2023/08/17(木)16:03
ネット情報の活用法 その1664
以前、人間の脳は、思考を汲んでくるバケツにすぎない、のを紹介した。シュタイナーによれば、エーテルが思考を担い、人間は、周辺の事物から、エーテルを取り出して、脳というバケツに入れて思考しているという。
だから、人間は思考しているのではなく、思考の影を追跡しているにすぎなく、それはプラトンのイデア論でもわかる。
イデア論 - Wikipedia【プラトン】イデア論、洞窟の比喩とは?わかりやすく解説 | カジドク|家事と読書 (atsukuteyurui.com) プラトンのイデア論は、洞窟の例えで有名だが、それは、人間が洞窟のなかの囚人と同じで、洞窟に入ってきた実体の影だけしかみえない、というものである。この洞窟が物質界、実体がエーテルと考えれば、人間は思考の影を追っているにすぎない、のがわかる。
最近、巷で面白い記事をみつけた。それは、日本ではほぼ誰もが知る大谷選手の人気を、アメリカではどうなのか、アメリカ在住の芸人に聞いてみたら、それほどでもない、という応えが返ってきた、というものである。というのは、アメリカでは、野球よりも、バスケやアメフトが人気で、野球の人気は低迷しているので、野球選手の人気はあまりない、というわけなんである。
所変われば品変わる、というように、日本での人気がアメリカまで届いている、と思う方がどうかしている。このような錯覚、錯誤は、空気や水のように、自然と犯しやすく、しばしば、物理屋さんも、地球でなりたつことが、月や火星でもなりたつと思い込んでいるので、特に、唯物論に染まっている人の、思考形態ともいえるだろう。
つまり、我々人間は、物質界という洞窟のなかで、射し込む光の影から自然と妄想しているわけなんである。その事を巧く表現したサイトをみつけたので、以下に紹介する。
【マスゴミ】やはりロシア情報は1次情報が一番大事だ! 日本のメディア情報は電通工作された誤った情報に過ぎない! : Kazumoto Iguchi's blog 4 (exblog.jp)
この話は、以下の「群盲象を評す」で有名で、「この話には数人の盲人(または暗闇の中の男達)が登場する。盲人達は、それぞれゾウの鼻や牙など別々の一部分だけを触り、その感想について語り合う。しかし触った部位により感想が異なり、それぞれ、自分が正しいと主張して対立が深まる。しかし何らかの理由でそれが同じ物の別の部分であると気づき、対立が解消する、というもの。」である。
群盲象を評す - Wikipedia
この話の盲人とは、物質界の人間の事で、象はエーテルで、象を触るのは、人間の脳である。人間の脳は、思考の影しか、つまり真実の一側面の断片しかみていないのに、それがまるで全体でもみたかのように錯覚してしまう傾向をもつ。それは以前紹介した、脳の錯視でも明らかだろう。
脳はそのときの感情に左右され、みたものを独断と偏見で決めつけ、みていない部分を妄想で満たしてしまうわけである。自分がみたのは、自分のなかでだけ成り立つ影でしかないので、他の人がみたものと、照合し、つなぎあわせないといけない。
つまり、少なくとも、物質界での断片を集めて、パズルのピースとして全体像を組み合わせてはじめて、思考というイデア生命体の足跡から、その生態が明らかになるのである。このイデア生命体とは、人間のカルマの事で、その人生の真実である。だから、各人において、各人の十人十色の真実がある。
だから、感情に左右されずに、冷静になり、お互い共同で、思考の足跡を辿って、思考そのものに遭遇しないと、生きた思考を掴む事はできないのである。それは物質界の動物の観察と同じである。動物と共に暮らさないと、その動物を掴む事はできない。知識だけでは、単なる足跡を集めただけで、それは死体のコレクターでしかない。
自分の人生であっても、それは自分だけのものではなく、他の人と共同で、自分の人生の真実を見つけ出さないといけない。だから、他に成した自分の行為は、自分の人生として、次に返ってくるわけなんである。
人間は独りで生きているわけではない。
そのような話を、数学について語っているのを、巷のサイトに見つけたので以下に紹介する。
9_3niwa.pdf (tsuda.ac.jp)
