2021/03/04(木)22:17
ネット情報の活用法 その1496
久しぶりに書きたい。長らくシュタイナーのお話をしてなかったので、今回はやります。
シュタイナーの人智学を学んでいると、人間は神の一分枝であることがわかります。
神の一分枝とは、現代風にいうなら、神がサーバーだとするなら、人間がその一端末という感じです。神というネットワークのなかの1つの端末パソコンが人間という感じだと思います。
聖書の創世記では、ぶっちゃけ神のコピーとして人間がつくられた、と書いてありますが、神のミニュチュアというか、神パズルの1ピースという感じに思われます。
さてまぁ、なんというか、そういう話が、「シュタイナーの心経」を読むとわかるので、以下に紹介しながら、補足していきたいと思います。
人間は、神の1つの記録媒体のようなものです。
では、紹介します。
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肉体は、人間の一部にすぎない。人間の肉体は、物質界の崩壊(の法則)に対して戦う生命力に浸透されていないと、死体となって崩壊する。
だから、生命力が、人間の第二の部分である。人智学では、生命力をエーテルと呼んでいる。生命力からなるエーテル体は、肉体の上部、つまり頭部では、肉体とほぼ一致しているが、下部にいくにつれ、つまり手足や腹部では、ほとんど一致しない。
また肉体とエーテル体は、左右逆になっている。また男性のエーテル体は女性的、つまり陰的で、女性のエーテル体は男性的、つまり陽的である。だから女性の方が生命力が強い。
ぶっちゃけ、男性の肉体は筋力に富み、直線的だが、エーテルの生命力、構築力、つまり柔軟性に乏しく、怪我しやすく、脆い、だから、男性の肉体には子どもを宿せない。
対して、女性の肉体は柔らかく、エーテルの生命力に富むために丸みを帯び曲線の形態となる。筋力に乏しく、弱い反面、生命力、構築力に富むために、子宮に子どもを宿すことができる。
健康な人の生命体、つまりエーテル体は桃花色にみえる。
さて、人間の第三の部分は、心である。人智学ではアストラル体と呼んでいる。というのは、アストラルとは星の意味で、楽しみ、苦しみ、喜びなどの心の変化は、星の輝きの変化のように、霊能者にはみえるからである。
ちなみに、ゾロアスターは、アベスタ語のゾロ=輝く、アスタ=星の意味である。ゾロアスタは、太陽のなかに、輝く星=救世主をみたので、ゾロアスターと呼ばれた。人間の思いは、絶えず変化するので、宇宙の星のように変化する。
だから、心を読むことは、占星術にも通じる。霊能者にとって、読心術は占星術なのである。
人間の第4の部分は、魂である。魂の中心は、松果体にあり、青白く輝く球のようにみえる。
肉体の修復が不可能と魂が悟ると、死を迎え、肉体から、生命体が離れる。生命体は、肉体の破壊を修復してきたので、つまり、肉体の活動の記録媒体でもあり、死の瞬間、過ぎ去った人生が、走馬灯、映画のように、魂=死者の前を通り過ぎる。
生命体は、体験の記憶の担い手となり、もはや破壊された肉体を修復することなく、肉体から離れ、解放されるからである。
地上の肉体生活から解放され、その執着から離れる時期が始まる。
仏教でいう7×7=49日のことである。これは地上生活の1日の49倍ではない。日=デイの本来の意味は、太陽霊との出会いを意味し、本来は、日=神に出会う期間の事である。
だから創世記の「7日で世界ができた」というのも、地上生活の7日ではなく、7神により人間の世界ができている、という意味である。
人間に関わる世界は、7神によりできている、という意味なのである。人間の上に、7神の領域がある。ちなみに1つ上の神が「天使」と呼ばれる存在たちである。
だから、49日も地上生活の49日ではなく、肉体から生命体が離れるのに7段階があり、生命体から、心=アストラル体が離れるのに、7段階あるという意味で、魂によっては執着があると、49段階を超えて、天国に行けないわけである。
つまり、肉体を離れ、生命体を離れ、更に心を離れて、全くの純粋な魂だけの存在になってはじめて、仏教の説く仏や解脱という段階に達するわけである。
人智学でいうなら、魂だけの存在を、自我だけの存在、霊と呼ぶ。
自他もない、もはや自=他の全き霊体である。
さて、地上界の乗り物の肉体を離れても、その乗り心地は、つまり人生の体験は、心のなかに残っているので、また体験したいと思っても、もはや肉体である乗り物がないので、その願いは叶わないものとなる。
この願いを手放さない限りは、煩悩の49日が続くわけである。この時期を人智学では欲界、つまり地獄と呼んでいる。
地上生活への執着、有体にいえば、地上での自分という体験に拘っている限りは、この地獄界を抜け出すことはできない。地上のモノへの執着は、結局は、自分という執着につながる。
これは何を意味しているのかといえば、地上で自分をみつけて、その自分から自由になれ、ということに尽きるのである。
自分をつくっては壊し、また新しい自分をつくっては壊し、より自分らしい、より世界に適した自分に変わっていく、ということなのである。そのために、人間は何万何千と輪廻転生し、相応しい自分となる。
逆説的だが、自由を知るには、不自由にならないとわからない。
自分をつくるには、自分で壊さないとダメである。
その自分は、実は、他者や世界全体の精神的な向上に意味をもつものでなくてはならない。
これは地上界のことではなく、地上界という底辺から、自分をつくり、その自分の地獄界に入り、その自分から解放されて、もはや過去の自分ではない自分を、世界に意味をもつ自分をつくるということなのである。
自分を第3者になって観察してはじめて、自分がわかる。自分になり切る自分となりきれない自分の格闘のなかで、融合し、自分となる。
「自分」という感じは非常に不思議である。自を分ける。分けられない自を分けるわけで、1を1に分けても1であれということなのである。
他=自となる自分をみつけろ、ということなのだろう。
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途中で脱線してしまったが、また続ける。