである。では、なぜ、人体内なら、生存できるのか?

 病原菌を有害な存在として見るのではなく、体内の活動を探究しなければならない。けれども、その際に注意が払われていない事がある。人間は、絶えず光に囲まれている。光は(自然科学から記憶しているように)、生物の生育にとって究めて大きな意味を持つ。外の植物全体の発育にとって究めて大きな意味を持っている。

 人間は、光に囲まれているが、人体と外界の境目で、光、つまり純粋なエーテルに、非常に重要なことが起こっている。つまり光が変化させられている、体内では、光は変化させられなければならない、のである。

体内の植物化が阻止されるように、つまり植物化が中断され、炭酸の発生によって植物化に抗する働きかけがなされるのと同じように、光も、人間によって変化させられる。

 従って、体内の光を探究すると、外の光とは別の光、つまり外の光が変化した光に遭遇する。人体の境界を、外から内に向かって越える瞬間、光の変化が見つかる。すなわち、人間は、体内で、外界の眼に見える自然現象を変化させているだけでなく、眼に見えない光なども変化させている。

 人間は光を変える。太陽光の下ではすぐに死んでしまう結核菌が、体内で生存できるのは、次のような事例を正しく評価すれば、端的に証明できる。それは、体内で変化した光には、結核菌を生育させる要素があり、結核菌が増え過ぎるのは、この変化した光に、なんらかの異常がある、という事実である。

 以上の事実から出発すると、結核に罹るのは、体内で変化した光に、通常起こらない何かが起こることで、常在している結核菌を沢山感染させてしまうのがわかる。

 実際、結核菌は常在している。ただ通常は十分な数に満たないだけで、人体が結核に屈服すると夥しく増える。体内で変化した太陽光の活動に何らかの異常がない限り、通常は、結核菌が見つかるわけではない。

 さて、また、この分野の学位論文などの類を、次のような事実から引き出すのは(観点でしか与えることができないが)、それほど困難ではないだろう。

 人体が結核菌の繁殖に適した土壌となるのは、太陽光を十分に取り入れていない為に、外から入ってくる太陽光と、体内で変化させ加工した太陽光との間の均衡が崩れ、体内にある変化光を引き出さざるを得ない状態にあるときである。

 是非とも考慮に入れて欲しい事実は、人間は、光を絶えず変化させている事実である。この変化光は人体に必須である。

 外界の太陽光との相互作用が正しく実現されていない人体では、必要な脂肪が肉体から奪われ、痩せていくのと同じように、変化光が肉体から奪われていく。

 そして、変化光が奪われていくと、人体上部が病むか、もしくは上部に必要な変化光を、下部から引き出し、下部が病む、というジレンマの前に立たされる。

 以上からわかるが、とりもなおさず、人体は、外から取り入れ、変化させた眼にみえる物質だけでなく、正しく観察すれば指摘できるが、眼にみえない、変化光、つまりエーテルも必要としている。

 以上からわかる事は、このような原理を通じて、太陽光を用いた治療法についての正しい見解を打ち立てる事にある。例えば、周囲の太陽光との相互作用が正しく実現されないのを、再び正しくするために直接太陽光に曝すことで、もしくは、変化光を取り出してしまい、変化光が不規則になるのを再調整するように、体内をエーテルに曝すことで、治療できる。

 以上のように変化光を無暗に取り出さないように、薬などの作用によって抑制する必要がある。以上のような正しい観察から、体内のしくみが覗き込める。

 しかし、以上のように、この世を正しく観察できると、次のような奇妙な事が起こる。顕微鏡での観察、つまり微小世界の観察に対して、激しい怒りの類を覚える(些か下品な表現だが)。

というのも、顕微鏡での観察はそもそも、生命力と、それを抑制する力とを、正しい把握に導く、というよりも、むしろ逸脱させるからである。というのも、健康、もしくは病気に関わらず、人体の活動は、顕微鏡(ミクロ)的というよりも、巨視(マクロ)的な活動のなかに、遥かに良い研究の可能性が与えられるからである。マクロコスモスのなかにこそ、研究の機会を探す必要がある。

 注意すべきことは、鳥類は、膀胱と大腸の発達が不十分で貯えておけない為に、摂取と排泄がほぼ同時に行われる。鳥は飛翔しながら排泄できる。鳥は食べた残りを体内に貯め、蓄積できない。鳥には食物を蓄積できない。

