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カテゴリ:神秘体験空間
最近一日があっという間に終わってしまうので、古代叡智を学ぶのにつくづく時間が足りないと感じてしまう。特に男女の違いなどをあーでもないこーでもないと脳で考えていると、あっという間に午前中が終わり、気がつくと午後五時になり、昼食も忘れ、夕食食うかとなってしまう。
特に、男女の違いの古代叡智を読み解くのはなかなか理解困難なので、というのも、脳の知性では解き明かせない命題なのだが、そのために、人智学や神智学の残っている書籍からでは限界を感じる事も多い。というのも、この世で生きるには、どうしても、一方の性に偏らざるを得ず、片側の視点からしか、異性を観測せざるを得ず、そのような教育を得ている習慣もあり、心眼を獲得していない者にとっては、その一方通行の観測データを解析する脳を使うしかないからである。 だから、男女の違いを考えていくと、どっちが男で、どっちが女なのか、わからなくなってしまうからである。肉体上の特徴や、この世での生 殖関係から、ほとんどは外見上のルックスから区別しているわけで、高次の知性に迫っていくほど、精神上の霊魂上の区別がつかなくなるからである。 実際、霊魂には男女の区別がなく、自由に創造できるのだから、男女の区別なく、両性具有の如く、増殖し変化できるのだから、探求するうちにわけがわからなくなってしまう。特に男性特有の理屈っぽい思考を追求すればするほど、わからなくなってくるから、探求する気が失せてくる。 先日、ETV特集で、現代でも、ソクラテスの無知の知に近い問いをしていた人の特集をみたが、それでも、脳を使って思考している点で、例えば、「卵が先か鶏が先か?」の問いに対して答えを出すのは不可能に思えた。既成概念や、常識を疑え、というのなら、それをつくっている人間の脳さえも疑わないとダメだからである。 ETV特集 ねちねちと、問う ―ある学者の果てなき対話― - 動画配信 人間の知性を疑わずして、人間の知性を超えるのは不可能で、人間が知性の自惚れ屋であっては、ソクラテスの説いた無知に埋没するだけで、以前もこのブログで紹介したが、古代ギリシアでの哲学会議のなかで、人間を、「羽のない二足動物」と定義する愚かさと変わりがなく、次の日に、ディオゲネスが、羽をむしりとった鶏の死体をもって、やってきて、「これも、あなたたちの定義によれば、人間ですよねぇ」、とやりこめるエピソードを繰り返すだけなのである。 ディオゲネス:Diogenes 412-404 BC--323 BC 人間の知性の限界を知らないと、その愚かさの追求のために、人類を滅ぼしてしまうことが、過去3度となくあったことを、神智学は、高次の知性の召喚により、既に読み解いている。人間の知性がどこからくるのか?理解せずに、その知性に自惚れるのは、核兵器を玩具にして同じ人類を脅かす独裁者や、ピストルを与えられて有頂天になる子ども、と同じようなものである。現代人は、人間の脳に人間が殺される存在と化した自覚をもたなくてはいけない。「俺が悪いのではなく、俺の脳が悪い」と言い放った芸人もいる。 このような愚かな歴史の繰り返しから、人間が知性に自惚れたときに、人類は何度となく滅亡してきた。霊能者であったソクラテスはそれを当時の愚かな知識階級に警告したために毒刑に処された。同じように、現代の脳科学者は、心霊主義を罵倒するが、脳で考えた知性である限りは、物質界でのエネルギーの変化によって空間を結びつけることで現れる、時間という霊で表現された知性をみているのと同じで、心霊を時間に置き換えただけで、同じ穴の狢でしかない。だから、脳科学者は、時間を超えて、脳では考えられない知性にまで言及しないと、ソクラテスが説いた無知の知に到達できない。 人間は、死にゆく脳で考えるのではなく、脳を超えた、不死性のなかで、思考しないと、脳は、宇宙の火を単に映し出しているにすぎなく、時間はその煙のようなもので、火そのものを問わない限りは、時間を超えられない。だから覚醒意識での知性は、潜在意識での知性を超えられない。