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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2018年05月02日
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カテゴリ:よもや話
このところ忙しくて、人智学的医術の紹介も中途半端で終わってしまっているが、そのうちまた続けたいと思う。唯物論に洗脳されている現代人には理解不能で、思考停止に陥ってしまうので、現代では曲解されている古代ギリシアの哲学から、少しづつ解き明かしていきたいと思う。

それと、「ギリシャ哲学の光学という分野と量子力学の観測問題の関係と、エーテルに関して記事できたら」というコメントを戴いたので少し書いてみたい。

まず、有名なソクラテスの無知の知だが、現代では曲解されている。ソクラテスの無知の知を、自分は無知であることを知っている分賢い、という謙遜の意味で、解釈しているが、それでは優等生の答えで、80点はとれるだろうが、100点とはいえない。

それでは、ソクラテスが無実の罪を着せられて、悪法も法なりと説いて、毒杯を飲んだ生きざまが解釈できないからである。

つまり、結論からいえば、ソクラテスは霊能者で、唯物論の知識をいくら集めても、霊能力を身に着けることはできないのを、無知の知で説いたのである。ソクラテスは、霊能者になるには、有能な師につきなさいといいたかったのである。

実際にソクラテスは当時のいろんな知識人に出会っているが、ついには自分の霊能力に匹敵する者がいないのを知って、嘆いたのである。だから、ソクラテスは怨みを買ったわけで、歴史に名を残すために、あえて毒杯を飲んだのである。

ソクラテスは、物質的な死はただ肉体を失うだけと知っていたし、悪法も法なりと言ったのは、法を守る重要さを説いたので、つまりソクラテスのいう法はカルマの法の事で、この世から去る死刑は確かに悪法だが、あの世からみれば、それも法、つまり運命である、といいたかったのだろう。

キリスト=イエスが、「エリ、エリ、ラエマ、サバクタニ」と言って肉体の死に臨んだのと同じで、これも曲解されているが、本当は、「父よ、わが主よ、私はこの肉体の死を経験するために、生まれてきた」という意味なのである。

ソクラテスは、自分は霊能者で、あの世も見れるし、あの世についても知っているが、物質界に執着し、物質的権威をふりかざそうとも、天国は揺らぎもしないし、物質界の知識はいずれ物質と共に崩壊し、無意味なものになると、当時の知識人を非難した。

つまり、物質界に溺れる者は、死と共に物質的知識の消滅の元に崩壊する、と断言したのである。現に歳をとるほど、記憶力を失い、特に名詞を思い出す事ができないのを誰もが感じるはずである。これは肉体から、エーテル体が歳をとると共に分離してくるからである。

名詞とは逆に、動詞、つまり過去の体験などは割と思い出してくるはずである。エーテル体が肉体から離れるときに、過去の体験を思い出すからである。だから、昔の人は、霊を語るのは名詞ではなく、動詞や体験で語るべきである、つまり死者は名詞で語るのではなく、動詞や功績で語るべきだから、仏教では戒名みたいなものができたことがわかる。

老人になると、精神、特に感情がどことなく子どもになるというのも、肉体とエーテル体の分離からわかるし、そのために、病気にもなりやすくなる。

さて、話が少しそれてしまったが、古代ギリシアの光の話といえば、現代でいう電磁波の光のことだけではない。宗教でいわれる霊光のことも含むし、簡単にいえば、叡智の事である。

叡智とは、一言でいえば、悪を善に転換する行為のことである。数学風にいうなら、変換式である。負のエネルギーを正のエネルギーに変える量子力学のディラックの方程式がお馴染みかもしれない。実際に、素粒子物理学の場の理論は、ディラックの相対論的量子力学の方程式を、ゲージ理論にして、量子の海を空間の場の理論に拡張したものだからである。

そこで、量子力学の観測問題は、どうなるかというと、有名なシュレディンガーの猫という思考実験が挙がるが、これはもう唯物論では答えがでないもので、アインシュタインが「神はサイコロを振り給わず」といって批判した確率なんていうインチキをもちだしているが、物質を確率で、いまでは脳で解釈しようなんていうのは、ソクラテスの無知の知を冒涜する知の崩壊を現しているわけで、現代人は脳の奴隷となっているわけである。

では、どうしたらいいのかといえば、並行宇宙で考えたらよいのである。現に、観測者の思考のなかには、猫が生き続ける世界と、猫が死ぬ世界が共存しているわけである。

あなたは道徳的に、どちらを選びますか?

