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カテゴリ:神秘体験空間
「月曜から夜更かし」は、世間の生活感がわかって面白いので、毎週みているのだが、先日、高円寺に住む若者へのインタビューで、「未来を語るが、明日をみない」という名言に遭遇し、現代社会の特徴、特に政治家を言い表していて面白く感じた。永田町は高円寺と同じ環境なのかもしれないが、高円寺に住む人が妙に悟っていて、若者は高円寺に住み夢を語り、中年になると吉祥寺に住み子育てを語り、老年になると、国分寺に住み成人した煩わしい子離れが一段落し老後を語るという、中央線の年齢に応じた寺移住発言も更に面白かった。
高円寺に住む、その若者によれば、夢を語るだけで、高円寺は人間をダメにする町という自覚をもっているらしく、いつか脱高してやるというような、実際は、明日も高円寺にいるのに、まるで、全く反対の意味で、脱北と同じ表現を使っていたのも、夢を語っているだけで、明日を語らないのと同じで、高円寺にまるっきり染まり切っている、その感覚が、印象的だった。 この国の政治家も、この若者と同じで、米国から独立し、米国に追いつけ追い越せで、いつか日本は世界一になるといいながら、かえって中国に戦後賠償金のように補助金を搾り取られて、中国やドイツに抜かれて、経済は第4位と逆に下降し、GDPも低迷し、賃金さえも、隣国の韓国に抜かれている始末なのである。この国の経済の低迷は、政治家たちの賄賂の賜物以外の何物でもないだろう。 気が付けば、永田町や霞が関は、高円寺の若者のような、世襲制のバカ息子たちが、夢を語れど、明日を語らない、夢に対して少しも努力しない、癒着や賄賂ばかりの遊興に耽る無能政治家や権力志向の官僚たちの住処とこの国はなり果ててしまった。そして、この国の経済の橋頭堡となるべき大企業でさえも、税金が高いと、脱日を図ろうとする昨今の無能政治支配の惨状が全く嘆かわしいことである。 ネットフーテンの寅さんをしていると、永田町ならぬネット界隈にも、オールドメディアが批難するような詐欺まがいの怪しい動画も確かにあるが、オールドメディアだけでは知り得ない裏事情がわかる動画もある。だから、巷の国会答弁をみていると、誇大タイトルで、なるべく目立って広告閲覧数カウントを稼ごうとする、ネット界隈の詐欺まがいの悪人どもと同じように、なるべく人気をとって、権力の餌にありつこうとするような輩が増殖し、つくづく政治が悪いのではなく、悪い奴が政治家になるのがわかる。 悪い奴ばかりの国会との、シンクロニシティというか、先日、NHKで黒澤明監督の、「悪い奴ほどよく眠る」をやっていたのを録画してみた。昭和35年の作品なので、65年前の約半世紀、ヒトの一生ほどの前の汚職事件の話なのに、現代にも通じる話で、いまでも汚職が絶えないのは、悪人の遣り口が同じで、政治家が相変わらず成長していないのに驚かされる。以下のような政治とカネの戦後史のサイトをみれば、それだけ、この国の政治が悪い奴に牛耳られてきたのがよくわかる。思えば、祖父や祖母が、明治時代から皇室関係の仕事をしていたのだが、当時の政治家の腐敗ぶりを嘆いていた、のが思い出される。 【年表解説】政治とカネの戦後史 | 時事オピニオン | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス この作品は恐らく、1954年の造船疑獄事件を着想につくられた作品のように思われるが、後のゴッドファーザーのヒントにもなった作品で、当時の政権には暴露話にもなるので、製作に圧力がかかったのは、全体の脚本の流れが、なんとなく辻褄合わせで、ギクシャクしている感じと、汚職の実態に迫る社会派ドラマというよりも、娯楽性を優先させた、やっつけ仕事的な、中途半端な作品全体の暗さからもわかる。 なにより、この「悪い奴ほどよく眠る」というタイトルが、悪が決して表に現れない、のを象徴化する表現で、ダブルスタンダードでウソをつき、ヒトを騙す悪魔の存在を表明しているのがわかる。この映画は偽装の結婚式からはじまるが、巧みに建前と本音のダブルスタンダードを悪人たちが使い分けるのが象徴的である。 悪人たちは、表向きには、偽善者の演技をするのだが、裏では、同じ人間なのかと思うほどの、言葉遣いも低俗になる。まるで、役人が役者のような偽善演技をする。家庭では良き父を演じるが、社会では極悪人に変わる。決して悪魔に魂を売ったのを他人には見せない。相手に応じて、人格を使い分け演じて、他人を欺く。人間という生物が獣化する過程を、絶望的で悲劇的で哀しく卑しく描いている。 この映画は、悪魔の証明を、汚職によって証明し、悪人たちが人々を不幸に陥れる地獄の風景を描いた作品なのかもしれない。この作品は、悪人が建前を駆使し、二枚舌を使うのを証明するのだが、本音を墓場まで持ち込むので、悪人が天国には行けないのを明かした作品でもある。キリストが、金持ちは、天国には行けない、といったセリフを映画化した作品なのである。