時間のなかに不死性を求めて、火となっているエネルギーを、光や宇宙の意識にまで高めないと、何を考えようが無駄な徒労に終わるだけなのである。 そもそも、なぜ人類には脳があるのだろうか? 脳は何なのだろうか? と問わない限りは、人間の知性を人間が自覚できないのはいうまでもなく、人間の脳が物質界を経験するために、つまり失楽のために、その観測装置としてつくられたのを少なくとも理解できるはずがない。有り体にいえば、脳は、宇宙の「わたし」のコピーなのである。宇宙を「わたし」という一つに帰するための鏡というべきかもしれない。 脳は、「わたし」という主体が観測した経験から「わたし」という一つに帰する言葉を介して、他の「わたし」のコピーたちと会話して、知性を高めるための道具で、宇宙のなかの交信ツールである。交信のプロトコールが、言葉により移り変わり、様々な「わたし」を宇宙に目覚めさせてきた。 宇宙の歴史は、「わたし」の歴史でもある。しかし、現代人は過去を忘れて、いまこの世にいる物質的存在だけの「わたし」に囚われている。そして、その「わたし」でお互いを着飾りマウントしあっている。知性は、低俗な恐怖心を植え付けるための、核兵器と同じ道具になっている。 さて、このような脳による、人間の知性と同じように、自惚れて、堕落し、腐敗した知性が、人類を滅亡させるように、「歴史は繰り返す」と、古代ローマの歴史家クルチュウス=ルーフスが、はじめにいったとされてから、何度となく歴史家から、歴史は繰り返すと、低俗な脳によりいわれてきたが、ルーフスに言われる前にも、言われてきたのが記録されていないだけで、なぜ歴史が繰り返すのか、を解き明かすには、巷の物質界の、脳で考える人たちには、将棋の千日手に至るだけで、ほぼ不可能だろう。千日手に至る脳を捨てられないからである。 哲学者カール・マルクスの名言「歴史は繰り返す」をもっと昔に残していた古代ローマの歴史家は誰? | Oggi.jp 脳を捨てて初めて、脳がなかった過去からも、歴史が繰り返されてきた意味が初めて明かされるわけで、人生に死が到来する理由となる。脳死は、脳が千日手に至った自惚れた知性を意味し、人類に脳がなかった時代の、叡智が叡智を生み出していた死のない世界に、無知の知に到達するための準備といえるかもしれない。だから、歴史の繰り返しの訳を知るには、脳が思考停止しないと、脳の知性が無駄と自覚できないのである。わからないことはわからないといえないといけない。男女の関係も脳では理解できない。 男女の関係と同じように、交際に時間が必要なのと同様に、「卵が先か、鶏が先か」、は時間があってはじめて問える命題なのである。卵と鶏はもともと一つで、いわば同じ生命の波動のゆらぎにすぎない。膨張か、収縮かの違いで、分裂増殖か、融合収縮か、の違いでしかない。だから、生も死も、異なる世界からみた立場と役割の違いでしかない。 物質界での出来事を是として前提でみれば、歴史が繰り返すのは、知性の限界を現わすことでしかない。歴史が繰り返されたのは、単なる偶然でしかないと、脳の知性がみなすとき、それはその知性の限界を意味しているだけなのである。男女の関係がわからないのは、その知性が限界なのを意味する。だから知性の限界を超えるには、この世での男女の区別を少なくとも捨て去らないとはじまらない。 というのは、物質界での出来事、つまり、低次での現実は、予め、高次での計画として行われるからで、宇宙がマンヴァンタラとプララヤの二つの状態の繰り返しからはじまるからで、神智学が霊能力から、アカシャ(虚空)年代記を読み解いて、古代叡智として伝えている伝承を、繰り返し、書き記したものである。現代宇宙論でも、アインシュタインの一般相対論の方程式で用いて、宇宙の膨張と、収縮で議論しているが、それらが物質界の脳で考察している以上は、神智学の叡智の無知の知には到達できないだろう。 ☆ ☆ ☆ 神智学では宇宙創造をどの様に考えているのですか? 神智学では、宇宙創造ということを信じません。宇宙は極めて長い期間をかけて、主観状態と客観状態を周期的に繰り返しています。例えば、朝には太陽が上り大地が照らし出されますが、夜に日が沈むと全てが暗闇に包まれるようなものです。 