 もし鳥が食べ物を体内に蓄積したら、即座に病気になり、体をダメにしてしまうだろう。人間は、物質体が(現代的な見解に沿うなら)鳥よりも進化しているが、正確な表現を用いるなら、鳥よりも(大地の)下方に降りてきた、といえる。

 鳥は実際、腸菌群落に対して激しい戦いを展開する必要はない。高等生物や人間に必要な腸菌群落が鳥の体内には全く無いからである。けれども、人間の高次の活動というか、例えば先に述べたエーテル、つまり太陽光を体内で変化させる活動については、鳥と同じ位置に立っている。

 人間は物質的な膀胱や大腸をもつが、これらの臓器に関わるエーテル体については、鳥と同じである。実際、エーテルの増幅器は宇宙では、物質力学的には存在しない。エーテルについては、光を受け取ってすぐに加工し、即座に排泄しなければならない、という平衡状態に依存する。

 この平衡状態に支障が起こると、それに対応するエーテルの増幅器がないため、健康を損なう以外にない。だから、小さな脳を備えた鳥を観察する際に明確にすべきことは、鳥は、人間よりも精妙な(エーテルの)マクロコスモスの写像である、ということである。

 従って、鳥よりも下方に降った人間の粗雑な物質体の(マクロコスモスの)写像を、鳥の精妙なエーテル体と想定して研究すれば、鳥をマクロコスモスとして研究する必要が出てくるだろう。

 ただ述べておきたいのは(括弧付きで述べるが)、「人間の物質体が、鳥類と比較してもつ特性を、エーテル体でも、同様に持つなら、実際、人間の生活は酷く悲しむべきものになるだろう」、というのも、エーテル体は、物質体のようには、外界から遮断できないからである。

 もしそうなら、変化光を貯蔵すると同時に恐らく、それを感じとる臭覚器官があれば、その臭いで、人間の共同生活は、かなり悲惨な状態になるだろう。羊を死後解剖して、その内部の臭いを嗅いだときと同じ経験をすることになる。

 実際は、エーテル体については、人間が互いに向き合っても、例えば腐肉を食する鳥でさえ、その鳥を解剖した際の、不快な匂いをそれほど発散しないが、その鳥類と比べても、変わりはない。

 この不快でない、というのは、とりわけ反芻動物への素質を持ち始めた、例えば、馬のような動物でも(馬は正確には反芻動物ではないが、反芻動物への素質をもつ)、解剖時に出る臭いと比べても、臭わない。

 つまり、外界の植物や動物の活動と、腸内の動物相や植物相を克服する活動との対応を調べていくのが重要である。そして、薬と臓器との関係が確定できたなら、今回、展開してきた一般的な特徴付けから、次回以降の個別的な特徴付けへと進んでいける。

 体内の植物化に対抗する闘いを、代謝活動のなかに見つける事で、腸内の動物相や植物相の克服へと進み、また人体下部から出発して上部の神経-感覚系へと進んで行く必要がある。

 神経-感覚系は、通常考えられているよりも、遥かに重要である。科学が、抽象化された為に、次のような事を、適切な方法で考察する可能性が全く失われてしまった。

 神経-感覚系を通じて、例えば、光と共に熱(エネルギー)=火が入り込んでくるが、この神経-感覚系は、精神=内面と密接に関係している。というのも、光と共に入り込んでくる火などの不可視な存在は、各器官や臓器において変化させられる必要があり、そして、この不可視な存在は、可視可能な存在と同様に、各臓器や各器官をつくる、という事実を考慮する可能性を失わせてしまった。

 以上のように、神経-感覚系が、人体にとって特別な意味を持つ事実は全く考慮されていない。人体下部のなかに深く下っていくと、腸内植物相や腸内動物相へと下っていくが、逆に人体上部に上っていくと、植物相を克服する領域から、絶えざる鉱物化や硬化を克服する領域へと上っていく。

 外見的に、頭部の骨化が他より顕著なのを見ても、人体は上へ向かって進化するほど、器官や臓器を通じて鉱物化する傾向が強まる、のが研究できる。

 この鉱物化の傾向は人体にとっては大きな意味をもつ。というのも、これは注意すべき事だが(公開講義でも指摘してきたが)、人体を3つの部分、すなわち、頭、胴体、四肢に分けるとき、外の物質空間で並列的に境界をもつように考えてはいけない。

