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カテゴリ:軟弱日本を斬る!
ここ一週間は、連日暑くてクーラーもなく、ブログを書く気も失せ気味なのだが、とりあえず、ネットで話題だった7月5日は小規模な震災でおさまりよかった。この国の治安が急速に悪化しているのと、ネバネバ七面相臭い頼りない政権で、人心が乱れ切って荒み切っているので、他国につけこまれる隙を与えまくりの毎日なので、割と小規模な災難で、非常に安堵した。
なんでも7月5日は大谷選手の誕生日とMLB中継で知ったが、ドジャースは大敗するし、大谷選手は打たなかったし、玉石混交の日が過ぎ、気がつくと令和7年7月7日のラッキーセブンの七夕を過ぎていた。スリーセブンは、オカルトの進化数777で、人類が自由と愛の天使に昇天する時代を意味する。しかしその前に、666の悪魔の時代を乗り越える必要がある。だから、去年のように熱中症にかからないように注意して、心頭滅却すれば火もまた涼しの快川和尚の精神にあやかり、なんとか他愛のない自己満塗れのブログを書き綴ろうと思う。 そこで、どうしてあのような騒ぎになったのかと色々ググって調べていくと、噂が雪崩現象のように拡がって、そのような話題性に便乗して、香港の占い師たちが捲し立て囃し立てて、日本で震災に遭ってはたまらんと、香港からの航空便を減らすまでの話題となり、ついにはBBCやCNNまでが取り上げる奇怪な終末論まで発展したようである。 それはまるで、かつての、以下のような豊川信用金庫事件を思わせる「女子高生3人の雑談をきっかけとした自然発生的な流言が原因であり、犯罪性がないことが判明した。デマがパニックを引き起こすまでの詳細な過程が解明された珍しい事例であるため、心理学や社会学の教材として取り上げられることがある。」というような社会心理学的研究対象となる現象といえるかもしれない。 そこで、このような自然発生的な流言をどう扱うかについて、神秘学から予言と流言との違いを簡単に紹介する。予言が実現するかどうかは、予言者の願望、つまり利己的な思念が全く入らないかどうか、つまり無償の愛によるものかどうかなのである。 宇宙の意識は、無償の愛の全体への奉仕を導くためにあるのだから、その流れに逆らう流れは弾き返されるわけで、人類に限って言えば、人類の進化のためにならないものは本人に返されるわけなんである。これがカルマの法則である。換言すれば、願望がありすぎる、利己的な願い、行き過ぎた意識、自分さえ良ければ良い、というような利己主義は淘汰されるのである。 だから、神社などでは、利己的な願いをしても、叶わないわけで、現代でもそれが形式化されて、なんらかの願いをして、叶うかどうかの判定として、おみくじの大吉や大凶で判定されるわけである。自分だけの独り善がりの願いは、大凶で、宇宙全体や世界全体への進化に帰する願いは神の願いに叶うので、大吉なのである。そういうわけで、宇宙全体や地球全体の進化に帰する予言なのかどうか、人類の進化のためになる出来事なのかどうかが、予言が叶う一つの指針となる得るわけである。 ぶっちゃけていえば、自分だけが幸せになろうとする願いは叶わず、自分以外の全体が幸せになる願いなら叶うわけで、この世に生きるのは、利己主義をなくすための修行なのである。だから、自分の思ったようには人生は進まないようにできているわけで、他の誰かの幸せに帰さない自分の行いは拒絶されるわけなんである。独裁者は一見思い通りに進んでいるようにみえるが、実際は進化どころか退化していって、死後人間以下の存在に成り下がる可能性が高いわけなんである。 だから、予言が成就するカギは、滅私奉公にある。 さて、今回は、あまりに暑苦しいので、神秘学の話は休止して、コーヒーブレイクとして、「本能寺の変」についての最新の話題を紹介してみたい。