インドではこのような交代を「梵の昼と夜」、またはマンヴァンタラ(出現)とプララヤ(消滅)と呼んでいます。つまり、宇宙の昼と夜です。夜の間、原子はみな同質のものに溶け込み、物質はただ1つになります。 その度に誰が宇宙を創造するのですか? 誰も創造しません。キリスト教以前の哲学者達はその創造を発散と呼びました。神智学では、無限の空間に周期的に自らを反映させる永遠の実在をこの過程に認めます。この発散によって反映される客観的宇宙、つまり私達の住む宇宙は一時的なものであり、幻影にすぎません。客観的宇宙を発散させる永遠の実在こそが真実なのです。 発散された宇宙には7つの界があるとされています。界を追うごとに宇宙はだんだんと濃密に、物質的になり、最終的には私たちのいる世界に達するのです。 さて、巷の、昭和世代には、MLBの父親リストと呼ばれる大谷選手の産休に衝撃を受ける人が大半だろうが、このような時代の価値観の移り変わりに、「男は仕事、女は家庭」という肉体の性の外見に囚われた時代のルッキズムに対抗する、新しい人間の内面性、精神性を重視する価値観が台頭してくる、のは自然の成り行きというか、地球進化のなかの自然の摂理といえるかもしれない。地球も生きているし、時代は、時代霊の働きによるからである。人類の変革期には必ず性差の転換が台頭してきたからである。 かつては批判もあった「父親リスト入り」 大谷翔平の“育児休暇”に日本で驚きの声「世界一の野球選手ですら産休を取る」(CoCoKARAnext) - Yahoo!ニュース それは下等生物の環境に応じた性転換と同じように、人類の場合は複雑な形で、より高次で、より普遍的に行われるはずだからである。シュタイナーは、前世で片腕を失った人は、トカゲの尻尾のように、前世で回復されるのではなく、来世で頑強になって回復されると述べているように、性転換も、前世と来世で、大きく文化的に行われるはずだからである。それはおそらく、前世で雌雄同体だったことや、異なる性で生まれていたことを記憶する人間として生まれてくるのかもしれない。 それは人だけでなく、国家という組織体も同じで、昭和は、確かに、男性社会だったが、八切史観によれば、古代の日本は女性社会だったようである。それは、天照大御神が女神なのに、天皇家が男系継承なのでもわかるだろう。お釈迦さんが、当初、教団に尼僧を入れなかったのも、現代人の脳での知性からは理解不能だろう。男と女の偏った知性からは何ものも生み出せないからである。男と女が、陽と陰の二元性の両極なのが、人間の脳と深く関わりをもっているからである。 ここ5~10年の間に,医療用の画像技術が急速に進んだ。これを使った研究の結果,脳全体にわたる複数の領域で解剖学的な違いが見られることがわかってきた。ハーバード大学医学部のゴールドスタイン(JillM. Goldstein)らはMRIを使って,いろいろな皮質領域と皮質下領域のサイズを測った。その結果,さまざまな高次認識機能領域が含まれる前頭皮質部分は,男性よりも女性のほうが大きいことがわかった。また,大脳辺縁皮質の情動反応に関連している部分も女性のほうが大きかった。一方,男性では空間的知覚に関連する頭頂皮質の部分が女性より大きく,扁桃体も女性より大きかった。扁桃体はアーモンド形の構造体で,心臓の拍動を速めたり,アドレナリン放出につながるような,感情を刺激する情報に反応する。 【脳の科学】男と女。賢いのはどっち? | TABI LABO 例えば、上のサイトのように、脳の男女差からもある程度の知性の違いというか、男脳が論理や空間把握力に鋭く、女脳が、情動や直感力に鋭いような、いわば志向の違いがわかるが、脳で考えている知性は所詮、物質界での拘束条件の範囲内でしかないから、脳を捨てないとダメなのである。互いに知性を補完し合う関係なのを理解しないと、脳すらも理解できない。脳を超えて脳を理解しないと意味がないからである。 だから、このように男女脳を比較しても、立場と役割の違いがわかるだけで、他人と人生を比較するのも、この男女脳の比較と同じで、立場と役割の違いがわかるだけで、知性においては全く意味がなく、その脳の知性で、人生を比較することこそ無知蒙昧で、無意味なのである。