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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2018年08月09日
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カテゴリ:軟弱日本を斬る!
忙しくて、日本の大ボケ政治と同じでほとんどほったらかしのブログだが、久しぶりに書きたい。オカルトで、宗教とは、英語のreligion、つまりre=再び、ligion=つながる、という意味があり、神と再びつながる教えが、宗教なのである。

 だから、神と再びつながる教えが、宗教で、教育のはじまりなのである。

 しかし、前回も述べたように、人間の自我は進化し、大我の神から分裂して、個人的な自我を獲得するようになった。この事は、聖書には、エデンの園の中央にある木の実を食べてしまって、神から離れた、と記述されている。

 つまり、簡単にいうと、人間が個性をもつことで、自分の自我が大我、つまり他の自我とも大きな集合体としてつながっているという意識を同時に失ったわけである。

 自分は他とは違う、という俗にいう知恵の実を食べてしまったから、自分は神とは違うし、自分がもはや神の子だとは信じられなくなってしまったわけである。

 肉体に霊魂が宿ることになって、個人的自我が生まれたのである。ソクラテスの時代は、現代人のように、霊魂が完全に肉体のなかにおさまっていなかったのである。
 
 霊魂が肉体を経験することで、個人的自我を経験するのである。それはいわば、仮説を立て、実験し、仮説を実証する、のと同じである。

 我思う故に我あり、とは、我は我という肉体に宿り、肉体で行い、経験することで、我がある、とわかる、になる。

 だから、自分の過去世と似た両親の境遇を探して、自己表現するために両親の子どもとして生まれてくる。両親と似るのは遺伝子のせいではなく、そのような遺伝子をもつ肉体を選んで生まれてくるのである。自らで遺伝子を選択したから、その遺伝子に似るのである。

 我という経験を蓄積することで、はじめて我がある、つまり個人的な自我が確立するのである。だから、まだ赤ちゃんは自分の肉体で経験しないうちは、自我をもたないし、人間は死ぬと、間もなく、我という自我意識を失っていくのである。子どものうちに過去世を思い出すのもまだ今生の自我が確立していないせいである。

 肉体から霊魂が離れるときに、自我を反対に経験するので、つまり自分の行いを逆に経験するので、写真のネガとポジの関係と同じで、我という意識を他者側から経験するので、我という意識をもたなくなる。

 我という意識を失うが、我がなした行為を他者側から経験するので、その行為を我と認識するというのである。

 この意味が転じて、情けは人の為ならず、という諺になった。要するに自業自得ということである。

 自分が他者にした行為が、次の自分をつくる、のである。

 さて、この観点からみれば教育とは自ずと明らかとなるだろう。

 来世の自分をつくるために、今生で自分がすべきことをみつけ、行うことである。

 だから、カルマの法則を知るのは非常に重要なのである。

 前回、日本の教育には、自己表現の機会がほとんど皆無である、と紹介したが、それは、一言でいって、日本の教育者は教え過ぎ、にみえる。恐らく、日本の教育者自体が、自己表現の機会がほとんどなかったせいに思える。

 それは特に語学力に現れている。日本ぐらい外国語の教材が多い国も珍しいように思うが、白人をみると、ハローと挨拶し、黒人をみると皆ラッパー、と思ってしまうくらい画一化されている。最近は矢鱈にネイティヴを強調するのもアホらしい。

 日本人のネイティヴは、外国人が関西弁を話すくらいの違和感があるはずである。

 それはさておいて、はじめから完全な言葉を話そうとするあまりネイティヴに拘っているようにみえる。はじめからハードルを上げてどうするのだろう。誰もは、はじめは母国語に近い外国語を話しているうちに、自然と、ネイティヴになっていったはずである。別にネイティヴでなくても自己が表現できたら、言葉を職業にするのでなければ、後でついてくるものだろう。

 大体、教科書からして、THIS IS A PENからはじまった古い骨董品モノを数十年前まで使っていたのだから、この国の外国語教育のお粗末さが現れている。

 また昨今では、英語をはやくから習わせる早熟教育が流行っているが、これもこの国の教育のお粗末さを露呈している。英語がはやくから身に着けば便利だと早合点しているのである。