その理由は、自分で地獄をつくりあげ、そこを天国だと思い込んでいるので、もはや天国を見つける羅針盤となる良心を失い、天国と地獄の違いがわからないからである。 神から離れ、悪に染まり切っている現代社会の特徴を、シュタイナーは、以下のサイトからもわかるように、2つ挙げている。それは、利己主義と、孤独な自助努力の欠如である。わかりやすくいうなら、自分さえ良ければいい、という利己的感覚や、安易に他人に頼ったり、他人を利用しようとする依存心や、低俗化した詐欺的な、他力本願といえる。これは、巷に詐欺師が溢れ、ヒトを騙すのを何とも思わない獣が増えているのでもわかる。嘘つきは泥棒の始まりという諺は現代人には死語に近い。人間と獣の違いは、自然をつくりだす知性をもつか、自然に依存し、破壊しかできないか、の違いなのにもかかわらず、である。 高次の人間的孤独と畏敬 ルドルフ・シュタイナー - YouTube 二つの条件が、現代の文化には全く欠けています。ひとつは孤独、神秘学で高次の人間的孤独と呼ばれるものです。もう一つは、利己主義の克服です。今日では、利己主義という内的な魂の特性が最高度に高まっており、たいていは無意識的なものとなっています。この二つの条件が欠けているために、内的生命の進化の歩みは不可能なものになっています。 今日では人生がますます拡散、分散し、外的な感覚性を求めているので、孤独、精神的な孤独は困難なものになっています。今日ほど、人間が外的に生きている時代はありません。 『霊視と霊聴』西川隆範訳 水声社 現代人のほとんどは外見しかみえないから、巨悪は明るみに出ずに、眠るのである。だから外見を金銭や権力で着飾り、他人を欺くのを何とも思わない。ときには外見だけで、他人を見下したりする。ルッキズムやその差別表現に気づかない。それら現代人の特徴を、簡単に要約すれば、自らで創り出さずに、寄生虫化、ウイルス化しているといえるかもしれない。 以前、スウェデンボルグの地獄に堕ちる人の特徴でも紹介したが、自分さえ良ければいい、他人の不幸を喜び、他人を支配しようとする、などの特徴が挙げられていたが、それは現代社会での、自給自足ができない人間が増えているのでもわかる。 この現代人の特徴といえる、精神の寄生虫化やウイルス化は、金銭という、本来は、人間的な道徳活動の本性への信頼、信用の土台が必要なのに、自ら信頼や信用をつくりだせずに、悪魔の証明でもある金銭的な財産の所有権をダブルスタンダードで主張するのみなのである。これはキリストが呼んだ、悪人の特徴の、偽善行為に相当し、砂上の楼閣なのである。悪人こそ偽善者ぶるのである。警察官を装う詐欺師が増えるのも頷ける。このような偽善行為が拡大すると、警察という権力が解体されるのも時間の問題かもしれない。 本来の所有権は全て、唯一の神に帰属するのに、ダブルスタンダードを使って、神に成り代わって所有権やその権力を悪魔の証明で主張するのみなのである。「あなたは何もつくりだせていない」というと、それを証明してみろと恐喝するだけなのである。それは悪人が二枚舌で偽善者ぶっているだけなのである。このような犠牲者は、十戒の意味さえも理解できない。神になれる素質があるのに、悪魔に成り下がる。天国をつくれるのに、地獄をつくってしまう。自分のなかに太陽の光があるのも理解できないでいる。太陽の光を闇で覆ってしまう。 地球の自然は太陽光からつくられている。地球上で生きる人間は生きる為に、食物を得るのは、食物のなかに、太陽光のエネルギーが蓄積されているからである。食物を燃やすと、火が出るのは太陽光が再現され、エネルギーが燃焼され、開示されるからである。人智学では、この太陽光のエネルギーをエーテルと呼んでいるが、仏教では、物質の根源の、仏と呼んでいるようである。親鸞の、「南無阿弥陀仏」は、物質界の根源は、仏の世界にある、という意味である。人智学でいうなら、物質は、エーテルに帰すで、古代ギリシアでいうなら、土は水に帰すで、神智学でいうなら、物質界は、アストラル界に帰すとなるわけなんである。 残念ながら浄土真宗は低俗化して、般若心経の意味も理解できないくらい形骸化してしまっているが、これは本来の意味の、物質の根源のエネルギーの他力がみえずに、他力本願を曲解しているせいで、物質界を浄化するのは、己のなかにある、仏心であるのを忘れてしまったせいである。科学は物質界を、物質的な法則にまで立ち返って、経験から反省して、還元して、物量で、数式化しているが、それが全てではないのは、量子力学や超弦理論でも明らかである。量子力学を仏教化すれば般若心経になる。 地球人は物質にエネルギーや時間を与えている太陽光の叡智、その精神について断片的に、心に写し取って、みれるだけである。これを仏教では、心の視覚意識で、心眼とも呼んでいる。孔子は、道徳と呼び、老子は、大自然、或いはタオと呼んでいる。空海は、真言のマントラと呼んでいる。人間は地球で人生を送るうちに、この叡智をどれだけ集められるか、そして、そこから実践し、いかに神の意識に近づけるか、で、自ら、死後に物質界を抜け出て、自分のなかの空の意識から、4次元のアストラル界で、天国をつくれるか、にかかっている。 