八切史観の「本能寺の変」についての考察が、信長という人物を具体的にわかりやすくしているので、私の一番のお気に入りなのだが、その八切史観の推理を元に、最近の新説を考察してみたい。 【総集編】本能寺の変の真相を推理!すべては信康事件から始まった?!家康を消せ!光秀の家康への想い【ゆっくり解説】 - YouTube この動画は、有名な家康の子信康の切腹事件を題材にしたもので、本能寺の変は、武田家滅亡のあと、信長が後継者の信忠に政権を委譲する際、信長家臣団をリストラするために、ナンバー2の家康を追放する切欠に、信長が家康に、家康の子とされる信康の切腹を命じたが、家康が実行したので、改めて家康の怖さを感じて、家康を殺そうとして本能寺におびき寄せ、光秀に命じて殺そうとしたが、光秀が家康についてしまい、逆に信長がやられた、というような顛末の仮説である。以下は定説とされる信康事件の顛末である。家康の非情な決断「信康・築山殿事件」とは|信長の娘が発端となった事件の真相に迫る【日本史事件録】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト この動画の仮説は、信長から命を狙われていた家康が、本能寺の変の黒幕なのは八切氏の推理と一致しているが、信康が家康の子という定説どおりなのが異なっている。つまり、家康についての調査が八切史観に比べて不足している。 八切史観では、家康の出自は、いまの栃木県日光市近くにあった被差別部落民の徳川村で、幼名の竹千代という名の、「竹」を用いる名前は、部落民の子の通称名らしく、元服してから、世良田二郎三郎となり、松平氏の松平元康とは別人説をとっている。徳川家康と松平元康が別人なのを、後の徳川宗春が郷土史からつきとめたが、吉宗に享保の改革で謹慎させられてしまう。体よい口封じだったようである。 八切氏は、宗春が密かに収集した郷土史から、松平元康と世良田二郎三郎(後の徳川家康)が戦っている史料をみつけたという。その戦いが、後に一向一揆として伝わる戦だったらしい。松平元康は今川義元の一字の「元」をもらっているように、今川家の人質で最前線を守る義元の家臣だったが、世良田二郎三郎は、徳川村から、駿河(いまの静岡県)に流れた浪人だったようである。 信長と義元の衝突による、桶狭間の戦いの前後で、世良田二郎三郎は、松平元康を殺して、成り代わったようである。だから、松平信康は、家康の子ではない。だから家康は、三河の岡崎城ではなく、駿河の浜松城を主な居城にしたらしい。有名な三方ヶ原の戦いでは、松平信康を中心とした松平氏の三河での独立と後の信玄の、武田晴信の支援による、徳川家康への反抗であったようである。家康は負けて、浜松に逃げ帰るが、武田晴信は三河での信康独立を果たし帰ってすぐに病死してしまう。 つまり、松平信康は、家康の子ではなく、松平元康の子で、元康亡きあとで、家康は後見人となっていただけのようである。後見人が疎ましくなったのか、信康は、家康には内緒で、密かに、武田晴信に応援を求めて独立したのが三方ヶ原の戦いで、信長は、桶狭間の戦いの生き証人である平手汎秀や水野信元などを送っているが、平手は戦死している。家康が籠城という家臣の進言を受け入れずに出陣したのは、信康ら松平の家臣が武田と連合されると、松平元康と徳川家康が別人なのが、信長にバレる恐れがあったものと思われる。 八切氏の調査では、世良田二郎三郎こと後の徳川家康と、松平元康は別人で、信康は、元康と築山殿の子だったから、定説では信長の命令とされているが、信康と築山を殺すのに、家康自身にはためらいはなかったはずである。三方ヶ原の戦いを誘引した武田氏への内通もあり、むしろ、家康自身の命令で殺したかったはずで、それでは松平の家臣たちの反逆もがあり得るので、信長の命令にして上手く殺してしまった、と考えたほうが辻褄があう。つまり、信長は家康に巧く利用された感が強い。というのも、信長は、信康に、自分の名の「信」と、自分の娘「五徳」を嫁がせてやっているほどだからである。 