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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2025年05月27日
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カテゴリ:神秘体験空間
先日、スカパーで、映画「博士の愛した数式」をみた。数学というと、生まれつき苦手だったにもかかわらず、当時の子どもには学研の雑誌の「学習と科学」や科学雑誌ニュートンが流行り、カールセーガンのコスモスブームが到来し、子どものときから、立て続けに、科学の洗礼を受けてきたので、宇宙について知りたくなったので、理系に進学したために、大学入試は、数学で苦労した思いがあり、半人前の記憶力を駆使し、とにかく解法を暗記するしかなかったが、その後も、数学には苦手な思いしかなく、いまでも、自分には、俗に言う、数学的なセンスが欠けているように思える。

博士の愛した数式 - Wikipedia

科学と学習 - Wikipedia

ニュートン (雑誌) - Wikipedia


シュタイナーによれば、一般的に、前世の才能は、今生には受け継がれないので、例えば、前世で数学的才能を発揮した人物であったら、現世では全く数学ができない人間として生まれてくるらしいので、自分の前世は、数学者だったかもしれないと都合よく解釈している。

また、現世で、数学的才能となるのは、前世で、地図などをつくるために、地球を歩きまわることで、恐らく伊能忠敬などの来世は、偉大な数学者になっているかもしれない。だから、来世で数学者になりたければ、伊能忠敬のように、地上を歩き回って実地で測量する体験をすればよいだろう。

伊能忠敬 - Wikipedia


だから、現世の私は、数学がほとんどできないが、数学ができないので、数学的思考に囚われずに、数学を権威化したり、神聖視しないですむ。だから、この映画は、数学者の話というよりも、その人間性についての面白さを感じた。この映画で表現されている数学者は、数学を学問というよりも、宗教や芸術のように感じているが、この映画の人物よりも、ウイキの「博士の愛した数式」の解説のなかの、そのモデルとなった数学者エルデシュに、より面白さを感じた。

ポール・エルデシュ - Wikipedia

彼は独特な語彙を持っていた。彼は不可知論的無神論者であったが、彼は「あの本」("The Book") のみは信じていた。それは、全ての定理や理論が掲載された想像上の本であり、一種のアカシックレコードとも呼べるものである。1985年の講演では、「神を信じる必要はないが、『あの本』は信じるべきだ」と言った。彼自身は、神(彼は"Supreme Fascist"(最高のファシスト、SF)と呼んだ)の存在を疑った。彼は、靴下やパスポートを隠し、最も優雅な数学的証明を自分自身の中に持っているという理由でSFを非難した。彼は特に美しい数学的な証拠を見たとき、「これは「あの本」から来たものだ!」と言った。後に書かれた『Proofs from THE BOOK(英語版)』という本のタイトルは、この言葉から取られたものである。

上のサイトの解説から、エルデシュが、アカシックレコードを信じていて、そこから、数学を取り出したのがわかる。アカシックレコードは、人智学でいうアカシャ(虚空)年代記のことである。現代物理学風にいうなら、ディラックの海というべきかもしれない。ディラックは、彼の相対論的量子力学を、このディラックの海から、ブラ-ケットとして取り出して、初歩のゲージ理論を数式化して構築した。

ディラックの海 - Wikipedia

ブラ-ケット記法 - Wikipedia


エルデシュが、無神論の数学者らしくない数学者で、無神論を表明しながらも、アカシックレコード信仰者で、数式信仰に走っていないところが面白いのだが、無神論を表明している科学者のほとんどが、その学問の信仰者となり、相容れない説を論破しようとする攻撃的態度には、閉口する。その裏には、利己主義で、名誉欲や虚栄心、承認欲が悪魔のように隠されているのはいうまでもない。

そのような数学者のほとんどが数学を賛美するが、実は数学が美しいのではなく、数学をする自分に酔いしれて、数学で自己を権威化しているにすぎない。物理畑にも、数学を賛美する数学崇拝教団の一派がいるが、そのような連中について、以下の、有名な物理学者のファインマンは、日本の物理屋の形式主義に異論を唱えている。