4次元のアストラル界では、人間の心が、そのまま天国や地獄をつくるのである。内に恐怖心があれば、その恐怖心がそのまま、外に地獄をつくりだす。だから、建前でウソをつき通して、本音を墓場に持ち込めば、そのまま救いようのない地獄に堕ちるだけなのである。せめて生きているときに、告白でもして、自分の罪を白状しないと、そのまま自ら地獄に堕ちるだけなのである。 だから、死に際して、生きている間の、自らの罪の、神父への告白が、救いになるのである。自分が間違っていたと少しでも意識しないと、そのまま地獄に堕ちても、そこが地獄だとは思わない。というのは、死後に向かう、4次元のアストラル界は、想いがそのまま現実化する世界だからである。だから生きている間だけ、想いの修正ができ、地獄から自らを解放できる貴重な世界なのである。嘘をつき通すことで、良心に呵責を生んで、ストレスが肉体に現れると、病気になる。 病気は、ストレスが肉体に現れた良心の呵責からくる真理なのである。だから、キリストは、悪を思うな、姦淫するな、と説いているわけで、想うだけでは、3次元の物質界では、物質的な手続きが必要で、病気になるまで未病状態の過程を続け、すぐに実現はしないが、4次元のアストラル界では、時間という存在がないので、即座に実現してしまうからである。 だから、物質界で、想うだけでは現実化しないのを学ぶ意味がある。そのために、肉体という時間に依存した成長過程を学ぶプロセスが必要となる。肉体を動かすことで、生命の大切さ、宇宙に流れる隠れた意識の、愛を理解できるからである。このことからも、自殺が悪なのがわかるだろう。せっかく前世の課題をやり直すために生まれたのに、その機会を放棄してしまうからである。 また、勘違いしないでほしいのは、4次元のアストラル界は、物質界とは、逆の、鏡像の世界なので、内は外になり、自他は逆の関係で、加害は被害として現実化するわけで、他者を支配しようとする欲望は他者に支配される現実となるので、加害となる利己心、承認欲がそのまま逆の、被害となる恐怖心となり、簡単に言えばサドはマゾになるわけで、それはつまり、自作自演しているのに気づかずに、地獄に堕ちてしまい、そのことに気づかない要因となるのである。嘘をつくことで、良心を壊しているのである。 物質界の3次元世界を当たり前のように感じてしまうと、外見だけで安易に判断してしまうルッキズムでもわかるが、弱者の立場や、人の心が読めずに、人としての思いやりを失ってしまう悪人に成り下がってしまう。3次元の物質を時間と共に動かしているのは、その背後にある4次元のアストラル界なのである。古代人は、この4次元の世界にいつでも行け、物質界を脱出できていたので、物質の法則の上にある、エネルギーの保存則を操作する、霊的な法則の、いわゆるカルマの法則を知っていたわけである。 だから、古代インド人は、物質界をマーヤの幻で、一時しのぎの世界で、3次元の世界の上に4次元の、6次元の世界をつくり、ヨーガ哲学をつくった。3つのグナの、タマス、ラジャス、サットヴァは、その次元の違いでもある。神智学では、左脳がタマスで、右脳がラジャス、そして左右のバランスをとる松果体を、王冠として、サットヴァと呼んだ。このサットヴァの心眼を開発した人を、ボーディサットヴァと呼んで、略されて、日本語の菩薩となった。 日蓮の「南無妙法蓮華経」は、この左右のバランスをとるサットヴァの松果体が開発された、通称一つ目の状態の、心眼の、人の心が読める仏を蓮華と呼んだ経典で、その開発法なのである。古代インドのヨーガ哲学を日本語にした経典といえるだろう。この蓮華の開発法は、ヨーガの話の二重呼吸法でも紹介したが、スシュムナのクンダリーニを目覚めさせる、プラーナ呼吸による自律浄化法なのである。古代の医療は、このプラーナ呼吸による自律浄化法を基本としていたのだが、それには初歩的段階で、物質界を解脱しないといけないので、道徳に従った生き方、つまり仏陀が説いた八正道の修行的な生活をしないとダメなんである。 日本の文化には、その名の、精進料理でもわかるが、八正道の名残りがみられ、インバウンドに流行っている和食には、バックミンスターフラーが説いたシナジーの、最小の資源で最大の効果を生む、創造の原理が隠れているのが、料理人の鍛錬や創意工夫という言葉で総括されている。その話については、また別の機会に譲りたい。 和食とは素材のなかに蓄積された太陽の光を生かすように、料理人の霊魂が共鳴し、いかに再現できるかにある。和食とは、道徳に沿う料理法なのである。物質的ではなく、精神的な情報を取り出すことなのである。物質界での会話というよりも、精神的な会話の会合がなされる精神的交流で、一期一会なのである。自他を区別しない、シュタイナーの説く、誰もがもつ、高次の自我を尊重し、尊敬する姿勢や感性を磨く作法というべきかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2025年03月25日 17時19分33秒
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