人間のカルマにおいては、男女のそれぞれの立場と役割の違いを理解するために、転生を続けているからである。 このように、脳を、物質界での、立場と役割の違いを、観測するための道具とするのなら、その道具を捨てて考えるのに、次に目安となるのは恐らく、寿命だろう。男女の寿命の差を理解するのに、目安となる情報をググると次のようなサイトに出くわす。 ![]() 男性は平均して5%~1割ほど女性より平均寿命が短い。これは生物学的な理由によるものであろう。ただ、平均寿命の短い貧困国では、男女の平均寿命が近づく傾向が見られる。これは、出産時の母体リスクの高さからと考えられる。この点については、図録2249「母体リスクの国際比較」を参照されたい。 図を見ると、平均寿命の男女格差が特異な国がある。カタールでは男の寿命の方が長い。同様にバーレーン、クウェート、サウジアラビア、バングラデシュ、パキスタンといったイスラム国では、男女の平均寿命に余り違いがなく、女性の寿命が相対的に短い点で目立っている。人口大国の中国、インドでも女性の寿命は相対的に短い。 他方、ロシアを典型として、エストニア、ベラルーシ、リトアニア、カザフスタンといった旧ソ連諸国では、男性の寿命が女性の1.5割前後短く、男性が早死にである点が目立っている。こうした国は自殺率も高い国であり、また男性の自殺率が際立って高い国であり、平均寿命の男女格差と相互に関連している可能性が高いと思われる(図録2770、図録2772、図録8985参照)。 なお、日本でも戦前には女性の方が平均寿命の短い地域があった このサイトからわかるのは、男性の方が、自殺率が高いために、男性の平均の寿命が短くなる傾向があり、男性社会のイスラム圏では、男性の自殺率が低いために、男女の平均寿命の差が少ない、というようなデータである。 【イスラム教は何故、自殺者が少ないのか。】|ジュエリー長谷川 ![]() 男女の寿命の差については、霊魂の不死性が大きく関わっているのだが、それはこの世に生まれてくる男女比率も男子が多いことでわかるが、それは、オカルト的には、将来の肉体が男性化に傾くためであり、女性の男性化が進んでいる時代の流れからもわかるだろうが、それに伴って、少子化に向かうことを、いま触れるのは、かつての古代アトランティスの破局を意味するので、とりあえずやめておくが、とにかく、男性の自殺率が高いのは、男脳での知性が行き詰まっているのを意味している、のがわかるはずである。 男脳の、三次元思考が拡張すれば、それを拘束する境界に出くわすので、自由になるどころか、益々不自由になるので、空間を埋め尽くすほど、脚を取られ、進めば進むほど後退し、抵抗にあい、戻ってくる四次元思考を超えられないからである。対照的に、女脳は、脳の知性を捨てられ、子宮で考えられるだけ生命力がある。だから自殺も少ない。そのような脳の知性はいつからはじまるのか、人生の子どもの時期から考えてみる。 子どものとき、男の子は強いヒーローに憧れ、女の子は変幻自在な美しいヒロインに憧れるのは世の常で、アラ還暦男性の子どものときのヒーローは、ブルースリーだった。ブルースリーの物真似が矢鱈と流行って、ヌンチャクがヒーローアイテムとなるが、子どもにヌンチャクを与えて、親の言うことを聞かなくなって振り回されても拙いので、母親たちの意向なのか、あるいは、女の子の変身願望を取り入れたのかもしれないが、ヌンチャクが、そのうち仮面ライダーの変身ベルトに代わっていった。 昭和の男らしさ、女らしさの教育は、男女同権、LGBTの運動が活発化している、令和からは想像しがたいだろうが、昭和の学校教育では、子どものときから、男女間には、どこか敵対意識があった。子どものときから、男らしさ、女らしさを求められ、男女差別が平然と存在し、誰もがそれを当たり前に思い込んでいた。特に昭和の男社会を中心とした家庭環境では、男の三次元思考による知性が優遇されてきた。 昭和の意識!?『男は仕事、女は家庭』からの脱却を | 連合ダイジェスト 昭和の、男らしさや女らしさの教育といえば、子どものときによくみたドラマ「噂の刑事トミーとマツ」を思い出す。