ファインマンが日本の物理学者に感じた「物理的な違和感」の正体(竹内 薫) | ブルーバックス | 講談社

延々と黒板を数式で埋め尽くす日本の物理学徒に対して、ファインマンさんは、さらりと「なんだか物理学的に違和感がある」というような感想を洩らす。物理学徒は、数式が完璧だから自分は正しいと主張し、激論となる。
ファインマンさんにとって数学は言語であり、その言語で何を語るかが重要だった。だから、数式の背後にある物理現象をイメージしてみて、辻褄が合わないなと感じたのだ。ところが、数式だけが命の物理学徒には、イマジネーションが欠けているから、(数式を書き連ねるという意味では)雄弁なだけで中身がない。
となると、『ファインマン物理学』の地の文がいかに重要であるかがおわかりいただけるだろう。そう、そこにはファインマンという不世出の天才の脳髄から溢れ出る豊穣な​イマジネーション​​がいっぱい詰まっているのだ。

このサイトからわかるように、数式は、物質界での翻訳言葉にすぎなく、重要なのはイマジネーションと、ファインマンは述べているわけで、エルデシュも、アカシックレコードから、インスピレーションを、数学の証明として引き出していたらしい。

シュタイナーは、物質界を超える叡智について、イマジネーション、インスピレーション、インテンションの用語で、3つに分類している。日本語に直訳すると、それぞれ、想像力、閃き、意図となるだろうが、言語化できない意味を示すには、霊視力、霊聴力、神通力という感じになるかもしれない。更に具体的にいえば、それぞれ、学問的真実、芸術的美、道徳的善という意味をもつようになるかもしれない。

というのも、学問ではイマジネーションがよく使われ、虚数の、虚もイマジナリーで、芸術では、インスピレーションがよく使われ、作曲家などの音楽では、インスピレーションが大事といわれ、道徳では、動機や意図の、インテンションがよく使われるからである。いずれにしても、物質界を超えた高次の叡智の存在を表わす、ソクラテスの無知の知なのである。数学や、音楽、道徳を、物質界の手順で辿り、真似るだけでは、モノマネ芸人で、ヒトを驚かせたり、笑わせることはできるが、単なる道化師にすぎない。

そして、この映画では、イマジネーションの、友愛数についての解説が出てくるが、友愛数をはじめに発見したのはピタゴラスらしく、シュタイナーによれば、ピタゴラスは、仏陀やキリストと共に人類の進化計画を設立した聖白色同胞団の一員であるらしい。

この映画の面白いところは、人間が生まれるよりも前に、数字が存在していたと、数学者が思い込んでいるところであり、人間の脳が数学をつくりだした、のに気づいていないところである。そして、数学がなぜ美しいのかは、それが必ず一つの共通する答えを導き出す点にある、のに気づいていないからでもある

友愛数 - Wikipedia


数学には必ず答えが一つみつかるのは、人間の脳が一つだからでもある。数学による解は、モーセに主なる神がエヘイエ、アシェル、エヘイエと呼びなさいの、バランスにより一となすバランスの存在で、数式で表現するなら、霊と物質の一対一対応での、1=1というべき対称性を表わし、同じ1だが、1の違いがあり、そして、それは、数学という学問が、遥か昔には、宗教や芸術と一つだったからなのである。

そして、叡智と美と力が太古には、古代叡智により、一つだったからである。そして、この古代叡智が一つとして、書かれているのが、アカシックレコードなのである。

しかし、一つといっても、それは三位一体の一つで、オカルトでは、これを、真善美の三角形で表現している。つまり、真実の学問の叡智と、善行の宗教の力と、美の芸術である。真善美はそれらを統合し、バランスを保つ神の一面にすぎない。だから、三角形の中央の真ん中に、神を置くが、その神が閉じた目なのか、開いた目なのか、霊我なのか、万物を見通す目の、物質界の自我なのか、それは、その人間の進化段階によるわけなのである。下の図の目は開いた目である。



この三角形を、上に向いたものと、下に向いた逆三角形とを合わせて、六芒星をつくると、それはオカルトでは、聖杯を現わす。上に向いた正三角形は、人間が努力により、霊眼を獲得し、霊的に協調し調和し、進化するマナスの三角形で、下に向いた正三角形は、人間が克服すべき、神々から与えられた物質界の死すべき心霊主義で、退化する唯物性や唯心性である。人間は独力で、与えられた死すべき自然環境から、生きる自然生命を、自己犠牲により、創造していかねばならない。人間は地球の母となるべきなのである。その人間の母性が、聖母マリアとして、聖杯の意味に隠されている。その代表的人物がマザーテレサだった。