シュタイナーによると、地球紀の現代人の課題は、マナス=霊我を獲得する事であるという。マナスは、人間のアストラル体の欲望を、自我が制御しつくし、克服して初めて獲得される。つまり、感情のコントロールが、特に恐怖心の克服が求められる。
人間がマナスを獲得する事を、キリスト秘教学では、聖霊と呼ぶ。平和のシンボルの白鳩である。つまり、聖霊は白鳩が象徴である。シュタイナーによると、キリスト秘教学は、古代エジプトの秘儀の伝承からきているという。
Pentecostes 聖霊降臨祭|Kimie (note.com)
聖霊により、霊と物質の対立が和解され、群盲たちは、真実を知り和解するのである。この群盲たちの和解が巧く描かれている、ある映画のシーンを、私は思い浮かべる。その映画とは、「フォレストガンプ」である。
フォレスト・ガンプ/一期一会 - Wikipedia
主人公ガンプと、その隊長ダンの人生のやり取りが面白い。ガンプは知恵遅れとみなされ、他から馬鹿にされ、過酷な人生を送るが、本人は全くそのことを気にせず、ただ母親の教えを守って生きる。対照的に、隊長ダンは、軍人の家系に生まれ、指導的な地位を与えられ、賢さを地でいく人生を送るが、戦争で、足を失ってしまい、ガンプに命だけは助けられ、神を恨んで暮らすようになる。
しかし、隊長ダンは、ガンプの過酷をなんとも思わない生き方をみて、あるとき、自分の賢さが、愚かさであるのに、気づかされる。そして、「ダン隊長は、恐らく、神と和解した。」のだとガンプが語るシーンが印象的だった。
「人生は、沢山のチョコレートみたいなものだ。食べてみるまでわからない。」というガンプのフレーズが印象深く面白い。ブルースリーの、「考えるな、感じろ」に似ている。
ブルース・リーが遺した28の名言「事情なんてクソ喰らえだ。オレはチャンスを創る」 | TABI LABO (tabi-labo.com)
人間の思考は、本物の思考の影にすぎない。それは話されている言葉ではなく、生きている言葉ではなく、死んだ言葉なのである。だから、ブルースリーは、考えても仕方がない。いま、生きている思考を感じろと述べたのである。
幸運の女神には後ろ髪がない、というように、神に出逢うには、神の言葉を聞くには、正面に向かわないといけないわけである。だから考えるのではなく、先回りを、準備をしろというわけである。感じる体制を整えろ、というわけで、それが、霊眼であり、マナスなんである。
要するに、先見力や、預言力を磨けというわけである。それが感覚を研ぎ澄ませ、ソクラテスの無知の知を知る事なんである。思考の影に囚われるな、である。影をつかんだら、すばやく捨てる事である。
古代エジプトの秘儀では、聖霊降臨し、マナス=霊我を獲得した者だけが、ピラミッドに入り、師である祭司から、次のブッディを獲得するための教えを受けた、次に、マナスが、エーテル体を純化させれば、ブッディとなるわけである。ブッディは、キリスト秘教学では、ロゴス=霊言であり、子と呼ばれる。
そのためには、3日3晩埋葬され、死なないといけない。だからピラミッドは、墓ではなく、秘儀参入の場なのである。つまり、現代でいう道場である。霊言=霊語を学ぶので、語学学校ともいえるかもしれない。
つまり、ピラミッドは、人体的にいうなら、呼吸により、エーテル体と肉体の関係を柔軟にするヨーガのような道場で、精神的にいうなら、霊語を学ぶ学校といえるだろう。その光景は、人体を埋葬し、交霊術を施すので、一般人には理解不能となるだろう。
ピラミッドのような神殿は、現代でいえば、人類の進化計画の学校なんである。
さて、現代人が、自我の欲望を克服し、純粋な霊我にし、聖霊が降臨すると、古代エジプトの秘儀のように、物質界=鉱物界を卒業し、次のエーテル界=植物界に、エーテルを探る旅に出ることになる。
人間の自由は、ルシファーから与えられたが、その自由のなかには、欲望が混じり込んでいるので、欲望を取り除き、純化して、自由を愛に変えていかなければならない。
人間以外の存在に、自由な意志はない。自然の物質には選択肢はなく、条件が整えば、変化せざるをえない。つまり、人間だけが、ある程度、思い通りに生きられ、善と悪を判断できる。動物は人間のように判断できないので、群れをつくり、群れの流れに身を任せる。それは、判断しているのではなく、自然の流れに身を任せているだけにすぎない。