それに、家康とは異なり、信長は、三方ヶ原の戦いの前までは、織田家と武田家は同盟し、武田勝頼に自分の養女の龍勝院を嫁がせている。だから、信長は、恐らく、家康を早く隠居させて、信康に三河と遠江の領主にしようと思っていたはすである。その信長の策略を知ってか知らずか、三方ヶ原の戦い以後に、織田家と武田家は断交し、晴信が亡くなり、勝頼が武田の当主となる。勝頼は、家康により、織田家と敵対する羽目になり、最後は長篠の戦いで、織田、徳川連合軍により重臣を失い、天目山で滅ぼされる。 八切氏の推理によれば、信康殺害は、信長の命令ではなく、そのように仕立てた家康の可能性が高く、というのも松平の家臣たちの反逆を封じるためと、二人を生かしておけば、武田家に内通して、三河が独立してしまうので、三方ヶ原の戦いで、現に家康は痛手を負ったので、家康が信長の命令として、独断で二人を殺したと考えるのが筋が通る。 再度いうが、信長は、自分の「信」の字を信康に与え、娘の五徳を嫁がせて、いずれは家康を隠居させて、信康に譲らせる算段だったようである。そのために、信忠らと一緒に信長正室の奇蝶の下で育てたようである。つまり、このときの家康の策略を、あとで見抜いた信長が、家康を生かしておくと、反旗を翻して、信忠がやられてしまうので、先手を打って、光秀に、家康を殺す役をもちかけたのだろう。 家康は、この信長の命令を、光秀の与力の斎藤利三から知らされて、利三に信長暗殺を持ち掛けたようである。その見返りとして、利三の娘の福を徳川政権の春日局に迎える約束をしたようである。光秀が、このやりとりをどこまで知っていたかは定かではないが、信長は、本能寺の変の直前まで、斎藤利三の1万余りの兵は、家康を殺しにいくものと思っていたようである。 本能寺の変当日に光秀はまだ愛宕山にいたようである。八切氏の史料調査によれば、愛宕山は、昔の銀行のような金貸し業をやっていて、毛利討伐の中国の援軍のために、光秀は軍資金を借りにいっていたという。本能寺で信長を殺すのに軍資金は必要ないから、家康を殺し、秀吉への援軍が目的だったはずである。 だから、八切氏は家康と斎藤利三との間での取引で、家康を助け、信長を殺すのにかわったと結論づけている。利三も信長を殺す理由があり、それは長曾我部との信長の約束が反故にされた件で、信長は四国征伐を信孝にやらせようとしていたことにある。この長曾我部黒幕説は最近史料の発見から有力視されつつある。 本能寺直前に土佐の長宗我部と明智との書状のやりとり判明 - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) 【ゆっくり解説】本能寺の変の謎...!! - YouTube 【ゆっくり解説】濃姫の生涯。悲運で謎の多い信長の正妻! - YouTube 【ゆっくり解説】裏切り者は、光秀ではない...本能寺の変の謎... - YouTube この長曾我部黒幕説には、八切氏も言及し、吉田兼見に注目している。八切氏によれば、吉田兼見は、表向きは、吉田神道の後継者で、裏では、いまの銀行のような、金貸し業を営んでいたという。当時の日本の金融は、銀資本制で行われていて、金よりも銀が貴重な存在だったので、金閣寺は金箔だが、銀閣寺は当時の銀が貴重だったため、銀箔にできなかったという。だから、秀吉は、当時の金には使い道がないので、金の茶室をつくったり、小判や大判を家臣への報償として与えた。 その銀資本の拠点が、どうやら四国の土佐の長曾我部にあったらしい。だから信長は、四国を討伐することで、当時の日本の金融を、朝廷の仏教カースト制度による銀資本から、信長自らの出自である被差別部落民を解放するために天下布武を敷いたわけで、その部落民の象徴である、砂金による、金資本に変えたかったらしい。 「秀吉にしろ、家康にしろ、「信長殺しに、光秀が関係ない」ことは、ご当人たちは、もちろん百も承知だったようである。」