マザー・テレサ - Wikipedia



人智学では、六芒星はアストラル界を表わすのに用いられている。五芒星は人体のなかのエーテルの流れである。だから、人体は、五芒星で表され、霊我、自我、アストラル体、エーテル体、肉体の五つの頂点の五角形で表現される。神殿の入口が五角形なのと、五重塔は、この五芒星に由来する。神輿や契約の箱が、五角形で表現されているのも、人体を表わし、同時に人体が、ノアの箱舟なのを意味している。

日本語ユダヤ起源説日本神道と古代イスラエルの共通点 | MATTのブログ ~ 政治・経済・国際ニュース評論、古代史、言語史など ~


オカルトで、以上のようなサイトの、日ユ同祖論が派生するのは、人類の叡智がアベルとカインの子孫に由来し、太古に遡れば、自然と、人類の祖アダムから生まれてくるのは、現代でも、遺伝子解析の生物の進化からも明らかである。物質的な進化の前に、霊的な進化があったのはいうまでもなく、遺伝子解析は、肉体の進化しか見通せない。だから、死せる鉱物は創造できるが、生命は創造できない。生命を創造するには、聖杯が必要なのである。



オカルトから派生した知識を、現代科学で否定しても、それは現代科学の限界を意味するもので、人間の脳の限界を意味するだけなのである。というのも、オカルトを読み解くには、古代叡智の聖杯が必要だからである。前回、科学がカインの子孫の、フリーメーソンから生まれたのを紹介したが、それは人間によって、いまだ未熟で低レベルな、未統合な叡智の、枝葉末節の物質界だけをみていれば、そして現代科学がわずか数百年の歴史でしかないのを加味すれば、日本語と古代ヘブライ語のアラム語の現代解釈や現代表現が一致しないのは当たり前の話なのである。

言語は、唯物的な解釈で、古代叡智の一部を、影絵としてみているものでしかないからである。だから、古代叡智に遡って、真善美が一つに統合された高次の叡智である、神々のアカシックレコードから参照しないといけないわけで、現代人の脳からみれば、現代の立場と役割の違いから、その誤差により歪んだままで表現されてしまうからである。

少なくとも、母国語と外国語の共通認識を探求しないといけないわけで、心霊主義のように、物質的に当てはめるのではなく、霊は霊そのままで当てはめないと無意味なのである。だから脳を捨てて、直感で、感じない、といけないわけなのである。

重要なのは、現代から、過去を否定するのではなく、過去に遡り、源流を探し、故きを温ねて新しきを知る、のにある。すると、現在の科学となっている学問や、音楽などの芸術、そして、科学に殺され、形骸化されたニセモノの政治団体や宗教組織などの権威化された宗教が、故きを温ねて、古代叡智の真善美の統合により、キリストのように、再び生きた宗教として蘇り、新しきを知り、新しい未来の叡智となり、それらが六芒星の聖杯として象徴化されるのがわかるようになる。

論語『子曰、温故而知新(故きを温ねて)』解説・書き下し文・口語訳 / 漢文 by 春樹 |マナペディア|


シュタイナーは霊視からアカシックレコードを読み解いて、古代では宗教と学問と芸術が一つの叡智だったときから、ピタゴラスが、この帝王術と呼ばれた古代叡智のマスターで、いまでも有名なピタゴラスの定理を発見したと述べている。

現代人は脳により、死すべき、去り行くべき物質界の帝王となっているが、それは主に現代科学の学問だけで、芸術と、政治に落ちぶれた宗教とを一つの帝王術として統合できないばかりか、低レベルな論争や闘争、そして核兵器という恐怖を用いた戦争により、分断されて、私利私欲や利己主義の道具と化している。

巷をみれば、男女の不倫騒動などのゴシップに明け暮れて、政治家は国民の税金を浪費し集票マシンに使い、私利私欲で、自己の利権獲得を貪るばかりである。こんな低レベルな現代人に、高次の宇宙人たちが愛想をつかしているのが現状といえるかもしれない。だから、たまに地球人たちに、お前たちだけが生きているわけではないぞ、とUFOなどで警告している次第なのである。一体いつまで、地獄に堕ちるための利権獲得合戦や権力闘争を続ける気なのか、呆れ果ててしまうばかりなのである。