男は強くなければいけない、という、男らしさが、子どものときから教育されたが、そのど定番を地でいっていたのが、このドラマだった。このドラマのように、男らしさや女らしさは、この世の子どもの成長期につくられた、後天的な脳の知性にすぎないのを物語っている。家庭のなかでの男らしさと女らしさの立場が与えられて、その役割を果たすのが期待される。学校でも、男子組と女子組に分かれ、運動などの体育を教育された。 子どものときから、昭和の典型的な理想の男性像と女性像に向かって、画一的に教育されるのだから、教育次第で落ちこぼれが出てしまうのは必然の流れというべきかもしれない。確かに子どもに社会的な自立を促すには、社会的にわかりやすい立場や役割を子どもに与えるのが社会的なコンセンサスや安全のために適当なのかもしれない。 その後、そのような教育が反抗期になって、なめネコブームやら、ツッパリハイスクールなどのヤンチャな学級崩壊を生むようになるのだから、肉体上の性の偏向を強調した脳の知性での教育が行き詰まる、のを究めて低レベルな歪んだ思春期の非行に走る暴力行為となって、経験するのも、昭和という閉鎖的な時代の流れなのかもしれない。 しかし、そんな男子の憧れのブルースリーが、「考えるな、感じろ」と言った意味は大きい。つまり、オカルトからいえば、男脳を捨てろ、女のように脳を捨てて、子宮で考えろ、と言っているようなものだからである。女性の子宮が、男にはないから、「感じろ」というのは、子宮に代わる男の感覚器、つまり叡智を受け取る感覚器をつくれ、と言っているのかもしれない。男らしさの象徴のブルースリーが、女のようになれ、と言っているのだから、脳で考える知性では行き詰まる、のを示した格言なのである。 シュタイナーによれば、人類のこれまでの進化の繰り返しが、人生にも現れているという。我々現代人のポストアトランティス時代のはじめの古代インド文化期には、かつてのレムリア時代のように、男女の性差がほとんどなく、両性具有で、男は女のようで、女は男のようだったという。男女にわかれたのは、次の古代ペルシャーカルディア文化期で、この時代から、二元性が顕著になってきたという。人間の成長期でいうなら、大体7歳の歯の生え変わりからになる。 【シュタイナー】地球紀の進化過程について~現在はポスト・アトランティス時代~ | Noos Eggs この時期の子どものエーテル体はまだ未完成で、アストラル体についてはほとんど何も決まっていない状態で、いわば将来の見通しや可能性だけの漠然とした基盤構造だけが決まっている可塑的な柔軟性をもっているから、大人たちのアストラル体を通じて、どのようにも変わり得るような発展性をもっている。だから、ある意味、大人たちの影響を受けやすい。 この時期の子どもが、例えば、承認欲旺盛な利己主義な大人に出逢うと、可塑的な柔軟性を失って、その影響を受けないように、心を閉ざしがちになってしまうという。だから、この時期の子どもに相応しくない教育者は、偏った思想や独善的な価値観の持主など、自らの知性に何ら疑いももたない全く謙虚さの欠片もない、現代で言えば、学者のような、特に脳科学者のような人物といえるかもしれない。 そのような人物は、ブルースリーの、「考えるな、感じろ」とは、真逆の、「感じるな、考えろ」と自説や価値観をおしつけてくるだろう。そのような人物に遭うだけで、子どもはある意味、その考えに拘束されて、自由な創造性や発想を失ってしまう。この時期の子どもたちには、大人が愛を示す事が何より大切であるという。そのような愛情に溢れる大人たちをみて、子どもたちは愛を学ぶからである。 性がわかれはじめるこの時期の子どもには、愛情が必要なのである。性を超えた愛情こそが、この時期の子どもたちの心に、愛への献身を教え、愛への慈しみや尊さを学ばせる。ブルースリーの「考えるな、感じろ」は、この時期の子どもには、愛の至言であり、愛は、考えるものではなく、感じるもので、仮面ライダーへの変身ベルトなんである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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