by八切止夫 | 嘘八百のこの世界 信長が赤や金を好んで使用したのも、赤がペルシャ由来の八の民の平家の色で、金が大陸からきた黒の朝廷藤原氏により討伐され差別された被差別部落民の色を表すからである。ちなみに、秀吉の旗印が金なり瓢箪で、家康は、金の扇子で、共に部落民出である。 「吉田兼見」明智光秀と朝廷とのつなぎ役を果たした公卿 | 戦国ヒストリー 織田軍その5 六道大軍団長(北畿西・山陰):惟任光秀の家臣団と軍団|鳥見勝成 <光秀を利用した人物>⇔吉田兼見 (1535~1610)卜部・兼実・「神祇管領長上」。吉田神社神職。兼右の息。弟に神龍院梵舜。長岡藤孝の従兄弟。織田信長と早くから交流。明智光秀の後援者。「本能寺の変」関係者。のち光秀との交流を隠し本能寺の変以前の日記を書き換える。息に兼治。養子に従兄弟の荻原兼従。<山城の豪族・佐竹宗実と相婿の関係。細川藤孝とも息子が縁戚関係。> ちなみに、家康も部落民だが、八ではなく、騎馬民族の馬の四つ足から、四つの民と呼ばれる源氏であり、源氏の色は白である。大陸から来た朝廷は藤原の仏教徒で、黒色である。大陸で唐を滅ぼした契丹の橘は黄色である。明治維新は四民平等といわれるが、士農工商は後付けで、本当の意味は、源平藤橘の四民を意味するらしい。南朝明治帝の下に仏教カースト制度をなくし、四民平等になるという意味かもしれない。だから明治維新は別名南朝革命とも呼ばれるようである。 だから明治維新の元勲たちの身分は部落民出自なので、何度も姓を改名している。西郷は菊池だし、木戸は桂だし、坂本は才谷である。だから江戸時代は公武合体の時代といえるし、明治時代は南朝帝以下の四民平等といえるのだが、中途半端に貴族院だけが残ってしまった。米国を手本に身分制度の平等化を理想とし、ワシントンを尊敬していた西郷はビスマルクの軍国主義に魅かれた大久保と袂をわかち、勝海舟などは長州閥の伊藤俊輔などに中途半端に終わった明治維新への不満を述べている。 西郷は廃藩置県で武士階級をなくしたことでほとんど気力を失いかけ、大久保らの洋行組による明治政府の欧米化軍国主義の看板のすげ替えに愛想を尽かして、薩摩に帰るが、弟子たちに担がれて、再び独立運動を西南戦争で起こすことになり失敗して終わる。 その後、明治政府の棄民政策で戦乱の世が続くが、貴族の象徴だった貴族院も太平洋戦争で米国に敗れて、参議院になるわけで、形式上でも、日本国憲法によって、天皇の統合象徴の元に国民平等の政体ができたといえるかもしれない。しかし、政治の現状を見れば再び官僚主義による上級国民の様な階級ができつつあり、せっかくできた道半ばの民主主義が江戸時代の身分制度に戻るような気配もあり誠に残念と言わさるを得ない。話が逸れてしまったが、戦国時代の武力による身分制度打破が信長の天下布武であるのはいうまでもない。 結局、信長は部落民解放を天下布武で、成し遂げたものの、その権力を実力ではなく、後継者を世襲制にしてしまったことと、織田家を神格化し過ぎて、家臣たちに不評を買い、最後は見放されて、共同で討ち果たされてしまう形になったといえるかもしれない。 その後、秀吉が実力で、信長の跡を継ぐが、秀吉も世襲制にしようとして家康に滅ぼされてしまうが、何の因縁か、家康の代わりに、信長を討ち果たした斎藤利三の娘の阿福、つまり春日局に、徳川幕府を三代家光から乗っ取られてしまったわけで、体裁上は世襲制だが、権力闘争という意味の実力主義であるのは、面白いところである。 江戸幕府体制の精神的な支柱をつくった天海が、明智光秀の子息という噂が残っているのは面白い歴史の因縁といえるかもしれない。家光は、天海と阿福の子という噂も残っている。結局、信長の命令通りに、家康は、光秀に殺されたのかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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