地上の科学となり、枝葉末節の、バラバラになった死体となった、叡智を集めてきて、統合するのが、カインの子孫の立場と役割で、神殿伝説となっている。そして、その死体となり、古くなった帝王術、それは古代エジプトでは、バラバラになったオシリス神を意味するが、イシスがバラバラになった叡智を再び統合し、ホルスに継がせようとする。

このイシスとホルスの叡智の継承が、アベルの子孫の、祭司の立場と役割を表わす、黄金伝説となっている。つまり、前回紹介したように、オシリスのバラバラになった叡智は、カインのフリーメーソンの神殿伝説で、男性だけの社会組織を保つ仕事を表わし、対照的に、イシスの、オシリスからホルスへの叡智の継承は、アベルの祭司系の、女性を中心にした家庭組織を保つ自己犠牲の育児を表わす黄金伝説で、両者はキリストの聖杯の下に、高次の両性具有として将来統合される。

オシリスとイシスの伝説 - Wikipedia


だから、カインの農夫という職業は、地を耕す仕事で、地上を開拓するために、叡智を集める作業を意味する。まとめると、男性の仕事を表わし、学問や芸術やニセモノの宗教、つまり政治などに従事することなのである。対して、アベルの羊飼いという職業は、アベルが、子羊を神に捧げたように、自己の生命を犠牲にして、育児、つまり子育てをして、家庭を後世に引き継ぐことなのである。

だから、人類が未来に引き継ぐべき教えとは、女性を中心にして営まれる子育てを中心とした家庭生活なのである。子羊を神に捧げるのは、子どもを神に捧げるわけで、それは子どもに叡智を授けることで、子どもの教育なのである。古くから子どもの育児や教育は、女性を中心とした霊的な教育が推奨されてきた理由が、古代エジプトの神話のなかに、みつけられる。古代エジプトと同様に、日本では、古くから霊性が重んじられて、女性は、見た目の外見よりも、中身の賢くなければいけない、と言われたのは、精神を尊ぶ、霊性の、霊能力を授ける知恵が必要だからである。

家庭環境が崩壊するのは、女性が唯物性に走り、金儲けや私利私欲で利己主義になって、馬鹿になったせいである。巷で如何わしいニセモノの宗教や政治団体が流行るのは、女性が馬鹿になったせいといえるかもしれない。馬鹿になるとは、男性のように有頂天になって、虚栄心や承認欲や名誉欲の虜になってしまったわけなんである。

日本では、奥様といって、家庭環境を表に出さずに、奥に隠すのは、オカルトからいえば、秘密結社と同じで、表に出さないから、外見ではなく、中身を問う、精神主義なのである。ちなみに、オカルトという言葉の意味も、隠された叡智という意味である。顕教に対する密教で、表の物質界に対する、裏の霊界を意味する。

男性の脳が論理的で、女性が、脳というよりも、直感的なのは、男性が物質界の叡智を集めるのに適応しやすく、女性が物質にほとんど興味がなく、心のつながりや、生命力を育成するのに、時には自己犠牲を厭わないのも、女性のほうが、地上の肉体に染まらずに拘束されずに、天に近いせいなのである。しかし、論理性には乏しいために、怪しいニセモノの偶像崇拝の宗教などに騙されやすい。

男性は神殿をつくるのは巧みだが、生命や生物を育てるのは苦手で、逆に女性は神殿をつくれないが、生命や生物を愛情をもって、時には自己犠牲で育てられる。高次元で、男女の性の垣根が取り払われ、統合されると、聖杯が人類に継承され、愛の生命力として、宇宙を巡るキリストの姿がみえるようになる、というのが、キリストの聖杯伝説なのである。

博士の愛した数式よりも、家政婦の愛した子どもの生命の姿を、数学の継承として表現する映画だった。死んだ数学から、古代の帝王術を、蘇らせるには、母親の自己犠牲の愛が何より必要なのである。どんな人間も母親の愛情なしでは生まれ、生きられないからである。​​​​​​​​​​​​​





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Last updated  2025年05月27日 19時27分44秒
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