人間だけが立ち止まって考え、判断できるが、それは善悪を判断するための覚醒意識をもったためで、物質界という洞窟に退避し、自然の流れを、第三者として傍らでみれるようになったためである。しかし、それでは、思考そのもの、生きた思考の影しかみえず、その後を追うだけでしかない。
物質界という洞窟に深く潜っていくには、振り返ってはならない。思考の影に囚われてはいけない。思考の影に囚われると、地獄、奈落の底に堕ちてしまうからである。
地獄や奈落の底を、マナス=霊我で照らし、光り輝くために、シュタイナーの人智学的医学を紹介する。
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今日、レントゲン(放射線)科学は、鉛の発見のように、地球上で与えられる安定的な金属だけでなく、金属がもつ、地球外からの作用に到達する、という放射線の性質についての素晴らしい指針を提供するが、強制的に教育してはいけない。
この指針こそ、今日重要といえるものである。というのは、今日の新種の病気が発生するときに、その考慮の必要性に気づくからである。
非常に興味深いのは、外界の炭素、水素、酸素、窒素は、硫黄が媒介する相互作用により、人体においては、自我により固有化された4つの臓器に受け取られるようになる事で、このような霊的な観点で人体を観察すれば、深い本質を覗き込め、確実に感じ取れる。
人体のなかの、不随意な、霊的に直接支配されていないように見える活動が、外の自然と実際に関係しているのに、もはや、不思議に思わないだろう。また、次も真実である。
「人体は腎臓を持つようにつくられるが、腎臓は、人体の一部に治まろうとせず、全体になろうとする傾向を持つ。また膀胱-腎、肝、肺、心臓の4つの臓器もそれぞれが常に、全体になろうと努めている。」
つまり、次のような事がわかる、
「腎臓はその機能とともに人体全体になろうとする、心臓も、肝臓も、肺も、人体全体になろうとしている。」
さて、この考察を確かめるには、外の活動を、人体のなかに観察する視点、もっと良く表現するなら、霊的な感覚をもつとよい。この霊的な視点=感覚から、自然科学と人智学との境界が、不可避に、明確に指摘できる。
瞑想を人体治癒的に進歩させて、そのような瞑想によって、人体を霊的に調和させ、その調和を自我で感受できたなら、実際に、具体的な自己認識=客観性を、益々一層獲得できるようになる。この「具体的な自己認識」は、積極的な課題、例えば、自分には何が足りないのか、などが問題になる場合には軽視できない。
瞑想が進歩すれば、以前は全く意識できなかった霊的な感覚が獲得できるようになる。ただ、その感覚については個性的な傾向をもつので、今のところ、公開講演や一般講演などの、公共の場で話すのは非常に困難である。
いま注目した、このような霊的な基本知識が、現在の人類の道徳下で、比較的大きな集団に伝わったなら、安易に、「なぜ霊的な瞑想を活用しないのか?」というような質問が出るだろう。
「霊的な瞑想で、人体が調和に至るのを待つより、あるものが足りないと分かれば、それを与えればいい、簡単じゃないか」、というわけである。
そして、ついには瞑想を省いて、足りないものを外から服用すればいい、その方が遥かに容易い。しかし、瞑想を省き、外から与えると、自我は、それに依存し、怠惰になり、欲望的になり、道徳的に滅ぶようになる。それでもやはり、現在の唯物的で、不道徳な風潮では、この安易な考えに飲み込まれ、瞑想よりむしろ、外から薬を服用するようになっていくだろう。
確かに薬は、当初は、瞑想と似た治癒効果を与えるだろう。実際、瞑想の代わりに薬で人体を治療できる。しかし、瞑想を一定期間継続して、自我の不足分を洞察できる傾向を持つようになれば、通常、モノをつかむ手の感覚や、歩行する足の感覚を意識するのと全く同様に、鉄の放射を意識できるようになる。
鉄の感覚が出現するのは、事実である。この感覚は、通常の、腕や脚、回転などして頭があると、はっきりわかるのと同様に明確である。鉄のファントム(波動関数みたいなもの)と感じる、自我の意識が生じてくる。