 例えば、この国で、外国人が犯罪を犯した際、日本語が読めなかったから、という理由を持ち出すことがある。日本の風習がわからなかったという理由を持ち出す外国人もいる。外国語ができないのは、別に恥じることではない。だからといって、犯罪の理由に持ち出すのは問題だが、下手な日本語を商売にするタレントもいるわけで、つまり、個性が言語表現を上回れば、言葉の間違いなど取るに足らない。

 三船敏郎氏が、流暢な英語をしゃべったので、サムライのイメージが崩れて、かえってがっかりしたという逸話もある。恐らく、当時、サタデーナイトライヴでやってたジョンベルーシのサムライ英語を期待したのかもしれない。

 つまり、表現力が巧みでも、それが誰かの物真似で、個性のオリジナルがないとダメなんで、オリジナルの個性を磨くにはやはり母国語でなくてはダメなのである。

 というのは、肉体を使った行為によってオリジナルの個性が体験され、経験として蓄積されるからである。だからはやくから外国語を習わせると、下手するとアイデンティティを失って、非現実な個性、妄想に近い特異な個性を、虚に近い、実社会から孤立せざるをえない個性を生み出してしまう恐れがある。

 この事は、帰国子女によくみられる現象で、社会不適合になりやすくなる。それは実際に肉体を動かして表現した個性ではなく、借り物なので、現実か妄想かの区別がつかなくなる。だから二重人格性を孕んでしまう恐れがある。

 とにかく日常生活で体験する母国語で自己表現する機会を育まなくては、中年ぐらいになると、関節炎などの肉体の柔軟性を失う疾患に罹りやすくなると、シュタイナーは人智学で説いている。

 シュタイナー教育は、このような事が盛り沢山語られているのだが、要は、次の転生に備えた、現世での霊魂の自由な自己表現の確立を目指す教育なのである。だから非常に芸術的である。

 というのも、自己表現は、芸術であるからである。万人が認め得る自己表現が芸術である。

 さて、日本の教育が教え過ぎるというのは、この早熟の英語教育に現れているように、個性もないうちから、表現法を教えるのがよくないわけで、子どものうちから既に大人の賢さを教えることで、個性を摘んでしまっていることに気づいていない愚かさにある。

 シュタイナー曰く、早いうちに知恵をつけさせるルシファー的な教育なのである。そして、なんでも機械的に自動的に考える習慣、例えば、早期に確率などを教え、子どもを怠惰にさせ、老けさせるアーリマン的な教育になると、無責任な幼児のような精神の大人を産んでしまうのである。

 子どもにはその成長に見合った立場をあたえないと進化の上下関係が身に付かない。
 
 子どものうちは、生命が危険に曝されない程度に、失敗をさせて、とにかくチャレンジ精神、肉体を動かす素養を育てるのがよい、というのである。子どものうちから天才はダメなのである。それは単なる早熟にすぎないからである。

 もちろん、子どもは霊界のものをそのまま携えているので、誰もがそれをそのまま表現できれば天才になれるが、それは肉体に転換してはじめて、自我の個性をつくり、その個性で、他者に喜びを与えたら、その喜びが、次の転生の自我をつくるのである。

 そういうカルマの法則がわかってないで、教育するのでは、教育しない方がまだマシである。

 さて、少し話が変わるが、なんでも、いまの20代は「下積み」をしたくないらしい、という記事をヤフーニュースでみかけたが、下積みなしで、地盤をつくりたいなどと、下積みが地盤なのに、地盤は欲しいが下積みは嫌だと矛盾を言っているようである。

 よくよく記事を読んでいると、どうも、数年働かないと、就職に自信がもてない、というらしい。これも、ネイティヴを話せなきゃ、外国語教育を受けたくないと同じ幼稚な発想なのである。

 自分という個性がないから、このような矛盾に気づかないのだろう。

 社会というのは、自分の表現の場でもあるが、それにはまず自分の個性を社会に認めてもらわないといけないわけで、その名刺代わりになるのが下積みである。名刺でお終いじゃないのである。これは多分、恐らく自分で稼いだ金銭で生計を立てて来ずに、親がなんでも買い与えてある程度恵まれた環境で大人になったせいに思われる。