というわけなのである。つまり、どちらの世界が、幸せに暮らせますか?

というわけなのである。勿論、観測者としては、どちらの立場も選択できる。アルファ線の感度を上げれば、猫を殺せるし、感度が鈍い測定器なら、猫は生きながらえる。

人間としてあなたはどちらを選択するのですか?

科学の実験のために、猫の生命を犠牲にするのですか?

倫理はどうなるのですか?

このような問題は、観測者の人生を全く無視して無機質に特定の部分だけを取り上げているので、思考の遊戯にはなるが、ソクラテスが無知の知で説いたように、無意味である。

生命と物質とを同等に語り、その違いを問題にしない知識というのは、もはや叡智とはいえない。

つまり、何がいいたいかというと、現実の世界をどちらの、猫が死ぬ世界か、猫が生きながらえる世界か、に近づけるのは、観測者という人間の選択の問題なのである。

前者のように、ミクロの世界をマクロに拡げて、原子爆弾を使って権威の、悪魔の地獄世界を召還するのか、はたまた、後者のように、ミクロの世界をマクロには拡げずに、自由な精神を精神の領域にとどめ、物質界を共有共存させる世界を召還するのか、それは人間自身の倫理や経験に帰するのである。

以上からわかるように、前者は闇で、後者は光である。そして、前者は静的で、後者は動的である。

実はソクラテスの無知の知とは、後者の動的な知識こそ、あの世の知識で、前者の静的な知識をいくら集めても、無意味で、闇であるということなのである。

第一、前者は、生命は他の生命の犠牲の上で動的に成り立っている、のを忘れているし、箱のなかに猫を閉じ込めるのは、そもそも虐待である。

思考実験は思考実験にすぎないのである。

そして、エーテルとは何かといえば、静的な安定した物質ではなく、現に物質が安定状態でいられるのは、絶えずエネルギーを吸収しているからで、エーテルこそ、物質を安定状態にしている、陰のエネルギーで、目にみえない非物質な存在である。

つまり、猫を生かしている生命体が目に見えないエーテルであり、毒で猫の肉体、つまり、ソクラテスの肉体を殺しはしても、ソクラテスの霊魂は、哲学として、現に今も生き続けているので、ソクラテスの無知の知について、知りえる機会が与えられているわけで、本物の無知の知を知るべきなのである。

猫を殺すと祟りが怖いぞ。シュレディンガーの猫の祟りこそ問題にすべきだろう。

立派な御託を並べても、日頃のその人の行いこそ問題にすべきである。東洋にはまだこの評価が残っているが、物質主義に走り、近ごろ失われた。

経済知識を振りかざして、差別し、弱い者虐めする経済偽学者が横行する現代こそ問題である。年収で差別する社会を、古代人は笑うだろう。なぜ富める者は、貧しき者に施さないのだ?と、そのまま地獄に堕ちるぞ、とね。

地獄の沙汰もカネ次第で、カネを施さないと地獄に行くよとね。

今日のところは、以上でやめるが、以下にお勧めの本を紹介する。

私は、この本を読んで、ヨガは世我だと思った。つまり、この世を自分のように思うことだと思った。この世全体を自分のように思う事、つまりこの世=私である。

とすれば、この世のどこかで闘争が起きれば、私は痛く感じ、悲しいわけである。また逆に、どこかの暮らしが安定して平和なら、嬉しくて楽しい感じがするわけで、常にこの世の出来事を自分の事のように思う感性が、ヨガの境地だと思うのである。

というわけで、紹介する。

 ヨガの喜び 沖 正弘著





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Last updated  2018年05月02日 23時11分02秒
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