 量でなく、質で区分けするなら、人体全てが頭となる。頭の本質は肉体全体に拡がり、その主要部が頭になっている。また頭以外の他の部分、つまり主に胸部の律動と、主に腹部と四肢の新陳代謝も同じで、これらも全体に拡がっている。

 この為、当然、頭の素質が全体にもあるが、鉱物化の傾向は克服されなければならない。現代人が、遺伝的な霊視力から書かれた古代の著作を紐解いても、何も理解できない分野とは、この鉱物化についてである。

 というのも、結局、パラケルススが記した「塩活動(プロセス)」を読んでも(3)、今日ではほとんどの人が、正当な意味を読み取れないからである。この「塩活動」とは、上述した領域(鉱物化や硬化の克服領域)にあたり、「硫黄活動(プロセス)」が、その前に述べた領域(植物相の克服領域)にあたる。

原注3 パラケルスス「オープス パラミールム」参照。

 さて重要な事は、人体は、鉱物化の傾向をもつ、という事である。体内の動物相-植物相をつくる基盤が、いわば独立的になり得る、のと同様に、人体に対して、この鉱物化の傾向も独立する可能性がある。

 この鉱物化の傾向に対して、どのように対抗して働きかける(作用する)必要があるのか?

 この鉱物化に対抗する働きかけ(作用)は、鉱物化の傾向を粉砕し、そのなかにいわば絶えず楔を打ち込む以外にはない。そして、この領域こそ、動物薬=血清療法から、植物薬=植物療法を経て、物質薬=鉱物療法へと移行して踏み込んでいく必要のあるところである。

 鉱物化については、何しろ鉱物療法=物質薬無しでやっていくわけにはいかない。というのも、普遍的に鉱物化、硬化していく傾向についての人体の抵抗への支援とするには、体内の鉱物化と外界の鉱物との関係にあるからである。

 その際、鉱物を、外界の状態のままで、単純に人体に取り込むだけでは駄目である。ホメオパシー原理を想定して、つまり、外の鉱物の活動に対置できるような体内の活動を、外界の鉱物から探し出す必要がある。

 次のような事は、一般的によく指摘されてきたことで、実際正しいが、泉のなかの、僅かなミネラル成分がもつ自然治癒力に注目すれば、泉のなかに、目覚しいホメオパシー原理が働いているのがわかる。

 このミネラル成分は、外界に通常見られる活動から、鉱物を分解する瞬間に、それとは逆の活動、つまりホメオパシーの原理を用いないと、分解できない逆の活動が実際に現れてくる事を示している。

 けれど、この原理については、別の章で改めて述べる。それでも猶、今回は、次のようなことを述べておきたい。

 実際に(特に比較的若い研究者に切に勧めたいが)、生物の腸の形態変化=発達度、つまり、魚類から両生類、爬虫類を経て鳥類に至る腸の形態変化(特に両生類や爬虫類の腸の変化は究めて興味深い)、そして、哺乳類、人間にまで至る腸の変化について、比較研究すれば、高等生物に至って、腸に特殊な形態変化が起こり、例えば、盲腸ができる事実に気づく。

 すなわち、下等な哺乳動物や鳥類の腸には見られない、人間になって後に盲腸となる、その特殊な原基が現れてくるが、魚にはない大腸が、腸の完全な秩序化を通じて、両生類、爬虫類を経て鳥類に至ると、大腸が現れ、更には哺乳類から人間にまで至る変化では、複数の盲腸、人間では、1つの盲腸が現れてくるが、このような腸の形態変化のなかに、独特の相互関係が見つかるだろう。

 本来、以上のような相互関係こそ、比較研究から厳密に指摘すべき事なのである。単なる外見から、実際、次のような疑問が頻繁にされる、

 一体何のために、人間は、盲腸のような、外界に対して閉じた臓器が存在するのか?