 現代は、金持ち地獄行き社会なので、カネがあれば、ある程度恵まれた地位に就くことはできるが、人生というのは、何を学んだかが重要で、他人から奉仕され、恵んでもらう楽な地位に甘んじているのでは、いかに御釈迦様でも出家できずに、悟られなかったわけで、そういうないものねだりをしているのでは、ますます人のこころを見透かすことは不自由になるだけである。

 確かに、日本の教育は古臭く過去の遺物だが、唯一、忍耐力を養う点においては、秀逸である。こんなに虐げられても、税金でぼったくられて、死ぬほど働かせられて、米国偽ユダヤにみつがされても文句をいうどころか、自分もその悪党一味に加わろうと、権力者に忖度しまくって、革命しようという気概など皆無で、猫のように飼いならされ、犬のようにジャパンハンドラーズに牛耳られて、亡国の道にまつしぐらである。

 これがヨーロッパの個性的自我をもつ先進国なら、即座に政権は打倒され、市民革命が勃発していただろう。

 この国の精神は中世と同じで、とにかく忍耐力の教育だけは、根性論としていまだに通用している。年功序列などは、米国ではとっくに年齢の差別問題化なのに、いまだに罷り通っている不思議である。年齢が高いほど問題解決能力が高いとはいえない。

 人生を送ってきた時間は多いだろうが、何も学ばずに、他から与えられてきたのでは、植物状態になって栄養を与えられているだけの人体とかわりがない。次の転生の自我がつくれない。

 現世で自我が他に与えた分が、来世の自我となる。

 キリストは、あなたの自我を与えなさい、といったはずである。

 忍耐力は確かに重要だが、それは他に喜びを与える場合である。創造の苦しみに対する忍耐なら歓迎だが、単なるハラスメント、怠惰な精神の持ち主の権力者などを甘やかせるのではその権力者とともに地獄に堕ちるだけである。

 教育の本義をいま明らかにすべきである。

 蛇足だが、私が大嫌いなホリエモンが「すし屋で10年修行するのは無意味」といったことが教育論で語られていたが、そりゃホリエモンの人格からすれば無意味でしょうね、と妙に納得してしまった。そういうことをいうことすら幼稚な精神性を感じてしまうだけである。

 機械でつくれる寿司は確かに食べ物でしょうが、芸術とはいえないよね。それは、結局、植物状態で生かされる栄養でしかないわけである。だったら、ビタミン剤で生活しなさいよ、と言いたいですね。そんなことは野暮でしょうが、どんな職業でも究めれば芸術になる、という観点が教育の面から抜け落ちているよね。

 それに、人間味というのを忘れている。第一に画一的で個性がない。人生をかけて握る寿司はその人の個性がでている。そういうのを感じ取れる情を江戸時代では粋といったわけです。

 職人の世界には、肉体の行為に、どれだけ人間の精神が表現されているか、自己表現ができているか、を問うているのがわからないのでしょう。機械をつくるのは人間で、機械は人間の進化を前提にしているわけで、そういうと機械も進化するといいそうですが、人間の精神を進化させないものは退化なんだよね。

 だから、職人の世界は無暗に教えません。自分で下積みをしてその域に達しないと一人前にはなれないわけです。人生の苦難をしらないと一人前とはみなさないのです。
 
 そういう人生の苦難を知った人間の精神のやり取りに意味があるわけで、いかにAIが精神に類似するものを表現しようが、それは人間の芸術とはならないわけなんだよね。機械は輪廻転生できませんからね。

 正解をこれですよと洗脳して教えるアーリマン的教育が全盛の時代ですね。こういう失敗を知らない世界は、ただ堕落して年老いて崩壊する動物の世界と同じです。だから、獣の完全性をすぐに求める666の世界と黙示録に記述されています。666の地獄に堕ちます。

 正解は誰かに与えてもらうのではなく、自分が誰かに与えて出すものなのです。その答えは、来世にあります。

 寿司職人が寿司で他者に喜びを与えた分が、来世に、喜びからなる自我となるのです。





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Last updated  2018年08月09日 23時52分25秒
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