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カテゴリ:軟弱日本を斬る!
NHKの「世界の哲学者に人生相談」は非常に面白いので、毎回みていたが、この間、シーズン2が終了してしまった。
このブログにも書いてきたが、日本の社会には哲学が欠けていると思う。哲学は簡単にいえば、自由な見方だと思うが、日本の社会は確かに便利だが、その反面、不自由さを感じる。特にバブル期から不自由さが際立つようになってきたように思う。 日本の社会には上下関係というのが伝統として強く残っているようで、それが不自由さを醸し出している。勿論、上下関係という秩序が必要なときもあるが、必要以上に幅を利かせているような気がしてならない。 この国では大宝律令と呼ばれるカースト制度により、上下関係がつくられ、中世では貴族武士階級が上下関係をつくっていたが、無礼講というのが必ず設けられていた。お祭りなんかはその原型だが、上下関係を無視することが自由につながっていたように思われる。 忘年会というのも、本来は、年齢や役職の上下関係をなくし、自由に楽しむことが重要なのであり、それが自由な見方である哲学を生んでいたように思われる。 前回書いた、芸人へのコンプライアンスなんかも、不自由さを生んでいるように思える。社会を客観視するには、社会からはみ出てみないとわからないことがある。勿論、社会からはみ出るまでもなく、外国に行くことや、職種や立場を変えることからも、ある程度、不自由さを感じることもできる。 何が自由かはなかなかわからないが、この間の「世界の哲学者に人生相談」で紹介されていたデリダの「脱構築」という思考方法は非常に参考になり、日本の社会に欠けているものに思えた。 「脱構築」とは、従来の二項対立に対して、例えば、上、下の二項について、上を優、下を劣にしている従来の見方に対して、疑問を投げかけ、劣の方に重点を置き、自由な見方を求める思考方法である。 上は下があってはじめて上なのであり、例えば、頭は足がないと移動できないし、また足は頭がないとどこに移動するかわからない。つまり、その関係は不可分だが、そこに優劣があるわけではない。 上下は関係となって不可分なので、そこに優劣をつけるのがおかしい。 頭が行き先を間違えると、足は無駄足を費やされるわけだが、頭が馬鹿でも、足の運動力が良ければ、頭の悪さをカバーできるし、逆立ちすれば、足が上で、頭が下になっているわけで、実際、植物はそのように存在しているとオカルトでは定義されているわけで、上下の決め方も画一的であってはいけない。 日本社会に住むと、画一的な見方を強いられることが多い。特に先輩後輩の上下関係などがそうで、なぜだか、先輩は必ず偉い存在とされているのがなかば仕来り化している。だからお笑いには、上下関係を逆手にとった自由な見方が基本ベースとしてある。 上下関係は、この世での経験量を基準にしているのだが、確かに人生経験では、年齢が漠然とした尺度になるだろうが、細部にわたった分野によっては大きく異なるわけである。それに上達度もあるし、努力量もある。 若い時自分はこうだったといっても、時代が大きく異なるわけで、今生きていることにおいては対等の関係なのである。だから、オカルトでは、今生の人生経験だけを問題にはしない。魂のうえで老いている子供もいるわけである。 だから、子供の意見を受け入れないというのはよくないわけで、大人が多数で、多数決といっても、少数意見に耳を傾けないといけないわけである。貴重な意見を黙殺していることにもなる。 なにより社会はできるだけ万人の意見が受け入れられるように変わっていくべきなのである。勿論、道徳的にみて受け入れられない意見、人殺しなどは断じて拒絶すべきである。自由といっても、人倫に反するものはダメである。 人殺しがダメなのは殺される人の気持ちを理解していないからである。 少し話が逸れてしまったが、とにかく日本の社会には画一性が蔓延っているので、つまり差別が蔓延っているので、脱構築が必要だと思う。書きながら、TBSの「爆報フライデー」をみていて、そこに81歳の原宿のイラストレーターが、この脱構築を実践しているのに驚かされた。 高齢化社会と悪しき代名詞で呼ばれるが、高齢が劣などという見方こそ変えていくべきだろう。年齢に関係なく、現代の日本社会をつくっているのは今生きている人々なのである。 外見に囚われずに、人格をみる社会をつくっていくべきだろう。老いているから劣なのではなく、本当の魂、魂の上では高齢者である存在をみるべきである。 老子の老とは、魂の上で、老いているという意味なのだと思った。それは常に脱構築を続ける。つまり悪のなかから、善に脱構築することで、善は初めから善ではなく、悪から善に転じるのが善なのであると思わされたこの頃である。 善は悪と不可分なのである。 日本社会は脱構築していない。脱皮しなければ終わりである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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