 以上のような疑問がよくされる。このような疑問を投げかけるとき、通常、次のような事には注目しない。

 実際、人間は二元性(二極性)をもって、自己を開示している。従って、人体下部でつくられる臓器は、常に上部でつくられる臓器の並行器官(臓器)であり、例えば、下部の並行器官(臓器)が発達できなければ、上部のそれに相応する並行器官(臓器)も発達できない。

 そして、動物の進化系列において、前脳が現れ、発達するほど、人間は、後に発達させるが、腸は、食物を蓄積する方向に発達する。脳と腸の間には密接な関係があり、動物の進化系列において、大腸、盲腸が現れ、発達しなかったら、物質界の性質として、思考する人間も生まれなかった。

 というのも、人間が脳=思考器官を持てるのは、腸の負担、腸の御蔭だからである。腸は脳の忠実な裏面(陰;ネガ)なのである。思考する為に物質的活動を、上部から免除するには、下部に、大腸や膀胱による負担を、つまり、下部の臓器に担わせる必要がある。

 このように、物質界に現れている、人間の霊-魂の最高の活動は、脳の完全な形成と結びつくのと同時に、その反面の腸の形成とも結びついている。この事実は究めて重要な関係で、自然の創造全体に途方もなく多大な光を投げかける。

 さて、ここで、たとえ幾分、逆説的に聞こえるとしても、「人間には、なぜ盲腸があるのか?」、という問いに、「人間に相応しい思考ができる為にある」、と答えることができる。というのも、脳が、盲腸の形成と対置するからである。人体上部にある臓器は全て、下部にある臓器と対応している。

 以上の事実から、新しい認識法を再び獲得すべきである。勿論、遺伝された霊視力に立脚していた古代の医師たちの医術を、今日では、そのまま模倣できない。それでは、新しい認識法はほとんど得られないからである。なので、以上の事実から再び獲得しなくてはならない。

 新しい認識法の獲得にとって、最初の障壁になるのが、以上のような、上下の対応の関係を、根本から探究しない、現在広く行われている唯物論的な医学教育である。今日の自然科学と医学では、脳は人体内の単独の臓器で、下腹部にある腸もまた別の臓器である。

 つまり、「陽極=陽電子と陰極=電子は全く同じで、両方とも電気=電子である。」という同じ誤謬に全く気づいていない。

 外界の陽極と陰極の間には、互いに均衡を求める緊張(力=作用)が生じているのと全く同じように、人体にも上下間に絶えず緊張があるからこそ、この誤謬に気づくのが一層重要である。医学分野において何より優先的に探究すべき事の本質は、この緊張の制御にある。

 この緊張は(今回は暗示だけにして、以後の考察で更に詳しく述べる)、次の2つの器官に集中する力のなかに、つまり、松果腺と、いわゆる粘液腺のなかに現れている。松果腺では、上部の全働きが現れ、下部の粘液腺、つまり脳下垂体に対して緊張関係を成している。

 この2つには、真の緊張関係が成立している。この緊張関係について人体全体から見解を打ち立てるなら、更なる治療法獲得の為の非常に良い基本原理が得られる。

 以上の事実については次回に譲る。質問には全て入っていくつもりだが、その為の基礎知識の土台を作り上げなければならない。

 1-4

 次回は更に物質の本質から始められるが、今回はその導入として、この相互作用についてのイメージに実際に導くものを示す。そのためには人智学から、人間の本質を真に捉えるのを試みる必要がある。

 まず概略図で表わすことになるが、人体の三分節化として述べてきたが、物質空間のなかに実際に凝集している状態に、今回は注目する。神経-感覚を全体から区別するとき、神経-感覚は主に頭に集中しているが、実は頭だけでなく、全体に拡がり、存在している。

 頭に最も多く神経-感覚があるが、全体が頭ともいえ、ただ他の2つ(胴体、四肢)では、頭よりは、神経-感覚が少ないが、その分の頭でもある。だから、神経-感覚系と呼ぶのは、頭(という場所)に限局している。

 今回の目的の為に、以上のような人間の三分節化を実り多くするには、呼吸‐循環を包括するリズム律動系を、同じように2つに分けて考える必要がある。呼吸系への傾向を多く持つ活動部と、循環系への傾向を多く持つ活動部である。そして、この循環系のなかに、代謝と四肢との関係が組み込まれている。

 ★       ★      ★

 唯物論から脱却すべし。





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Last updated  2017年08月17日 20時47分53秒
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